四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

自分を守るということ

 その日は、朝から雨が降っていた。

 四浦の海も、いつもより静かだった。

 「あまなぎ」の窓には、細かな雨粒がいくつも流れている。

 カラン、カラン。

「いらっしゃいませ」

 夕凪が顔を上げる。

 入ってきたのは、若い女性だった。

 傘を閉じ、入口で少し立ち止まる。

「……一人なんですけど」

「はい。こちらのお席へどうぞ」

 女性は窓際の席に座った。

 夕凪は、いつものようにメニューを渡す。

「ごゆっくり決めてくださいね」

「ありがとうございます」

 女性はメニューを開いた。

 けれど、すぐには注文を決められない。

 何度もページをめくっては、閉じる。

 そして、小さな声で尋ねた。

「あの……刺身とか、ありませんか?」

「刺身ですか?」

「はい」

 女性は少しだけ笑った。

「妊娠中、食べられなかったので……」

「お魚、お好きなんですね」

「大好きなんです」

 その言葉を言った瞬間、女性の目が少し潤んだ。

「……ずっと食べたかったんです」

 夕凪は、その表情を見て、何かを察した。

「ありますよ」

「本当ですか?」

「はい。少しお待ちくださいね」

 夕凪は厨房へ向かった。

 鯛、鰤、サーモン。

 新鮮な魚を丁寧に捌いていく。

 ご飯を炊き、ふっくらと炊き上がった白いご飯をお茶碗によそう。

 そして、甘くて美味しい醤油とわさびを添えた。

 飲み物は、女性が希望した冷たい緑茶。

「お待たせしました」

 テーブルに料理を並べる。

「鯛と鰤とサーモンです」

「……ありがとうございます」

 女性は、しばらく料理を見つめていた。

 そして、ぽつりと呟く。

「食べても……いいんですよね」

「もちろんです」

「ありがとうございます」

 女性は、箸を持った。

 鯛を醤油につける。

 わさびを少しだけ添える。

 そして、一口。

「……美味しい」

 その瞬間、女性の目から涙がこぼれた。

「すみません……」

「謝らなくて大丈夫ですよ」

 夕凪は静かに答えた。

「ゆっくり食べてください」

 女性は涙を拭った。

「……私、どうしたらいいんですか?」

 夕凪は急かさなかった。

「よかったら、お話しませんか?」

 女性はしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくりと話し始めた。

「私、少し前まで妊娠してたんです」

「はい」

「9週5日でした」

 女性は冷たい緑茶を一口飲んだ。

「産みたかったんです」

 声が震える。

「でも……彼が軽度の知的障害があるって言われていて」

「……」

「彼は、産んでほしいって言ったんです」

「はい」

「貯金が50万円あるから大丈夫だって」

 女性は苦しそうに笑った。

「でも、私は大分市のほうで、彼は津久見のほうなんです」

「生活する場所も違ったんですね」

「はい」

 女性は頷いた。

「友達から聞いたんです」

「何をですか?」

「彼、借金があるって」

「……」

「親からお金を借りていることもあるって」

 女性は俯いた。

「彼の親にも話し合いに来てもらいたかった」

 声が小さくなる。

「でも……来なかったんです」

 夕凪は黙って聞いていた。

「中絶するなら早いほうがいいって言われて」

「……はい」

「産みたい気持ちもあった」

 女性は、サーモンを一切れ箸で持ち上げた。

「でも、産んだ後のことを考えたら……怖くなって」

「……」

「結局、10週5日で手術をしました」

 箸が止まる。

「彼の親からは、何もありませんでした」

「……」

「大丈夫とも言ってくれなかった」

 女性の目から、また涙がこぼれた。

「私……どうしたらいいんですか?」

 夕凪は、すぐに答えなかった。

 この人が今必要としているのは、簡単な答えではないと思ったから。

「まず……」

 夕凪がゆっくり口を開く。

