四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜
長生きする約束
雨の四浦は、今日も静かだった。
山から下りてきた霧が、海を白く包んでいる。
「あまなぎ」の窓を、細かな雨粒がゆっくりと流れていた。
カラン、カラン――。
扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
夕凪が顔を上げると、そこに立っていたのは、以前来たことのあるおじいちゃんだった。
「こんにちは」
「こんにちは。今日はお一人なんですね」
「うん。ばあさんは、今日は施設のほうにお願いしてきたんです」
夕凪は小さくうなずいた。
以前は、奥さんと二人で来てくれた。
奥さんは少しずつ記憶を失っていて、おじいちゃんのことも忘れてしまうことがある。
それでもおじいちゃんは、ずっと奥さんのそばにいた。
「今日は何にしますか?」
「前と同じものを」
「コーヒーとチーズケーキですね」
「うん。それでお願いします」
「かしこまりました」
おじいちゃんは、いつもの窓際の席に座った。
夕凪がコーヒーとチーズケーキを運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
おじいちゃんはコーヒーを一口飲み、チーズケーキを見つめた。
「……やっぱり、ここは落ち着くなぁ」
「ありがとうございます」
しばらく静かに過ごしていたおじいちゃんだったが、やがてぽつりと口を開いた。
「夕凪さん」
「はい」
「この前、ここに来た二人の子ども……」
夕凪はすぐに思い出した。
中学生くらいのお兄ちゃんと、小さな女の子。
「しずくちゃんと、お兄ちゃんですね」
「そうです」
おじいちゃんは、ゆっくりとうなずいた。
「実は、あの二人は私のひ孫なんです」
「そうだったんですね」
夕凪は驚いた。
「あの子たちが、ここに来ていたことを知って……」
おじいちゃんは、少しだけ苦しそうな顔をした。
「胸が痛くなりました」
「……」
「家で、あんなに頑張っていたんだと思って」
おじいちゃんはカップを両手で包む。
「あの子たちの親は、今いろいろ大変でね」
「はい」
「夫婦でケンカが続いていることも、聞いています」
夕凪は静かに聞いていた。
「それで……決めたんです」
「何をですか?」
「私が、あの二人を引き取ろうと思っています」
夕凪は目を見開いた。
「しずくちゃんと、お兄ちゃんを?」
「はい」
おじいちゃんは、はっきりとうなずいた。
「私が育てます」
「でも……」
夕凪は少しだけ言葉を選んだ。
「おじいちゃんのお身体のこともありますよね」
「そうですね」
おじいちゃんは笑った。
「私も、もう若くないですから」
そして、少し間を置いて言った。
「でも、長生きします」
「……え?」
「長生きするんです」
おじいちゃんは、子どものように笑った。
「ひ孫たちの成長を見るために」
「……」
「しずくが大きくなるところを見たい」
「はい」
「お兄ちゃんが高校生になって、大学に行って、仕事をするところも見たい」
「……はい」
「だから、私はまだまだ死ねませんよ」
夕凪は、優しく笑った。
「素敵な目標ですね」
「でしょう?」
おじいちゃんは笑った。
けれど、その笑顔はすぐに曇った。
「ただね……」
「はい」
「孫に、これ以上迷惑をかけたくないんです」
夕凪は黙って聞いた。
「娘……いや、私の子どもにも、もう家庭があります」
「はい」
「そこに、ひ孫たちまで抱えさせるわけにはいかない」
「……」
「それに、ばあさんのこともある」
おじいちゃんは、テーブルの上に視線を落とした。
「私は、ばあさんを最後まで自分で見てあげたいと思っていました」
「はい」
「でも……私一人では、もう難しい」
その言葉は、とても静かだった。
「ばあさんには、これからもっと介護が必要になると思います」
「……はい」
「私は、ばあさんを愛しています」
「はい」
「だからこそ、ちゃんとプロの人に見てもらいたいんです」
おじいちゃんの目に涙が浮かんだ。
「施設に入ってもらって、介護のプロにケアしてもらう」
「……」
「私が無理をして倒れたら、それこそばあさんに迷惑をかける」
「そうですね」
「それに、私まで倒れたら、ひ孫たちを引き取ることもできなくなる」
おじいちゃんは、涙を拭った。
「だから……ばあさんには、施設で安心して過ごしてもらう」
「そして、おじいちゃんはひ孫さんたちを?」
「はい」
「二人を守る」
「はい」
おじいちゃんは、まっすぐに答えた。
「孫に迷惑をかけるんじゃなくて、私にできることをしたいんです」
夕凪は、その言葉を聞いて静かにうなずいた。
「おじいちゃんは、優しいですね」
「優しいんじゃありませんよ」
「え?」
「家族だから、できることをしたいだけです」
夕凪は微笑んだ。
「でも、引き取ることも、施設のことも、一人で決めなくて大丈夫ですよ」
「はい」
