四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜
海色のドレス
雨の日の「あまなぎ」。
四浦の海は、今日も静かに雨に煙っていた。
夕凪が店内のテーブルを拭いていると、カラン、カランとベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、高校生くらいの男の子だった。
制服の肩には、細かな雨粒が残っている。
「……ここ、いいですか?」
「もちろん。好きな席にどうぞ」
男の子は窓際の席に座った。
「ご注文、お決まりですか?」
「チーズケーキと、紅茶をお願いします」
「ホットでいい?」
「はい」
「かしこまりました」
夕凪はチーズケーキを切り、紅茶を淹れた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
男の子は紅茶を一口飲み、チーズケーキを食べた。
「……美味しい」
「よかった」
しばらくして、男の子がぽつりと口を開いた。
「僕……好きな子がいるんです」
「うん」
「でも、その子には、好きだった人がいて……」
男の子はチーズケーキを見つめた。
「その人に傷つけられたんです」
「そうなんだね」
「それなのに……まだ、その人のことが好きみたいなんです」
夕凪は急かさずに話を聞いた。
「僕は、その子のことが好きです。でも、今告白したら……困らせるんじゃないかなって」
「その子のことを、大切に思ってるんだね」
「はい」
夕凪は少し考えてから言った。
「じゃあ、少しだけ私の幼馴染の話をしてもいい?」
「幼馴染?」
「うん。湯布院で『むすび洋菓子店』をしている、結月っていう女の子」
男の子は頷いた。
「結月にも、高校生の頃、好きな人がいたの」
夕凪はゆっくり話し始めた。
「二人は付き合っていた」
「……」
「結月は、彼の好きなチーズケーキを作って、何度も渡していたんだって」
お菓子を作ることが大好きだった結月。
大好きな人のために、一つ一つ丁寧に作っていた。
けれど、高校卒業が近づくにつれて、二人の間には少しずつ変化が訪れた。
「彼はね、結月を嫌いになったわけじゃなかった」
夕凪は静かに続けた。
「むしろ、結月のことを愛していた」
「じゃあ……どうして?」
「卒業するためだったの」
男の子が顔を上げる。
「彼は、結月のことを忘れようとした」
好きだからこそ。
このままでは前に進めないと思った。
卒業して、それぞれの人生を歩くために。
「だから、『結月のことを忘れる』って決めたんだって」
それは、結月にとっても苦しいことだった。
それでも結月は、自分のやるべきことを続けた。
そして、同窓会の日。
結月は、クラスのみんなのためにケーキを作った。
一人ひとりのことを思いながら、クラス全員分。
そして、アレルギーのある子のためには、別のケーキを用意した。
材料だけではない。
調理器具も別にして。
混ざらないように、細心の注意を払って。
「結月らしいですね」
男の子が言った。
「うん。昔からそういう子だった」
そして、同窓会の日。
結月は、青い海を思わせる色のドレスを着ていた。
海色のドレス。
長く綺麗な髪。
透き通るような白い肌。
まるで、お姫様のようだった。
会場に入った瞬間、みんなが振り返った。
けれど、結月はただ笑っていた。
昔好きだった彼のことを、まだ完全に忘れたわけではない。
それでも――。
「好きだった」という気持ちを、無理に消そうとはしなかった。
彼もまた、結月を愛していた。
だからこそ、忘れようとした。
二人にとって、それは「嫌いになった」という終わりではなかった。
それぞれが、自分の人生へ進むための卒業だった。
「その後、結月はどうなったんですか?」
男の子が尋ねた。
「同窓会をきっかけに、結月は少しずつ前を向いたの」
「……」
「そして、よくしてくれる雑貨屋さんの店主さんと仲良くなった」
話を聞いてくれる人。
結月の作るお菓子を応援してくれる人。
過去を否定せず、今の結月を大切にしてくれる人。
少しずつ二人の距離は近づいていった。
「そして二人は結婚したの」
「結婚……」
「うん。そして、女の子が生まれた」
夕凪は微笑んだ。
「名前は、いのりちゃん」
男の子は、しばらく黙っていた。
「……結月さん、幸せになったんですね」
「うん」
「昔の人を忘れたから?」
夕凪は首を横に振った。
「たぶん、違うと思う」
「……?」
「忘れたんじゃなくて、思い出にできたんじゃないかな」
男の子は黙って聞いている。
「好きだった人を好きだった自分も、傷ついた自分も、全部含めて自分の人生なんだって受け止められたから、前に進めたんだと思う」
「……」
「だから、あなたも焦らなくていいと思う」
夕凪は優しく笑った。
「今、その子が傷ついているなら、まずはそばにいてあげたらいい」
「そばに……」
「うん。告白することだけが、好きな人を大切にする方法じゃないから」
男の子はチーズケーキを見つめた。
「……僕、あの子が笑えるようになるまで、そばにいます」
「それでいいと思うよ」
「いつか、あの子が前を向けたら……そのときに、自分の気持ちを伝えてもいいですか?」
「もちろん」
夕凪は微笑んだ。
「それも、あなたが決めることだから」
男の子は最後の一口を食べた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
男の子は立ち上がり、店の入り口へ向かった。
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
「今度、何かあったら報告します」
「待ってるね」
ドアが開く。
カラン、カラン。
男の子は雨の中へ歩いていった。
夕凪は窓の外を眺める。
雨は、まだ止んでいない。
けれど、雨の向こうには海がある。
そして海には、いつか必ず光が差す。
好きだった人を忘れる必要なんてない。
大切だった時間は、大切なままでいい。
それを抱えながら、人はまた誰かを愛することができる。
そんなことを、夕凪は結月から教えてもらった気がしていた。
