偽りの婚約者さまは、この関係を終わらせる気がない!
久世部長の自宅は、都心に建つ低層マンションの一室だった。
広いリビングには大きな窓があり、家具はどれもシンプルなのに質がよさそうだ。
物が少ないせいか、一見するとモデルルームのようにも見える。
だけど、棚には読みかけらしい本が何冊か置かれ、ソファにはブランケットが無造作に掛けられていた。ちゃんと久世部長がここで暮らしているのだとわかる程度の生活感はある。
最近はタワーマンションよりも、こういう戸数の少ない高級低層マンションのほうが高額な場合もあると聞いたことがある。
だからこそ少なくとも、三十一歳の会社員が気軽に住める部屋には見えない。
「それにしても……こんなところに住んでるなんて、部長って何者なんですか?」
「いや……まあ、それは……」
珍しく歯切れの悪い返事をして、久世部長はわずかに視線を逸らした。
お見合いの話といい、車といい、この家といい、やっぱりこの人には私の知らないことがたくさんあるらしい。
けれど、部長の様子を見ていると、こういうことはあまり聞かれたくないのかもしれないと思った。
「いや、聞かれたくないならもう聞きません。すみません、変なこと聞いて」
私が伝えると、久世部長はどこか安心したように表情を緩めた。
「部屋数はあるから、一部屋好きに使っていい。夕食は?」
「いえ……まだです。帰ったら食べようと思ってたので」
「そうか。じゃあ、とりあえずシャワーを先に浴びておいで。少しは気分も落ち着くだろ。ほら、一緒に来て。ざっと説明するから」
「……はい」
案内された洗面室は広かった。
久世部長は収納から新しいタオルを出すと、シャンプーやボディソープの場所、ドライヤーの使い方までひと通り説明してくれた。
「足りないものがあったら呼んでくれ。じゃあ、ゆっくりどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
それだけ言うと、久世部長はあっさりと洗面室から出ていき、きちんと扉まで閉めた。
ひとりになった私は洗面台の前に立ったまま、鏡に映る自分をしばらく見つめる。
少し乱れた髪に、疲れた顔。さっきまでの出来事を思い返せば、今こうして無事にここにいること自体が、なんだか現実ではないような気もした。