「ご家族や、施設の職員さん、必要な専門の方にも相談しながら、二人にとって一番安心できる方法を探してくださいね」
「わかっています」
おじいちゃんはうなずいた。
「ちゃんと相談します」
「それなら、きっと大丈夫です」
おじいちゃんは、少し笑った。
そしてチーズケーキを一口食べる。
「……おいしいな」
「ありがとうございます」
「ばあさんにも、また食べさせてあげたい」
「今度、一緒に来られそうですか?」
「うん」
おじいちゃんは笑った。
「施設の外出ができる日に、連れてきます」
「お待ちしています」
そのときだった。
カラン、カラン――。
扉のベルが鳴った。
夕凪が振り向く。
そこには――
「夕凪さん!」
元気な声。
「しずくちゃん?」
しずくが立っていた。
その後ろには、お兄ちゃんもいる。
「また来たの?」
「うん!」
しずくは嬉しそうに店内へ入ってきた。
そして、おじいちゃんを見つける。
「……おじいちゃん?」
「しずく!」
おじいちゃんの顔が、一気にほころんだ。
「なんでここにいるの?」
「夕凪さんのところに来たの!」
お兄ちゃんも少し驚いた顔をする。
「おじいちゃんも、ここに来てたんだ」
「そうだよ」
おじいちゃんは二人を見つめた。
しばらく何も言わずに、ただ二人を見ていた。
そして、ゆっくり立ち上がる。
「おじいちゃん?」
しずくが首を傾げる。
「……しずく」
「なあに?」
「お兄ちゃんも」
「うん」
「これから、もっと一緒にいような」
二人は顔を見合わせた。
「……え?」
おじいちゃんは笑った。
「おじいちゃんが、二人を守るから」
お兄ちゃんは、しばらく黙っていた。
そして、小さくうなずいた。
「……うん」
しずくは、おじいちゃんのところへ駆け寄った。
「おじいちゃん、大好き!」
「おじいちゃんも大好きだよ」
その光景を見ながら、夕凪は微笑んだ。
雨はまだ降っている。
けれど、窓の向こうの霧は少しずつ薄くなっていた。
おじいちゃんは、もう一度コーヒーを飲んだ。
長生きをする。
ひ孫たちの成長を見るために。
妻には、愛しているからこそ、専門の人の手を借りてもらう。
そして、子どもや孫たちに無理をさせないために、自分にできることをする。
それは、家族を手放すことではない。
家族を守るための、新しい選択だった。
雨の向こうに、少しだけ光が差した。
四浦の海が、霧の向こうから姿を見せ始める。
「あまなぎ」は今日も、
誰かの迷いを、
少しだけ晴らしていた。
そして、おじいちゃんの胸には――
新しい約束が生まれていた。
――私は、まだまだ長生きする。
ひ孫たちが大きくなる、その日まで。
山から下りてきた霧が、海を白く包んでいる。
「あまなぎ」の窓を、細かな雨粒がゆっくりと流れていた。
カラン、カラン――。
扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
夕凪が顔を上げると、そこに立っていたのは、以前来たことのあるおじいちゃんだった。
「こんにちは」
「こんにちは。今日はお一人なんですね」
「うん。ばあさんは、今日は施設のほうにお願いしてきたんです」
夕凪は小さくうなずいた。
以前は、奥さんと二人で来てくれた。
奥さんは少しずつ記憶を失っていて、おじいちゃんのことも忘れてしまうことがある。
それでもおじいちゃんは、ずっと奥さんのそばにいた。
「今日は何にしますか?」
「前と同じものを」
「コーヒーとチーズケーキですね」
「うん。それでお願いします」
「かしこまりました」
おじいちゃんは、いつもの窓際の席に座った。
夕凪がコーヒーとチーズケーキを運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
おじいちゃんはコーヒーを一口飲み、チーズケーキを見つめた。
「……やっぱり、ここは落ち着くなぁ」
「ありがとうございます」
しばらく静かに過ごしていたおじいちゃんだったが、やがてぽつりと口を開いた。
「夕凪さん」
「はい」
「この前、ここに来た二人の子ども……」
夕凪はすぐに思い出した。
中学生くらいのお兄ちゃんと、小さな女の子。
「しずくちゃんと、お兄ちゃんですね」
「そうです」
おじいちゃんは、ゆっくりとうなずいた。
「実は、あの二人は私のひ孫なんです」
「そうだったんですね」
夕凪は驚いた。
「あの子たちが、ここに来ていたことを知って……」
おじいちゃんは、少しだけ苦しそうな顔をした。
「胸が痛くなりました」
「……」
「家で、あんなに頑張っていたんだと思って」
おじいちゃんはカップを両手で包む。
「あの子たちの親は、今いろいろ大変でね」
「はい」
「夫婦でケンカが続いていることも、聞いています」
夕凪は静かに聞いていた。
「それで……決めたんです」
「何をですか?」
「私が、あの二人を引き取ろうと思っています」
夕凪は目を見開いた。
「しずくちゃんと、お兄ちゃんを?」
「はい」
おじいちゃんは、はっきりとうなずいた。
「私が育てます」
「でも……」
