死に損ないの巫女と十年の時を刻む春楡
「——なずな……」
慈愛に満ちた声に呼ばれた気がして、私は立ち止まった。
雨夜の中、見慣れたはずの母屋がよそよそしい顔をして佇む。細く引かれた障子から漏れる灯りへ、街灯にたかる虫みたいに引き寄せられていく。
「よしよし、いい子ね……」
声はお母様のものか。
暗がりに潜む私にその光景は眩しすぎて、目がくらりとした。光に包まれた母屋の中から、赤ん坊の声がきゃっきゃと溢れ出す。その無邪気さは、私に安らぎではなく不安を与えた。
私の家族の真ん中にいる、知らない子ども。その存在は私にとって明らかな異物なのに、家族の風景になぜか違和感なく馴染んでいた。
「本当に大人しくて手のかからない子。せりなに似たのかしら?」
「いいや、この子のこれは私の血だろう」
「まあ、お父様ったら……」
それは、絵に描いたような幸せな家族の風景。
赤子を抱き上げる大人びた女性は、生意気な私の妹——せりなに間違いなかった。私の知っているせりなは十四歳。どういうわけか、光の中のせりなは、私よりずっと大人になっているけれど……。
せりなの隣で赤子をあやすのは、少し皺の増えたお母様。赤子を見つめる慈愛に満ちた瞳は、幼い頃の私に向けられたものと同じだった。
同じく顔に皺を刻み、白髪を増やしたお父様の表情には、かつて私に向けられた冷酷さはなく、穏やかさで満たされていた。
「将来が楽しみだな——なずな」
すっかり角の取れた様子のお父様は、いまや愛孫を寵愛するひとりの祖父でしかなかった。
あの赤子の名は——なずなというらしい。
目の裏に稲妻が走り、立ちくらみが起こる。
(よりにもよって——どうしてなの)
これは悪い夢だろうか。家族は私の知らない姿に変わり、私の知らない子を中心にして、幸せそうに団欒している。私だけが悲劇の中に取り残されているみたい。まるで私は過去から来た幽霊だ……。
(どうなってるのよ? 意味がわからない……!)
頭を抱え、光の中を睨んだ。理不尽な状況に疑問しか湧いてこない。
ただ、確かなことがひとつだけある。
(……もうここには私の居場所はとっくにない)
ふと考える。障子一枚で隔てられたあちら側に、今の私が踏み込んでいったら、どうなるだろう? 考えるまでもなく、一瞬で、彼らの幸福は崩れ去る。
ああそっか。私が死んだことで、一族の穢れが消え、家族は幸せになれたのだ。そういえばお父様、私は穢れだから消さないとだとか、そんなようなこと、言ってたな。
優しい眼差しを赤子に向けるお父様。あなたは私を殺しておきながら、その殺した相手の名を冠した赤子をどうして可愛がることができる。
その慈愛のほんの一欠片を、私に向けてくれれば——。腹の底からマグマが沸き起こり、情動のまま、頭を掻きむしった。
「許せない……」
せめてこの苦しみを、あなたにも味わわせてあげたい。昏い炎が、私の胸に灯った。