可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第十話 網を繕う少女
翌朝、レオニスは沿岸の漁村へ向かった。
保護院への嘆願書に署名した村である。
村へ入る少し手前で、セルキアが急に馬車の窓へ鼻を寄せた。
「殿下。止めてください」
「何か匂うのか」
「いえ。あの子が」
浜辺で、一人の少女が破れた網を繕っていた。
年はセルキアと同じくらい。日焼けした頬に、短く切った茶色の髪。手つきだけは大人の漁師のように慣れている。
馬車が止まると、少女は警戒したように顔を上げた。
王家の紋章に気づいても、頭を下げるより先にセルキアを見た。
「……あんた、アザラシのところのお嬢様?」
「アザラシのところ……たぶん、そうです!」
「ミナ!」
少し離れた家から母親らしい女性が飛び出してくる。
「王太子殿下になんて口を……!」
「構わない」
レオニスが制すると、ミナは唇を尖らせた。
「だって、うちのお父ちゃんたち、魚が獲れなくて困ってる。なのに王都の人はアザラシばっかり助けるんでしょ」
「アザラシが魚を全部食べたわけではありません!」
反射的に言い返した。
けれど、そこで口を閉じた。
まだ原因を突き止めたわけではない。
自分がアザラシを好きだからというだけで、この子の困りごとまで否定してはいけない。
「……ごめんなさい。まだ、わかっていません」
「え?」
「でも、調べています。アザラシも弱っています。魚も減っています。同じ時期に、同じ海で起きているんです」
ミナは網から手を離した。
「じゃあ、海がおかしいの?」
「たぶん。だから、今日は皆さんにお話を聞きに来ました」
そう答えると、ミナは少しだけ警戒を解いた。
「……弟も、ずっとお腹痛いって言ってる」
「弟さん?」
「八歳。冬になる前くらいから。魚が減ったから、うちは浜で採れる貝をいっぱい食べてた」
セルキアとレオニスが同時に顔を見合わせた。
「貝を?」
「うん。前は大好物だったのに、最近は食べるともっと痛いって」
セルキアの背中を冷たいものが走る。
海の底に積もっていた白いもの。枯れた海藻。死んだ貝。
「殿下」
「ああ」
レオニスの表情も変わっていた。
「ミナ。その弟を、あとで医師に診せてもらってもいいか」
「お医者さん? でも、うち、お金……」
「いらない。こちらで出す」
ミナは戸惑ったように母親を見た。
母親は何度も頭を下げる。
「セルキア」
「はい」
「行こう。まず、村の人たちに説明する」
頷き、馬車へ戻ろうとした。
その背中へ、ミナが声をかける。
「ねえ。アザラシ、本当に悪くないの?」
振り返った。
「それを、今から確かめます」
言い切ると、ミナはほんの少しだけ笑った。
馬車を降りた瞬間から、村人たちの視線が刺さった。
「王太子様が、何しに来た」
「獣を守れって説教でもしにきたか」
きつい言葉が飛ぶ中、レオニスは臆さず広場の中央へ進んだ。
「聞いてほしいことがある」
ざわめきが少し収まる。
「この海域で、貝や底魚を獲っている者は、しばらく食べるのを控えてほしい」
沈黙のあと、大きな怒鳴り声が上がった。
「ふざけるな!」
「魚が獲れねえ上に、貝まで獲るなってのか!」
「俺たちに死ねって言うのか!」
押し寄せる村人たちの前へ、護衛が慌てて割って入る。だが、レオニスはそれを手で制した。
「理由を説明する」
彼は、学院からの報告書を掲げた。
「北湾の海底から、体に害のある金属が見つかった。海藻が枯れ、貝が死んでいる。魚が減ったのも、おそらくこれが原因だ」
怒鳴り声が止んだ。
「アザラシが魚を食べたからではない。海そのものが汚れている」
「……そんな話、信じられるか」
「信じなくていい。だが、調べさせてほしい」
村人たちを見回す。
「原因を突き止め、止められれば、海は戻る。だが、放っておけば、あなた方の子供が病む。私はそれを見過ごせない」
