死に損ないの巫女と十年の時を刻む春楡
 幸い体に痛いところはないし、さっきの溺れる悪夢(?)のせいで全身にぐっしょり汗をかいて気持ち悪い以外は、とくに問題はなさそうだ。なるべく音を立てないように布団を抜け、畳の上をすり足で移動する。ここがどこであるかわからない以上、忍者にならないといけない。

 廊下にはだしの足を踏み出した途端、床がみしりと悲鳴を上げた。

「……げっ」

 いきなり隠密行動失敗だ。

 肝を冷やす私だったけど、幸い誰にも聞かれなかったらしい。屋敷の中は陰鬱に静まり返り、しとしとと雨の音だけが聞こえている。 ——もしかして、誰もいないのかな?

 湿気を含みしっとりした床の感触が裸足に伝わる。この屋敷、ボロボロだし床は抜けそうだけど、意外と手入れは行き届いているようだ。埃ひとつ落ちていない。

 廊下の突き当りの引き戸を開けると、炊事場や作業場として使われているらしき土間があった。水瓶の中になみなみと水が張られているのが目に入る。人の気配もないし、少しだけお水を拝借しようと思いつく。汗でべとつく顔を洗ってさっぱりしたい。手桶を借りて、水瓶の水を静かにすくう。

 手桶の水に顔をつけようとした瞬間、異変が起きた。

「……っ!」

 目の前がぐわんと大きく歪んで、身体のバランスが大きく崩れる。桶が足元に落ちて水が床に盛大にぶちまけられた。私は着物が濡れるのにも構わず、水たまりの上に膝をつく。歯の根が合わない。寒いわけじゃないのに震えが止まらない。

(どうしちゃったんだろう……水が、怖い)


「……な」

 土間の入り口からふいに声がした。

「……えっ」

 振り返ると、青い瞳と視線が合う。色素の薄い肌と髪を持つ——肌は白いというより青白く、どこか翳のある印象だ——長身の男性がこちらを見て驚いた顔をしていた。西洋人風の容姿。いわゆる『異邦人』だ。異邦人……なにかが胸に引っかかった。

「目が……覚めたのか」

「あ、あの……」

 引っかかったものの正体が掴めないまま、私は呆然と男性を見上げる。——どうしよう。逃げた方がいい? だけど、成人男性相手に脚力で勝てるとは思えない。なんたって、前世から50メートル走11秒という筋金入りの運動音痴な私である。

 男性はおもむろに私の前で膝をつき、着物の袂からハンカチを取り出し、私の頬を滴る水を拭った。

「え……っ?」

「ここは僕が片付けるから……待っていて。着替えを持ってくる」

(どうなってるの……? この人は誰……?)

 私は馬鹿みたいに目をパチパチさせることしかできない。

 ハンカチからは、桜葉のような爽やかな香りがした。
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