四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜
私をちゃんと見てくれる人
雨の日の「あまなぎ」。
四浦の海は、白い霧に包まれていた。
窓ガラスを雨粒が静かに流れている。
夕凪が厨房でココアを作っていると、入口のベルが鳴った。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、高校生くらいの女の子だった。
傘を閉じ、濡れた髪をそっと整える。
「……一人です」
「どうぞ。好きな席に座ってね」
女の子は窓際の席に座った。
「メニュー、どうぞ」
しばらく眺めてから、
「チーズケーキと、ココアをお願いします」
「ホットでいい?」
「はい」
「かしこまりました」
夕凪はチーズケーキを皿に乗せ、温かいココアを添えた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
女の子はチーズケーキを一口食べる。
「……美味しい」
「よかった」
けれど、表情はどこか寂しそうだった。
夕凪は何も聞かなかった。
話したくなったときに話せばいい。
それが「あまなぎ」だから。
しばらくすると、女の子がぽつりと口を開いた。
「……私、好きな人がいるんです」
「うん」
「ずっと好きだった人です」
女の子はココアを両手で包んだ。
「でも、その人に……都合のいい女みたいにされるんです」
夕凪は静かに聞いた。
「嫌なことは嫌って言ってるんです」
「うん」
「もう嫌って言っても、私のことをちゃんと見てくれない」
女の子の声が震える。
「私が関わるのをやめようとすると、急に連絡してくるんです」
「……」
「優しくしてくるから、もしかしたら私のこと好きなのかなって思って……」
女の子は俯いた。
「でも、また同じことになる」
一粒の涙が落ちた。
「もう嫌なんです」
「……つらかったね」
夕凪は優しく言った。
「好きな人だからって、我慢し続けなくてもいいんだよ」
「……」
「あなたが『嫌』って伝えたことを大切にしてくれないなら、まずは自分の心を守っていい」
女の子は黙っていた。
「……私のそばに、別の男の子がいるんです」
「うん」
「その子は、いつも私を笑わせてくれるんです」
少しだけ女の子の表情が柔らかくなる。
「私が落ち込んでると、くだらないこと言って笑わせてくれたり……」
「優しい子なんだね」
「はい」
「何かを求めてくるの?」
「……来ないです」
「ただ、そばにいてくれる?」
「はい」
女の子は頷いた。
「私が傷ついてると、心を癒そうとしてくれるんです」
「その子といると、どんな気持ちになる?」
女の子は少し考えた。
「……楽です」
「楽?」
「無理して笑わなくてもいいんです」
夕凪は優しく微笑んだ。
「それは、とても大切なことかもしれないね」
女の子は、しばらく黙っていた。
夕凪は雨の向こうの海を見つめた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「実はね……私の幼馴染にも、あなたと少し似た経験をした子がいるの」
「幼馴染……?」
「うん。湯布院で『むすび洋菓子店』をしている、結月っていう子」
女の子は黙って耳を傾けた。
「結月にも、高校生の頃、大好きな人がいたの」
二人は付き合っていた。
結月は、彼が好きなチーズケーキを作って渡していた。
大好きな人のために、一生懸命作った。
けれど、卒業が近づいた頃。
彼は結月を忘れようとした。
嫌いになったからではない。
結月のことを愛していた。
だからこそ、それぞれの未来へ進むために、忘れようとした。
「結月さんは、どうしたんですか?」
「なかなか忘れられなかったの」
店を持ってからも、心のどこかに彼がいた。
そして、ある日。
彼は彼女を連れて、結月の店に来た。
結月は不安でいっぱいになった。
別れてからも、片想いをしていたから。
それでも、結月は逃げなかった。
そして同窓会の日。
結月はクラス全員分のケーキを作った。
アレルギーのある子には、別のケーキ。
材料だけではなく、調理器具まで分けた。
一人ひとりが安心して食べられるように、丁寧に作った。
その日、結月は青い海色のドレスを着ていた。
長く綺麗な髪。
透き通るような白い肌。
まるで海から現れたお姫様のようだった。
そして、彼と再会した。
結月は彼を見た。
彼も結月を見た。
胸の奥が、まだ痛かった。
そこで結月は気づいた。
――私は、まだこの人が好きなんだ。
同窓会が終わっても、その気持ちは消えなかった。
でも、帰り道。
結月は一人で、自分の心と向き合った。
好きだった。
大切だった。
幸せだった時間もあった。
傷ついたこともあった。
全部、本当だった。
だから、無理に忘れなくてもいい。
ただ――。
もう、自分の未来まで過去に預けるのはやめよう。
同窓会の後。
結月は、ようやくその恋を卒業することを決めた。
彼を嫌いになったわけではない。
愛していたからこそ、その時間を大切な思い出として胸にしまった。
そして、前を向いた。
「その後、結月さんはどうなったんですか?」
