四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

海の向こうにある未来

雨の四浦は、今日も静かだった。

山から降りてきた霧が、海を白く包んでいる。

「あまなぎ」の窓には、細かな雨粒がいくつも流れていた。

夕凪はカウンターの中で、コーヒー豆を挽いていた。

雨の日だけ開く、小さな喫茶店。

今日も誰かの心が、少しだけ休めるように。

店内には、コーヒーの香りと、焼きたてのお菓子の甘い匂いが漂っていた。

カラン、カラン――。

扉のベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

夕凪が顔を上げる。

そこに立っていた女性を見て、夕凪は目を細めた。

「あ……」

女性も、夕凪に気づいて笑った。

「お久しぶりです」

「お久しぶりです」

以前、この店に来てくれた女性だった。

あの日は、ひどく悲しそうな顔をしていた。

魚が大好きなのに、魚を食べることさえできないほど、心も身体も疲れていた。

夕凪が用意した刺身を食べながら、少しずつ心の中を話してくれた。

あれから、ずいぶん時間が経った。

そして今日は――

彼女の隣に、一人の男性がいた。

「こちらは?」

夕凪が尋ねる。

女性は少し照れながら、男性を見る。

「婚約者です」

男性は優しく頭を下げた。

「初めまして」

「初めまして。どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」

二人は窓際の席に座った。

女性は窓の外を眺める。

雨に煙る四浦の海。

以前と同じ景色。

でも、今日は隣に誰かがいる。

「……懐かしいです」

女性が言った。

「ここに来たときは、すごく苦しかったな」

夕凪は静かにうなずいた。

「覚えていますよ」

「あの日、夕凪さんが魚を出してくれて」

「はい」

「久しぶりに『おいしい』って思えたんです」

女性は笑った。

「だから今日は、また刺身が食べたくて」

「ふふ。やっぱりお魚なんですね」

「大好きなので」

「覚えていますよ」

夕凪はメニューを開いた。

「では、ご注文をどうぞ」

女性は迷わず言った。

「刺身の定食をお願いします」

「はい」

夕凪は男性を見る。

「婚約者さんは?」

男性はメニューを見て、

「僕はナポリタンとウーロン茶で」

「かしこまりました」

夕凪は厨房へ向かった。

しばらくして、二人の料理が運ばれてくる。

女性の前には、刺身の定食。

鯛、ぶり、サーモン。

白いご飯に味噌汁。

男性の前には、昔ながらのナポリタン。

そしてウーロン茶。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

女性は刺身を見て、嬉しそうに笑った。

「いただきます」

鯛を一切れ、醤油につける。

そして口へ運ぶ。

「……おいしい」

夕凪は笑った。

「よかったです」

「やっぱり、お魚好きだなぁ」

隣の男性も笑う。

「知ってる」

「ふふ」

二人の間に、穏やかな時間が流れていく。

男性はナポリタンを一口食べた。

「うん。おいしい」

「ありがとうございます」

「また来たいね」

「うん」

女性は刺身を食べながら、ふと男性を見る。

「ねえ」

「ん?」

「この前、お寺に一緒に行ってくれたでしょう?」

「うん」

「ありがとう」

男性は、優しく笑った。

「当たり前だよ」

女性は少し俯いた。

「私、今でもあの子のことを大切に思ってる」

「うん」

「忘れたわけじゃないの」

「わかってるよ」

「これからも、ちゃんとお参りしたい」

「一緒に行くよ」

「……ありがとう」

男性は、テーブルの上でそっと彼女の手を握った。

「一人で行かなくていいから」

女性は小さく笑った。

「うん」

夕凪は二人を見ながら、静かに微笑んでいた。

悲しみが消えたわけではない。

忘れたわけでもない。

でも、悲しみを抱えたままでも、人は未来へ進める。

隣にいてくれる人がいる。

一緒に思い出してくれる人がいる。

それだけで、少しだけ歩きやすくなることもある。

女性は刺身を最後の一切れまで、ゆっくり味わった。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

男性もナポリタンを食べ終え、ウーロン茶を飲んだ。

「おいしかったです」

「ありがとうございます」

二人は席を立った。

「お会計お願いします」

「はい」

夕凪はカウンターへ戻る。

「刺身の定食が一つ、ナポリタンとウーロン茶が一つですね」

「はい」

二人はお会計を済ませた。

女性が財布をしまう。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」

そのとき。

「あ、そうだ」

夕凪が思い出したように厨房へ戻った。

「少し待っていてくださいね」

「はい?」

女性と男性が顔を見合わせる。

しばらくして、夕凪が小さな袋を二つ持って戻ってきた。

袋の中には、可愛らしく包まれたクッキーが入っている。

「はい。これはお持ち帰り用です」

「え?」

女性が驚く。

「サービスです」

「そんな……」

「いいんですよ」

夕凪は笑った。

「二人でゆっくり食べてください」

男性も袋を受け取りながら言った。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

女性はクッキーの袋を両手で大切そうに持つ。

「……嬉しい」

「よかった」

「家に帰ってから、二人で食べます」

「はい」

男性が笑った。

「お寺から帰ってきてから食べようか」

「うん」

女性も笑う。

「そのほうがいいね」

夕凪は、その言葉を聞いて微笑んだ。

「きっとおいしいですよ」

「楽しみです」

二人は扉の前まで歩いていく。

女性が振り返った。

「夕凪さん」

「はい?」

「あの日、ここに来てよかったです」

夕凪は黙って聞いた。

「何も考えられなかった私に、魚を食べさせてくれて」

「……」

「また『おいしい』って思えるようになって」

女性は隣の男性を見る。

「この人と出会って」

男性も優しく笑った。

「婚約することができました」

「おめでとうございます」

夕凪は心からそう言った。

「ありがとうございます」

女性は少しだけ目を潤ませた。

「これからも、あの子のことを大切に思いながら、生きていきます」

「はい」

「そして、この人と幸せになりたいです」

男性が彼女の手を握る。

「一緒に幸せになろう」

「うん」

二人は笑った。

カラン、カラン――。

扉が開く。

外はまだ雨。

男性が傘を開く。

女性がその中へ入る。

二人の肩が寄り添う。

そして、クッキーの入った袋を大切そうに持ちながら、雨の道を歩いていった。

「帰り、お寺に寄ろうか」

「うん」

「一緒にお参りしよう」

「ありがとう」

二人の声が、雨の向こうへ消えていく。

夕凪は、窓からその姿を見送った。

雨はまだ降っている。

けれど、雲の向こうには少しだけ明るさが見えていた。

悲しみは、消えなくてもいい。

忘れなくてもいい。

大切に思い続けてもいい。

その想いを抱えたまま、

新しい人と幸せをつくっていくこともできる。

今日、二人が持ち帰ったのは、

小さなクッキーだけではない。

これからも一緒に歩いていくという、

二人の新しい約束だった。

「あまなぎ」は今日も、

雨の日に訪れた心へ、

小さな温かさを手渡している。

そして、雨の向こうには――

いつかきっと、

晴れた四浦の海が待っている。
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