死に損ないの巫女と十年の時を刻む春楡
 私はじっと息を潜め、お父様が一人になる瞬間を待つことにした。待つうちに雨は上がり、雲の切れ目から満月が顔を覗かせる。お月様までもが、なずなのいないこの世界は満ちている、とでも言っているかのようで、無性に腹立たしかった。

 ようやく、お父様が部屋から一人出て、その足を神社の境内へと向かわせた。あのワーカホリックなお父様のことだ。おおかたやり残した仕事でも片付けに行くのだろう。私にとっては好都合だ。
 
 お父様が向かったのは誰もいない拝殿の裏手。手に持った鍵束を検めるじゃらじゃらという音と同時に、背中が立ち止まる。千載一遇のチャンスに心臓が高鳴った。冷たい月光が照らす石畳を、足音を殺して近づいていく。

 袂から取り出した短刀の柄を固く握りしめる。私を突き動かすのは、腹の底から湧き出る赤黒い怨念だ。

(先に裏切ったのはお父様の方だよ)
 
 報いを受けろ……。
 私には、それだけのことをする権利がある……。

 月光を受けた刃先がお父様の背中を突き刺すまであと数ミリというところで——
 
 私の右手が、激しく震えて動かなくなる。

(なん……で……)

 


(悪意を受けても、返しちゃ駄目よ)
 
 耳朶に焼きついていつまでも離れない、大好きなおばあちゃんの声がリフレインした。


「同じ想いを他人にさせて、それで春菜は満足? 仕返しなんて魂が汚れるだけだ」

「で、でも……! おばあちゃんはそれでいいの?」


 おばあちゃんだって辛い目にあっていた。町内会で露骨に無視されたり、回覧板を飛ばされたり、週刊誌の記者へあることないこと吹聴されたり……。それでも彼女が怒りを外側へぶつけたところを見たことがない。

「悪意を受けたとしても、当たり前の優しさで返すんだ。いつか同じだけの優しさが返ってくるんだよ。情けは人のためならず、よ」

 最期まで彼女は悪意に囚われなかった。自分が心の痛みを知っているからこそ、誰にも痛みを押し付けたくないと。私はそんな彼女の筋の通ったところが大好きだった——。おばあちゃんを裏切ることはできない。

 
(やっぱり……私には、誰も傷つけるなんてできない)
 
 どれだけ裏切られても、命を奪われたとしても、自分は誰かを傷つける悪人すらなりきれない。
 
(悪人にもなれない……善人でもいられない)

 憎しみはまだ胸で迸っている。

 逡巡しているうち、鍵束から目的の一本を探し出したらしいお父様が拝殿の裏口の戸を開錠した。

(……私は、ただの偽善者だ)

 凄絶な自己嫌悪が私を打ちのめした。


 憎い背中はあっという間に拝殿に消えていった。
< 33 / 47 >

この作品をシェア

pagetop