四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

雨上がりのふたり

 数日後。

 この日も四浦には、細かな雨が降っていた。

 雨に煙る海を眺めながら、夕凪は「あまなぎ」の窓を拭いていた。

 すると――。

 カラン、カラン。

 入口のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 夕凪が顔を上げる。

 そこに立っていたのは、以前この店を訪れた高校生の男の子だった。

「あら、来てくれたんだね」

「はい」

 男の子は少し照れながら笑った。

 そして、その隣には――。

 夕凪が以前、チーズケーキとココアを注文してくれた女の子がいた。

 以前は、一人で窓際の席に座り、好きな人に傷つけられていることを話してくれた。

 今は、その男の子の隣にいる。

 夕凪は二人を見て、自然と笑顔になった。

「今日は二人で来てくれたんだね」

「はい」

 男の子が答える。

「ここ、前に来たことがあるって聞いて」

 女の子が少し恥ずかしそうに笑った。

「私も……ここに来たことがあります」

「うん。覚えてるよ」

 夕凪は二人に席をすすめた。

「好きなところに座ってね」

 二人は窓際の席に並んで座った。

 雨の向こうには、四浦の海。

 静かな波が、ゆっくりと岸に寄せている。

「ご注文はどうする?」

 男の子がメニューを見る。

「僕は、チーズケーキと紅茶で」

「私は、チーズケーキとココアをお願いします」

「かしこまりました」

 夕凪は厨房へ向かった。

 チーズケーキを二皿。

 男の子には温かい紅茶。

 女の子には温かいココア。

 そして、もう一つ。

 冷蔵庫から四浦のさんつくみのみかんを取り出した。

 皮をむいて、一房ずつ丁寧にお皿へ盛る。

 二人の前にチーズケーキと飲み物を置いたあと、小さなお皿も置いた。

「はい。これもどうぞ」

「えっ?」

 女の子が驚く。

「サービス。四浦のさんつくみ。今、美味しいから」

「ありがとうございます!」

 男の子も嬉しそうにみかんを見る。

「いただきます」

 二人で一房ずつ口に入れる。

「甘い!」

 女の子が笑った。

「美味しいね」

「うん」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 夕凪は、その笑顔を見て微笑む。

 以前は、一人で涙を流していた女の子。

 以前は、好きな女の子をどう支えればいいのか悩んでいた男の子。

 そんな二人が、今は一緒に笑っている。

 夕凪はカウンターへ戻った。

 すると、男の子が口を開いた。

「夕凪さん」

「うん?」

「僕……できました」

「何が?」

 男の子は隣の女の子を見る。

「この子を、笑顔にすることができました」

 女の子は恥ずかしそうに俯いた。

「……うん」

 夕凪は、静かに微笑んだ。

「そっか」

「前にここへ来たとき、どうしたらいいか分からなくて」

 男の子は話し始めた。

「好きな子が傷ついていて。でも、僕が何を言ってもいいのか分からなかった」

「うん」

「だから、無理に何かを変えようとしないで、そばにいようって思ったんです」

 女の子は黙って聞いている。

「笑ってくれるようになって……僕も嬉しくて」

 男の子は照れながら笑った。

「僕、ちゃんとこの子を笑顔にすることができました」

 女の子は、彼の横顔を見つめた。

「……ありがとう」

「え?」

「私、あなたにいっぱい笑わせてもらった」

 女の子の声は優しかった。

「私が苦しいときも、そばにいてくれた」

「……うん」

「前は、好きな人に振り向いてもらうことばかり考えてた」

 女の子は、ゆっくり言葉を選ぶ。

「私がどれだけ我慢したら、私のことをちゃんと見てくれるんだろうって」

 夕凪は何も言わずに聞いていた。

「でも、違ったんです」

「……」

「私が我慢しなくても、ちゃんと私を見てくれる人がいた」

 女の子は、隣の男の子を見る。

「嫌だって言ったことを、嫌なままにしてくれた」

「……」

「無理に何かを求めずに、そばにいてくれた」

 男の子は、少し照れたように笑う。

「だから……」

 女の子は、まっすぐ彼を見た。

「あなたといると、私は幸せです」

 男の子の顔が、一気に赤くなった。

「……ほんと?」

「うん」

「僕も……幸せ」

 二人は照れながら笑った。

 夕凪は、その様子を見ながら、以前この女の子に話した結月のことを思い出していた。

 結月も、昔の恋をすぐに忘れたわけではない。

 大好きだった人との時間も、簡単には消えなかった。

 同窓会で再会して、自分の気持ちがまだ残っていることにも気づいた。

 それでも、同窓会の後。

 結月はその恋を卒業することを決めた。

 彼を嫌いになったからではない。

 愛していたからこそ、その思いを大切な思い出として胸にしまった。

 そして、自分をちゃんと見てくれる人との未来へ進んだ。

 今、目の前にいる二人も。

 過去を無理に消したわけではない。

 ただ、自分を傷つける恋だけを選ばなくていいと気づいた。

 夕凪は、そっと二人の前に置かれたみかんを見る。

 さんつくみの甘い香り。

 雨の日の「あまなぎ」に、二人の笑い声が響いていた。

「夕凪さん」

 女の子が声をかけた。

「うん?」

「ここに来てよかったです」

「私もです」

 男の子も笑った。

「ここで話を聞いてもらったから、自分の気持ちをちゃんと考えることができました」

「私は、少し自分のことを大切にできるようになりました」

 夕凪は二人を見て微笑んだ。

「それなら、ここを開いた意味があったかな」

「はい!」

 二人の声が重なった。

 その瞬間だった。

 窓の外の雨が、少しずつ弱くなってきた。

 白い霧が、ゆっくりと晴れていく。

 雲の隙間から光が差し込んだ。

 四浦の海が、光を受けてきらきらと輝き始める。

「綺麗……」

 女の子が窓の外を見る。

「ほんとだ」

 男の子も海を見る。

 二人は顔を見合わせた。

 そして、また笑った。

 夕凪は、その二人の姿を静かに見つめていた。

 人の心には、雨が降る。

 好きな人に傷つけられることもある。

 大切な人を忘れられないこともある。

 自分を見失うこともある。

 けれど――。

 雨が降ったからこそ、誰かの優しさに気づくことがある。

 雨が上がったからこそ、隣にいてくれた人の大切さに気づくこともある。

 そして。

 自分を大切にすることを選んだとき、心にも少しずつ光が差し込んでくる。

 「あまなぎ」。

 雨が訪れた心が、ここで少しでも凪いてくれますように。

 今日もまた、この小さな喫茶店から笑い声が聞こえていた。

 テーブルの上には、食べ終わったチーズケーキ。

 飲み終わりかけの紅茶とココア。

 そして、最後の一房だけ残った、さんつくみのみかん。

 その甘さは、雨上がりの海のように優しかった。
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