偽りの婚約者さまは、この関係を終わらせる気がない!
その声に我に返って隣を見ると、さっきまで理玖と向き合っていたときの厳しい表情はもうなく、いつもの穏やかな慧さんに戻っている。
「あの……ありがとうございます。色々……。昨日からずっと助けてもらってばかりで」
「いや、それより俺も、ここまでになるまで気づかなくてすまなかった。仕事では相沢さんとも関わりがあったのに」
「部長が謝ることではないです……」
「ほら、また名前」
「あ……」
指摘されて、思わず口元を押さえる。
会社ではずっと部長と呼んできたのだから、そう簡単に癖が抜けるはずもない。
それでも慧さんは、二人でいるときに私が『部長』と呼ぶたび、こうして律儀に訂正してくる。
「すみません。……慧さん」
「うん」
名前を呼ぶと、それだけで満足したように目を細める。
たったそれだけのことなのに、その表情を見ると胸の奥がくすぐったくなるような気がして、私は誤魔化すようにアイスコーヒーへ手を伸ばした。
「あのさ……じゃあ、今日のお礼、してくれる?」
「お礼? もちろんです。なんでもいってください」
「ああ。じゃあ、ここ、悠里のおごりでよろしくな」
「もちろんです。それくらい払わせてください」
そんなのは、言われなくても元々そのつもりだった。
昨日は突然呼び出した私のところまで来てくれて、家に泊めてもらって、夕食も朝食も食べさせてもらったうえ、今日は理玖とまで話をしてくれた。
コーヒー一杯で返せるようなものではない。
きっと慧さんもそれがわかっていて、私がこれ以上申し訳なく思わないように、わざとこんな小さな『お礼』を要求してくれたのだろう。
そういうところまで、この人はずるい。
私が何かを返そうとしても、いつも先回りして大したことではないようにしてしまう。