群衆の後ろから、しわがれた声が上がった。
「王太子様よ」
白髪の老漁師が前へ出てくる。
「うちの孫が、去年から腹を壊しやすくなってな。ミナの弟だ。医者は流行り病だと言うが、治らねえ」
「……いつからだ」
「秋口からだ。ちょうど、貝がよく獲れる時期だった」
場が凍りつく。
老人の前へ歩み寄った。
「その子を、王都の医師に診せてほしい。費用は王家が持つ」
「なぜ、そこまで」
「あなた方の暮らしを守るのも、私の仕事だからだ」
老漁師は、しばらくレオニスの顔を見つめ、深く頭を下げた。
「……頼む」
人垣の端にいたミナが、セルキアの袖をそっと引いた。
「海、元に戻るかな」
「すぐには無理かもしれません」
「……そっか」
「でも、戻す方法を探します。私も、殿下も、保護院のみんなも」
ミナの手を握った。
「アザラシも、ミナさんたちも、同じ海に住んでいますから」
「私は海の中には住んでないけど」
「たしかに!」
思わず二人で笑う。
ほんの少しだけ、村の空気がやわらいだ。
その日、村の広場から怒鳴り声は消えた。
帰りの馬車で、レオニスは窓の外を見つめていた。
「殿下」
同行していたセルキアが、小さく声をかける。
「私、間違っていました」
「何をだ」
「アザラシを助けたいと思っていました。でも、それだけでは足りなかったのです」
膝の上で拳を握っていた。
「あの子たちが病んでいたということは、同じ海を食べている人も、病んでいたということでした。私は、そこまで見ていませんでした」
静かに答えた。
「俺が会議で言ったことを、覚えているか」
「はい。『人か動物か、どちらかだけを選んでいるわけではない』」
「そう。同じ海で暮らす命を、まとめて守ろうとしている」
彼はセルキアを見た。
「君は今、それを自分の言葉で理解した。それで十分だ」
唇を噛み、それから強く頷いた。
「殿下。私、潜ります。何度でも潜ります」
「無茶はするな」
「無茶はしません。でも、全力は出します」
その目には、もう迷いがなかった。
保護院への嘆願書に署名した村である。
村へ入る少し手前で、セルキアが急に馬車の窓へ鼻を寄せた。
「殿下。止めてください」
「何か匂うのか」
「いえ。あの子が」
浜辺で、一人の少女が破れた網を繕っていた。
年はセルキアと同じくらい。日焼けした頬に、短く切った茶色の髪。手つきだけは大人の漁師のように慣れている。
馬車が止まると、少女は警戒したように顔を上げた。
王家の紋章に気づいても、頭を下げるより先にセルキアを見た。
「……あんた、アザラシのところのお嬢様?」
「アザラシのところ……たぶん、そうです!」
「ミナ!」
少し離れた家から母親らしい女性が飛び出してくる。
「王太子殿下になんて口を……!」
「構わない」
レオニスが制すると、ミナは唇を尖らせた。
「だって、うちのお父ちゃんたち、魚が獲れなくて困ってる。なのに王都の人はアザラシばっかり助けるんでしょ」
「アザラシが魚を全部食べたわけではありません!」
反射的に言い返した。
けれど、そこで口を閉じた。
まだ原因を突き止めたわけではない。
自分がアザラシを好きだからというだけで、この子の困りごとまで否定してはいけない。
「……ごめんなさい。まだ、わかっていません」
「え?」
「でも、調べています。アザラシも弱っています。魚も減っています。同じ時期に、同じ海で起きているんです」
ミナは網から手を離した。
「じゃあ、海がおかしいの?」
「たぶん。だから、今日は皆さんにお話を聞きに来ました」
そう答えると、ミナは少しだけ警戒を解いた。
「……弟も、ずっとお腹痛いって言ってる」
「弟さん?」
「八歳。冬になる前くらいから。魚が減ったから、うちは浜で採れる貝をいっぱい食べてた」
セルキアとレオニスが同時に顔を見合わせた。
「貝を?」
「うん。前は大好物だったのに、最近は食べるともっと痛いって」