夕凪は少しだけ言葉を選んだ。
「おじいちゃんのお身体のこともありますよね」
「そうですね」
おじいちゃんは笑った。
「私も、もう若くないですから」
そして、少し間を置いて言った。
「でも、長生きします」
「……え?」
「長生きするんです」
おじいちゃんは、子どものように笑った。
「ひ孫たちの成長を見るために」
「……」
「しずくが大きくなるところを見たい」
「はい」
「お兄ちゃんが高校生になって、大学に行って、仕事をするところも見たい」
「……はい」
「だから、私はまだまだ死ねませんよ」
夕凪は、優しく笑った。
「素敵な目標ですね」
「でしょう?」
おじいちゃんは笑った。
けれど、その笑顔はすぐに曇った。
「ただね……」
「はい」
「孫に、これ以上迷惑をかけたくないんです」
夕凪は黙って聞いた。
「娘……いや、私の子どもにも、もう家庭があります」
「はい」
「そこに、ひ孫たちまで抱えさせるわけにはいかない」
「……」
「それに、ばあさんのこともある」
おじいちゃんは、テーブルの上に視線を落とした。
「私は、ばあさんを最後まで自分で見てあげたいと思っていました」
「はい」
「でも……私一人では、もう難しい」
その言葉は、とても静かだった。
「ばあさんには、これからもっと介護が必要になると思います」
「……はい」
「私は、ばあさんを愛しています」
「はい」
「だからこそ、ちゃんとプロの人に見てもらいたいんです」
おじいちゃんの目に涙が浮かんだ。
「施設に入ってもらって、介護のプロにケアしてもらう」
「……」
「私が無理をして倒れたら、それこそばあさんに迷惑をかける」
「そうですね」
「それに、私まで倒れたら、ひ孫たちを引き取ることもできなくなる」
おじいちゃんは、涙を拭った。
「だから……ばあさんには、施設で安心して過ごしてもらう」
「そして、おじいちゃんはひ孫さんたちを?」
「はい」
「二人を守る」
「はい」
おじいちゃんは、まっすぐに答えた。
「孫に迷惑をかけるんじゃなくて、私にできることをしたいんです」
夕凪は、その言葉を聞いて静かにうなずいた。
「おじいちゃんは、優しいですね」
「優しいんじゃありませんよ」
「え?」
「家族だから、できることをしたいだけです」
夕凪は微笑んだ。
「でも、引き取ることも、施設のことも、一人で決めなくて大丈夫ですよ」
「はい」
「ご家族や、施設の職員さん、必要な専門の方にも相談しながら、二人にとって一番安心できる方法を探してくださいね」
「わかっています」
おじいちゃんはうなずいた。
「ちゃんと相談します」
「それなら、きっと大丈夫です」
おじいちゃんは、少し笑った。
そしてチーズケーキを一口食べる。
「……おいしいな」
「ありがとうございます」
「ばあさんにも、また食べさせてあげたい」
「今度、一緒に来られそうですか?」
「うん」
おじいちゃんは笑った。
「施設の外出ができる日に、連れてきます」
「お待ちしています」
そのときだった。
カラン、カラン――。
扉のベルが鳴った。
夕凪が振り向く。
そこには――
「夕凪さん!」
元気な声。
「しずくちゃん?」
しずくが立っていた。
その後ろには、お兄ちゃんもいる。
「また来たの?」
「うん!」
しずくは嬉しそうに店内へ入ってきた。
そして、おじいちゃんを見つける。
「……おじいちゃん?」
「しずく!」
おじいちゃんの顔が、一気にほころんだ。
「なんでここにいるの?」
「夕凪さんのところに来たの!」
お兄ちゃんも少し驚いた顔をする。
「おじいちゃんも、ここに来てたんだ」
「そうだよ」
おじいちゃんは二人を見つめた。
しばらく何も言わずに、ただ二人を見ていた。
そして、ゆっくり立ち上がる。
「おじいちゃん?」
しずくが首を傾げる。
「……しずく」
「なあに?」
「お兄ちゃんも」
「うん」
「これから、もっと一緒にいような」
二人は顔を見合わせた。
「……え?」
おじいちゃんは笑った。
「おじいちゃんが、二人を守るから」
お兄ちゃんは、しばらく黙っていた。
そして、小さくうなずいた。
「……うん」
しずくは、おじいちゃんのところへ駆け寄った。
「おじいちゃん、大好き!」
「おじいちゃんも大好きだよ」
その光景を見ながら、夕凪は微笑んだ。
雨はまだ降っている。
けれど、窓の向こうの霧は少しずつ薄くなっていた。
おじいちゃんは、もう一度コーヒーを飲んだ。
長生きをする。
ひ孫たちの成長を見るために。
妻には、愛しているからこそ、専門の人の手を借りてもらう。
そして、子どもや孫たちに無理をさせないために、自分にできることをする。
それは、家族を手放すことではない。
家族を守るための、新しい選択だった。
雨の向こうに、少しだけ光が差した。
四浦の海が、霧の向こうから姿を見せ始める。
「あまなぎ」は今日も、
誰かの迷いを、
少しだけ晴らしていた。
そして、おじいちゃんの胸には――
新しい約束が生まれていた。
――私は、まだまだ長生きする。
ひ孫たちが大きくなる、その日まで。