「今まで、本当にたくさん悩んだんですね」

 女性は俯いたまま頷いた。

「産みたい気持ちがあったことも」

「……はい」

「手術を受ける決断をしたことも」

「……はい」

「どちらも、簡単に決められることではなかったと思います」

 女性は唇を噛んだ。

「私、赤ちゃんを諦めたことを後悔してるんです」

「そう思う日があってもいいんですよ」

「……」

「悲しいと思ってもいいし、苦しいと思ってもいい」

 夕凪は優しく続けた。

「自分を責め続けなくていいんです」

 女性は涙を拭った。

「彼とは……離れたいんです」

「はい」

「でも、離れようとすると執着してきて……」

「辛いですね」

「何度も戻ってきてって言われて」

「……」

「もう、どうしたらいいのか分からなくて」

 夕凪は女性をまっすぐ見た。

「離れたいと思っているなら、その気持ちを大切にしていいと思います」

「……いいんですか?」

「はい」

「でも、彼は私のことを好きだって」

「相手があなたを好きでも、あなたが一緒にいたいと思えなければ、関係を続けなければいけないわけではありません」

 女性は黙って聞いている。

「それに、今は一人で抱えないほうがいいと思います」

「……」

「信頼できる友達や家族に、今の状況を話してください」

「はい」

「もし離れたいと伝えても連絡が止まらなかったり、怖いと感じることがあるなら、身近な相談窓口や専門機関にも頼っていいんです」

 女性は小さく頷いた。

「助けてもらっていいんですね」

「もちろんです」

 夕凪は微笑んだ。

「自分を守ることは、わがままじゃありません」

「……自分を守る」

「はい」

 女性はその言葉を、何度も心の中で繰り返すように呟いた。

「自分を守っても……いいんですね」

「いいんですよ」

 夕凪は、静かに答えた。

「私は、あくまでも助言しかできません」

「はい」

「これからどうするかを決めるのは、あなた自身です」

 女性は鯛をもう一切れ食べた。

「……美味しい」

「よかった」

「ずっと食べたかったんです」

「好きなもの、我慢していたんですね」

「はい」

 今度は、泣きながら笑った。

「鰤も食べていいですか?」

「もちろん」

「サーモンも」

「どうぞ」

「全部食べます」

「いっぱい食べてください」

 女性は、少しずつ箸を進めた。

 鯛。

 鰤。

 サーモン。

 温かいご飯。

 甘い醤油。

 そして、冷たい緑茶。

 久しぶりに、自分の「好き」を取り戻していくようだった。

「私……」

「はい」

「今日、ここに来てよかったです」

「そう言ってもらえてよかった」

「まだ、悲しいです」

「うん」

「きっと、すぐには元気になれないと思います」

「無理に元気にならなくても大丈夫ですよ」

「……はい」

「少しずつでいいんです」

 女性は、最後の一切れのサーモンを食べた。

「ごちそうさまでした」

「はい」

「美味しかったです」

 女性は会計を済ませ、席を立った。

 店の扉へ向かう前に、振り返る。

「また……来てもいいですか?」

「もちろんです」

「今度は、ちゃんと笑って来たいです」

 夕凪は微笑んだ。

「いつでもお待ちしています」

 カラン、カラン。

 女性が店を出ていく。

 雨は、まだ降っていた。

 けれど、彼女の足取りは、来たときよりほんの少しだけ軽くなっていた。

 夕凪は窓の外を眺めた。

 人生には、自分一人では抱えきれないほどの雨が降ることがある。

 それでも――。

 雨宿りをする場所があればいい。

 誰かに話を聞いてもらえる場所があればいい。

 そしていつか、自分の足で歩き出せる日が来ればいい。

「あまなぎ」は、そんな場所でありたい。

 夕凪は空いた器を片付けながら、小さく呟いた。

「いつか、心の雨が上がりますように」

 窓の向こうで、四浦の海が静かに揺れていた。
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