女の子が尋ねた。
「よくしてくれる雑貨屋さんの店主と出会ったの」
結月の話を聞いてくれる人。
悲しいときには、そっと隣にいてくれる人。
結月自身をちゃんと見てくれる人。
そして、結月の作るお菓子を応援してくれる人。
少しずつ二人の距離は近づいていった。
やがて二人は結婚した。
そして、女の子が生まれた。
名前は――いのりちゃん。
「……結月さん、幸せになったんですね」
「うん」
夕凪は頷いた。
「だからね。好きだった人を忘れられない自分を責めなくていいの」
「……」
「でも、自分を傷つける関係から離れることはできる」
女の子は、ココアを見つめた。
「前の人を忘れてからじゃないと、新しい人を好きになっちゃいけないんですか?」
「そんなことないよ」
夕凪は微笑んだ。
「今すぐ好きにならなくてもいい。でも、あなたを大切にしてくれる人のことを、少しずつ見てみてもいいんじゃないかな」
「……」
「誰かを好きになるって、自分を傷つけ続けることじゃないから」
女の子の目から、涙が落ちた。
「私……ちゃんと大切にされてもいいんですね」
「もちろん」
「……私のことを笑わせてくれるあの子のこと、ちゃんと見てみたいです」
「うん」
「今まで、傷つける人のことばかり見てました」
女の子は涙を拭いた。
「でも……私のそばにいてくれる人も、ちゃんと見てみます」
「それでいいと思うよ」
女の子は残ったチーズケーキを食べた。
「……美味しい」
「ふふ」
「なんだか、少し心が軽くなりました」
「それならよかった」
女の子は会計を済ませ、傘を手に取った。
店の入口で振り返る。
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
女の子は少し笑った。
「今度は……あの子と一緒に来ます」
「待ってるね」
女の子は雨の中へ歩いていった。
外に出ると、スマートフォンが震えた。
いつもそばにいてくれる男の子からだった。
――「雨すごいけど、大丈夫?」
女の子は画面を見つめた。
そして、少し迷ってから返信する。
――「うん。今、あまなぎにいる」
少し考えて、もう一行。
――「今度、一緒に行かない?」
送信。
雨はまだ降っている。
それでも、女の子の心には小さな青空が広がり始めていた。
好きな人に振り向いてもらうことだけが、幸せじゃない。
自分をちゃんと見てくれる人。
自分の「嫌」を大切にしてくれる人。
傷ついたとき、そっとそばにいてくれる人。
そんな人の存在に気づくことも、心が雨上がりへ向かう一歩なのかもしれない。
喫茶「あまなぎ」。
今日もまた、一人の心に降る雨が、少しだけ凪いでいた。
四浦の海は、白い霧に包まれていた。
窓ガラスを雨粒が静かに流れている。
夕凪が厨房でココアを作っていると、入口のベルが鳴った。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、高校生くらいの女の子だった。
傘を閉じ、濡れた髪をそっと整える。
「……一人です」
「どうぞ。好きな席に座ってね」
女の子は窓際の席に座った。
「メニュー、どうぞ」
しばらく眺めてから、
「チーズケーキと、ココアをお願いします」
「ホットでいい?」
「はい」
「かしこまりました」
夕凪はチーズケーキを皿に乗せ、温かいココアを添えた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
女の子はチーズケーキを一口食べる。
「……美味しい」
「よかった」
けれど、表情はどこか寂しそうだった。
夕凪は何も聞かなかった。
話したくなったときに話せばいい。
それが「あまなぎ」だから。
しばらくすると、女の子がぽつりと口を開いた。
「……私、好きな人がいるんです」
「うん」
「ずっと好きだった人です」
女の子はココアを両手で包んだ。
「でも、その人に……都合のいい女みたいにされるんです」
夕凪は静かに聞いた。
「嫌なことは嫌って言ってるんです」
「うん」
「もう嫌って言っても、私のことをちゃんと見てくれない」
女の子の声が震える。
「私が関わるのをやめようとすると、急に連絡してくるんです」
「……」
「優しくしてくるから、もしかしたら私のこと好きなのかなって思って……」
女の子は俯いた。
「でも、また同じことになる」
一粒の涙が落ちた。
「もう嫌なんです」
「……つらかったね」
夕凪は優しく言った。
「好きな人だからって、我慢し続けなくてもいいんだよ」
「……」
「あなたが『嫌』って伝えたことを大切にしてくれないなら、まずは自分の心を守っていい」
女の子は黙っていた。
「……私のそばに、別の男の子がいるんです」
「うん」
「その子は、いつも私を笑わせてくれるんです」
少しだけ女の子の表情が柔らかくなる。
「私が落ち込んでると、くだらないこと言って笑わせてくれたり……」
「優しい子なんだね」
「はい」
「何かを求めてくるの?」
「……来ないです」
「ただ、そばにいてくれる?」
「はい」
女の子は頷いた。
「私が傷ついてると、心を癒そうとしてくれるんです」
「その子といると、どんな気持ちになる?」
