君の涙は春になる。
自分でも、何をしているのかわからなかった。

湊が驚いたように振り返る。
紬は慌てて手を離した。

「ご、ごめん」

「いや」

「その、あの」

言葉が出てこない。
ただ、離れたくなかった。
まだ少しだけ、ここにいてほしかった。

すると湊は、紬の言いたいことを察したみたいに、静かに言った。

「五分だけ、付き合う?」

「え」

「駅前のベンチ。座れるし」

紬はこくんとうなずいた。

夕暮れの駅前は、人の気配で満ちているのに、ふたりのまわりだけ少し静かだった。
自販機の横のベンチに並んで座る。
さっきまで歩いていたときより距離が近くて、紬は膝の上で指を組んだ。

「何か話したかった?」

湊に聞かれて、紬は少し迷った。

それから、小さく言う。

「明日になったら、また普通に戻っちゃうのかなって思って」

「普通?」

「教室で、あんまり話さない感じに」

湊は少し黙って、それからやさしく笑った。

「白石が嫌なら、戻らない」

その言葉だけで、胸がいっぱいになった。

「嫌じゃない」

「じゃあ戻らない」

即答だった。

紬は笑ってしまった。
それにつられるように、湊も笑う。

夕焼けが、ゆっくり夜に変わっていく。
そのあわいの時間の中で、紬は思った。

この人の隣にいると、自分の中の寂しさが少しだけやわらぐ。
全部消えるわけじゃない。
傷が治るわけでもない。
それでも、明日を怖がらずにいられる。

それはきっと、とてもすごいことだった。

そして同時に、怖くもあった。
大切な人ができるのは、うれしい。
でも、一度失ったことのある紬は知っている。
大切なものは、いつかなくなるかもしれない。

好きになるほど、失うのが怖くなる。

その夜、布団の中で目を閉じた紬は、駅前で聞いた言葉を何度も思い返していた。

白石が嫌なら、戻らない。

たったそれだけなのに、どうしてこんなに涙が出そうになるのだろう。

うれしい、と思った。
あたたかい、と思った。
そして少しだけ、怖いと思った。

恋の始まりは、きらきらしているだけじゃない。
やさしい光のぶんだけ、影も濃くなる。

紬はまだ知らない。
この恋が、自分の心を救うだけでは終わらないことを。
朝比奈湊の抱える秘密が、ふたりの時間を静かに揺らしていくことを。

けれどこのときの紬にとっては、ただひとつで十分だった。

明日、学校へ行けば、また彼に会える。

それだけで、眠る前の世界が少しだけやさしくなる。
そんな夜が、確かに始まっていた。
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