セルキアの背中を冷たいものが走る。
海の底に積もっていた白いもの。枯れた海藻。死んだ貝。
「殿下」
「ああ」
レオニスの表情も変わっていた。
「ミナ。その弟を、あとで医師に診せてもらってもいいか」
「お医者さん? でも、うち、お金……」
「いらない。こちらで出す」
ミナは戸惑ったように母親を見た。
母親は何度も頭を下げる。
「セルキア」
「はい」
「行こう。まず、村の人たちに説明する」
頷き、馬車へ戻ろうとした。
その背中へ、ミナが声をかける。
「ねえ。アザラシ、本当に悪くないの?」
振り返った。
「それを、今から確かめます」
言い切ると、ミナはほんの少しだけ笑った。
馬車を降りた瞬間から、村人たちの視線が刺さった。
「王太子様が、何しに来た」
「獣を守れって説教でもしにきたか」
きつい言葉が飛ぶ中、レオニスは臆さず広場の中央へ進んだ。
「聞いてほしいことがある」
ざわめきが少し収まる。
「この海域で、貝や底魚を獲っている者は、しばらく食べるのを控えてほしい」
沈黙のあと、大きな怒鳴り声が上がった。
「ふざけるな!」
「魚が獲れねえ上に、貝まで獲るなってのか!」
「俺たちに死ねって言うのか!」
押し寄せる村人たちの前へ、護衛が慌てて割って入る。だが、レオニスはそれを手で制した。
「理由を説明する」
彼は、学院からの報告書を掲げた。
「北湾の海底から、体に害のある金属が見つかった。海藻が枯れ、貝が死んでいる。魚が減ったのも、おそらくこれが原因だ」
怒鳴り声が止んだ。
「アザラシが魚を食べたからではない。海そのものが汚れている」
「……そんな話、信じられるか」
「信じなくていい。だが、調べさせてほしい」
村人たちを見回す。
「原因を突き止め、止められれば、海は戻る。だが、放っておけば、あなた方の子供が病む。私はそれを見過ごせない」
群衆の後ろから、しわがれた声が上がった。
「王太子様よ」
白髪の老漁師が前へ出てくる。
「うちの孫が、去年から腹を壊しやすくなってな。ミナの弟だ。医者は流行り病だと言うが、治らねえ」
「……いつからだ」
「秋口からだ。ちょうど、貝がよく獲れる時期だった」
場が凍りつく。
老人の前へ歩み寄った。
「その子を、王都の医師に診せてほしい。費用は王家が持つ」
「なぜ、そこまで」
「あなた方の暮らしを守るのも、私の仕事だからだ」
老漁師は、しばらくレオニスの顔を見つめ、深く頭を下げた。
「……頼む」
人垣の端にいたミナが、セルキアの袖をそっと引いた。
「海、元に戻るかな」
「すぐには無理かもしれません」
「……そっか」
「でも、戻す方法を探します。私も、殿下も、保護院のみんなも」
ミナの手を握った。
「アザラシも、ミナさんたちも、同じ海に住んでいますから」
「私は海の中には住んでないけど」
「たしかに!」
思わず二人で笑う。
ほんの少しだけ、村の空気がやわらいだ。
その日、村の広場から怒鳴り声は消えた。
帰りの馬車で、レオニスは窓の外を見つめていた。
「殿下」
同行していたセルキアが、小さく声をかける。
「私、間違っていました」
「何をだ」
「アザラシを助けたいと思っていました。でも、それだけでは足りなかったのです」
膝の上で拳を握っていた。
「あの子たちが病んでいたということは、同じ海を食べている人も、病んでいたということでした。私は、そこまで見ていませんでした」
静かに答えた。
「俺が会議で言ったことを、覚えているか」
「はい。『人か動物か、どちらかだけを選んでいるわけではない』」
「そう。同じ海で暮らす命を、まとめて守ろうとしている」
彼はセルキアを見た。
「君は今、それを自分の言葉で理解した。それで十分だ」
唇を噛み、それから強く頷いた。
「殿下。私、潜ります。何度でも潜ります」
「無茶はするな」
「無茶はしません。でも、全力は出します」
その目には、もう迷いがなかった。