女の子は少し考えた。
「……楽です」
「楽?」
「無理して笑わなくてもいいんです」
夕凪は優しく微笑んだ。
「それは、とても大切なことかもしれないね」
女の子は、しばらく黙っていた。
夕凪は雨の向こうの海を見つめた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「実はね……私の幼馴染にも、あなたと少し似た経験をした子がいるの」
「幼馴染……?」
「うん。湯布院で『むすび洋菓子店』をしている、結月っていう子」
女の子は黙って耳を傾けた。
「結月にも、高校生の頃、大好きな人がいたの」
二人は付き合っていた。
結月は、彼が好きなチーズケーキを作って渡していた。
大好きな人のために、一生懸命作った。
けれど、卒業が近づいた頃。
彼は結月を忘れようとした。
嫌いになったからではない。
結月のことを愛していた。
だからこそ、それぞれの未来へ進むために、忘れようとした。
「結月さんは、どうしたんですか?」
「なかなか忘れられなかったの」
店を持ってからも、心のどこかに彼がいた。
そして、ある日。
彼は彼女を連れて、結月の店に来た。
結月は不安でいっぱいになった。
別れてからも、片想いをしていたから。
それでも、結月は逃げなかった。
そして同窓会の日。
結月はクラス全員分のケーキを作った。
アレルギーのある子には、別のケーキ。
材料だけではなく、調理器具まで分けた。
一人ひとりが安心して食べられるように、丁寧に作った。
その日、結月は青い海色のドレスを着ていた。
長く綺麗な髪。
透き通るような白い肌。
まるで海から現れたお姫様のようだった。
そして、彼と再会した。
結月は彼を見た。
彼も結月を見た。
胸の奥が、まだ痛かった。
そこで結月は気づいた。
――私は、まだこの人が好きなんだ。
同窓会が終わっても、その気持ちは消えなかった。
でも、帰り道。
結月は一人で、自分の心と向き合った。
好きだった。
大切だった。
幸せだった時間もあった。
傷ついたこともあった。
全部、本当だった。
だから、無理に忘れなくてもいい。
ただ――。
もう、自分の未来まで過去に預けるのはやめよう。
同窓会の後。
結月は、ようやくその恋を卒業することを決めた。
彼を嫌いになったわけではない。
愛していたからこそ、その時間を大切な思い出として胸にしまった。
そして、前を向いた。
「その後、結月さんはどうなったんですか?」
女の子が尋ねた。
「よくしてくれる雑貨屋さんの店主と出会ったの」
結月の話を聞いてくれる人。
悲しいときには、そっと隣にいてくれる人。
結月自身をちゃんと見てくれる人。
そして、結月の作るお菓子を応援してくれる人。
少しずつ二人の距離は近づいていった。
やがて二人は結婚した。
そして、女の子が生まれた。
名前は――いのりちゃん。
「……結月さん、幸せになったんですね」
「うん」
夕凪は頷いた。
「だからね。好きだった人を忘れられない自分を責めなくていいの」
「……」
「でも、自分を傷つける関係から離れることはできる」
女の子は、ココアを見つめた。
「前の人を忘れてからじゃないと、新しい人を好きになっちゃいけないんですか?」
「そんなことないよ」
夕凪は微笑んだ。
「今すぐ好きにならなくてもいい。でも、あなたを大切にしてくれる人のことを、少しずつ見てみてもいいんじゃないかな」
「……」
「誰かを好きになるって、自分を傷つけ続けることじゃないから」
女の子の目から、涙が落ちた。
「私……ちゃんと大切にされてもいいんですね」
「もちろん」
「……私のことを笑わせてくれるあの子のこと、ちゃんと見てみたいです」
「うん」
「今まで、傷つける人のことばかり見てました」
女の子は涙を拭いた。
「でも……私のそばにいてくれる人も、ちゃんと見てみます」
「それでいいと思うよ」
女の子は残ったチーズケーキを食べた。
「……美味しい」
「ふふ」
「なんだか、少し心が軽くなりました」
「それならよかった」
女の子は会計を済ませ、傘を手に取った。
店の入口で振り返る。
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
女の子は少し笑った。
「今度は……あの子と一緒に来ます」
「待ってるね」
女の子は雨の中へ歩いていった。
外に出ると、スマートフォンが震えた。
いつもそばにいてくれる男の子からだった。
――「雨すごいけど、大丈夫?」
女の子は画面を見つめた。
そして、少し迷ってから返信する。
――「うん。今、あまなぎにいる」
少し考えて、もう一行。
――「今度、一緒に行かない?」
送信。
雨はまだ降っている。
それでも、女の子の心には小さな青空が広がり始めていた。
好きな人に振り向いてもらうことだけが、幸せじゃない。
自分をちゃんと見てくれる人。
自分の「嫌」を大切にしてくれる人。
傷ついたとき、そっとそばにいてくれる人。
そんな人の存在に気づくことも、心が雨上がりへ向かう一歩なのかもしれない。
喫茶「あまなぎ」。
今日もまた、一人の心に降る雨が、少しだけ凪いでいた。