可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

第十一話 二十日間

 調査は、二十日に及んだ。

 北湾の地図に、いくつも印をつける。
 その場所へ舟で行き、海の底の泥を少しずつ集めていく。
 今日も。明日も。その次の日も。
 派手さはない。けれど、一つでも抜ければ証拠が弱くなる。

 潜るのは一日に三度まで。
 上がれば必ず真水で全身を洗い、口をすすぐ。
 レオニスが決めた手順を、一度も破らなかった。

 ――ただし、十九日目を除いて。

「殿下。もう一度潜れます」
「駄目だ」
「まだ体力はあります!」
「体力の話をしていない」

 その日は既に三度潜ったあとだった。
 食い下がったが、レオニスは首を縦に振らない。

「あと一か所だけです。明日にすれば、また一日かかります」
「一日で済むなら安いものだ」
「でも——」
「セルキア」

 低い声に、セルキアの言葉が止まる。

「君は今、自分の身体のことを勘定に入れていない」

 結局その日は、そこで舟を戻した。
 悔しそうに舟底を睨むセルキアの背中へ、バルトが声をかける。

「セルキア様。ご自分で書かれた決まりを、お忘れですかな」
「……何のことでしょう」
「二年前、嵐の日に書き足された一行ですよ」

 口を尖らせ、それから小さく呟いた。

「……『じぶんだけは大丈夫、と思わない』」
「ようございます」

 翌日、最後の一か所を終えたとき、セルキアは自分から水筒を手に取った。
 言われる前にすすいだのは、これが初めてだった。

「殿下」
「何だ」
「昨日は、すみませんでした」
「謝ることではない」
「でも、殿下のお顔が怖かったです」
「……そうか」

 少し黙ってから、続けた。

「君が海へ入るたび、俺は綱を握っている。あれは、思っているより重い」

 目を瞬かせた。

「重いですか? 私、そんなに太っていません!」
「そういう話ではない」


「十四か所目、終わりました!」
「記録しましたわ。次は、もう少し北です」

 舟の上で、マリエッタが記録帳に数値を書き込んでいく。
 会計で身につけた細かさが、こういう作業ではとても役に立った。

 そして水中では、セルキアが動いていた。

「殿下。ここ、少し深いです」
「潜れるか」
「はい」

 命綱を確かめ、セルキアが海へ消える。
 通常の潜水夫では届かない深さと、濁った視界。
 だがセルキアは、匂いと感覚だけで、汚れの濃い場所を見つけていく。

「セルキア様の採取した箇所は、外れがありませんな」

 舟を操る老職員のバルトが、感嘆の声を漏らす。

「同じ地点でも、我々が適当に掬うと薄い泥ばかりです。あの方は、必ず一番濃いところを持ってくる」
「どうしてわかるのか、俺にも説明できない」

 レオニスは水面を見つめたまま答えた。

 二十日目、すべての採取が終わった。
 保護院の大机に、地図が広げられる。
 場所ごとの結果を、金属の多さに合わせて色分けしていく。

「殿下。塗り終わりましたわ」

 一歩下がり、三人で地図を覗き込む。
 色は、誰が見てもわかる形を描いていた。

 北湾のいちばん奥――製錬所の排水口のそばが、もっとも濃い。
 そこから離れるほど色は薄くなり、湾の外ではほとんど出ていなかった。

「……源は、ここだ」

 レオニスの指が、排水口を指した。

「言い逃れはできませんわね。自然に流れ出たものなら、排水口を真ん中にして、こんなにきれいな輪の形にはなりません」
「鉱山から流れ出たなら、川の出口を真ん中にして広がるはずだ。だが、川の出口の数値は低い」

 証拠は、揃った。
 だが、マリエッタの表情は硬いまま。

「レオニス様。ご覚悟はおありですか」
「何のことだ」
「あの製錬所に、お金を出している者たちですわ」

 彼女は帳簿の一冊を取り出し、あるページを開いた。

「王都の商会が三分の一。残りは、貴族の名義です。……ヴァルデン侯爵家、シェリング伯爵家、それから」

 一瞬、口をつぐんだ。

「わたくしの、母方の実家ですわ」
「……マリエッタ」
「隠すつもりはございません。帳簿を洗っていて、気づきました」

 彼女は顔を上げた。その目は、逃げていなかった。

「わたくしは保護院の会計責任者です。この報告を握り潰せば、実家は守れます。けれど……あの村の子供が、腹を壊しております。守るべきものを間違えるつもりはありませんわ」

 地図の上の濃い色を見下ろす。
 レオニスは静かに頷いた。

「……六年前、君は俺に言ったな。『助けられた命が、また誰かを助けることもある』と」
「覚えておりますわ」
「君は今、それを実践している」

 目を伏せ、それから小さく息を吐いた。

「褒めても、報告書の期日は延ばしませんわよ」
「延ばしてくれとは言っていない」


 王宮での審議は、荒れた。

「証拠が不十分である!」
「王太子殿下は、獣を守るために正当な産業を潰すおつもりか!」

 製錬所にお金を出している貴族たちが、次々に立ち上がる。

「金属の供給が止まれば、王都の建設も、武具の生産も滞ります。それでもよろしいのですか」
「止めるとは言っていない」

 静かに応じた。

「汚れた水をきれいにする設備を直してほしいと言っている。製錬所そのものを止めろとは言っていない」
「設備には莫大な費用がかかります!」
「では、その費用と、沿岸五村の漁業と、村人の健康を天秤にかけるのですか」

 場が静まる。

「私は数字を持ってきた」

 地図と調べた結果を掲げた。

「金属が一番多かった場所。海藻や貝が死んだ場所。弱ったアザラシたちが食べていたもの。そして、村の医師の報告」

 最後の一枚をめくる。

「王都の医師が、あの村の子供を診た。金属による中毒の初期症状が出ているそうだ」

 どよめきが広がっていく。

「これが続けば、次に倒れるのは大人だ。働き手を失った村は、税を納められなくなる。産業を守ったつもりで、国は損をする」

 貴族たちを見回した。

「私は、誰かを罰したいのではない。海を元に戻したいだけだ」

 長い沈黙のあと、国王が口を開いた。

「……レオニス」
「はい、父上」
「その改修費用、どこから出す」
「三分の一を王家が負担します」

 場がざわめいた。

「残りは、製錬所にお金を出している者たちに負担してもらいます。ただし利子は取りません。長い時間をかけて返せるようにします。潰すつもりはない、と申し上げたとおりです」

 国王は、しばらく息子を見つめていた。

「よかろう。審議を通す」
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