今日も「あまなぎ」には、温かな紅茶と、甘いチーズケーキの香りが漂っていた。
四浦の海は、今日も静かに雨に煙っていた。
夕凪が店内のテーブルを拭いていると、カラン、カランとベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、高校生くらいの男の子だった。
制服の肩には、細かな雨粒が残っている。
「……ここ、いいですか?」
「もちろん。好きな席にどうぞ」
男の子は窓際の席に座った。
「ご注文、お決まりですか?」
「チーズケーキと、紅茶をお願いします」
「ホットでいい?」
「はい」
「かしこまりました」
夕凪はチーズケーキを切り、紅茶を淹れた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
男の子は紅茶を一口飲み、チーズケーキを食べた。
「……美味しい」
「よかった」
しばらくして、男の子がぽつりと口を開いた。
「僕……好きな子がいるんです」
「うん」
「でも、その子には、好きだった人がいて……」
男の子はチーズケーキを見つめた。
「その人に傷つけられたんです」
「そうなんだね」
「それなのに……まだ、その人のことが好きみたいなんです」
夕凪は急かさずに話を聞いた。
「僕は、その子のことが好きです。でも、今告白したら……困らせるんじゃないかなって」
「その子のことを、大切に思ってるんだね」
「はい」
夕凪は少し考えてから言った。
「じゃあ、少しだけ私の幼馴染の話をしてもいい?」
「幼馴染?」
「うん。湯布院で『むすび洋菓子店』をしている、結月っていう女の子」
男の子は頷いた。
「結月にも、高校生の頃、好きな人がいたの」
夕凪はゆっくり話し始めた。
「二人は付き合っていた」
「……」
「結月は、彼の好きなチーズケーキを作って、何度も渡していたんだって」
お菓子を作ることが大好きだった結月。
大好きな人のために、一つ一つ丁寧に作っていた。
けれど、高校卒業が近づくにつれて、二人の間には少しずつ変化が訪れた。
「彼はね、結月を嫌いになったわけじゃなかった」
夕凪は静かに続けた。
「むしろ、結月のことを愛していた」
「じゃあ……どうして?」
「卒業するためだったの」
男の子が顔を上げる。
「彼は、結月のことを忘れようとした」
好きだからこそ。
このままでは前に進めないと思った。
卒業して、それぞれの人生を歩くために。
「だから、『結月のことを忘れる』って決めたんだって」
それは、結月にとっても苦しいことだった。
それでも結月は、自分のやるべきことを続けた。
そして、同窓会の日。
結月は、クラスのみんなのためにケーキを作った。
一人ひとりのことを思いながら、クラス全員分。
そして、アレルギーのある子のためには、別のケーキを用意した。
材料だけではない。
調理器具も別にして。
混ざらないように、細心の注意を払って。
「結月らしいですね」
男の子が言った。
「うん。昔からそういう子だった」
そして、同窓会の日。
結月は、青い海を思わせる色のドレスを着ていた。
海色のドレス。
長く綺麗な髪。
透き通るような白い肌。
まるで、お姫様のようだった。
会場に入った瞬間、みんなが振り返った。
けれど、結月はただ笑っていた。
昔好きだった彼のことを、まだ完全に忘れたわけではない。
それでも――。
「好きだった」という気持ちを、無理に消そうとはしなかった。
彼もまた、結月を愛していた。
だからこそ、忘れようとした。
二人にとって、それは「嫌いになった」という終わりではなかった。
それぞれが、自分の人生へ進むための卒業だった。
「その後、結月はどうなったんですか?」
男の子が尋ねた。
「同窓会をきっかけに、結月は少しずつ前を向いたの」
「……」
「そして、よくしてくれる雑貨屋さんの店主さんと仲良くなった」
話を聞いてくれる人。
結月の作るお菓子を応援してくれる人。
過去を否定せず、今の結月を大切にしてくれる人。
少しずつ二人の距離は近づいていった。
「そして二人は結婚したの」
「結婚……」
「うん。そして、女の子が生まれた」
夕凪は微笑んだ。
「名前は、いのりちゃん」
男の子は、しばらく黙っていた。
「……結月さん、幸せになったんですね」
「うん」
「昔の人を忘れたから?」
夕凪は首を横に振った。
「たぶん、違うと思う」
「……?」
「忘れたんじゃなくて、思い出にできたんじゃないかな」
男の子は黙って聞いている。
「好きだった人を好きだった自分も、傷ついた自分も、全部含めて自分の人生なんだって受け止められたから、前に進めたんだと思う」
「……」
「だから、あなたも焦らなくていいと思う」
夕凪は優しく笑った。
「今、その子が傷ついているなら、まずはそばにいてあげたらいい」
「そばに……」
「うん。告白することだけが、好きな人を大切にする方法じゃないから」
男の子はチーズケーキを見つめた。
「……僕、あの子が笑えるようになるまで、そばにいます」
「それでいいと思うよ」
「いつか、あの子が前を向けたら……そのときに、自分の気持ちを伝えてもいいですか?」
「もちろん」
夕凪は微笑んだ。
「それも、あなたが決めることだから」
男の子は最後の一口を食べた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
男の子は立ち上がり、店の入り口へ向かった。
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
「今度、何かあったら報告します」
「待ってるね」
ドアが開く。
カラン、カラン。
男の子は雨の中へ歩いていった。
夕凪は窓の外を眺める。
雨は、まだ止んでいない。
けれど、雨の向こうには海がある。
そして海には、いつか必ず光が差す。
好きだった人を忘れる必要なんてない。
大切だった時間は、大切なままでいい。
それを抱えながら、人はまた誰かを愛することができる。
そんなことを、夕凪は結月から教えてもらった気がしていた。
今日も「あまなぎ」には、温かな紅茶と、甘いチーズケーキの香りが漂っていた。