可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第九話 海が黙る
部屋の空気が、わずかに変わった。
「製錬所」
「山で採れた鉱石を、船で運んで処理しております。王都へ金属を供給する重要施設ですわ」
「排水は?」
「規定どおり処理していると、報告は受けております」
マリエッタの言い方には、含みがあった。
「報告は、な」
「ええ。報告は」
セルキアが顔を上げた。
「殿下。私、確かめに行きます」
「危険だ」
「でも、匂いを追えるのは私だけです」
まっすぐな目。
八歳の頃、岩場の子アザラシを言い当てたときと同じ目。
しばらく黙っていた。
「……条件がある」
「はい!」
「単独では潜らない。必ず俺と職員が同行する。潜る時間も、俺が決める」
「はい!」
「それから」
レオニスは、セルキアの前に膝をついて視線を合わせた。
「少しでも身体に異変を感じたら、すぐ上がれ。何も見つからなくてもいい。君の命のほうが重い」
目を丸くし、それから小さく頷いた。
「……はい」
翌朝、調査隊が組まれた。
小舟が三艘、北湾の入口へ向かう。空は曇り、海面は鈍い灰色をしていた。
「殿下。このあたりから、匂いが強くなります」
舟の縁に手をかけ、セルキアが告げる。
「潜れそうか」
「はい」
上着を脱ぎ、簡素な水着姿になった。腰には命綱が結ばれている。
「三十数える間だけだ。それを過ぎたら引き上げる」
「三十では短いです!」
「五十まで待つ。それ以上は認めない」
「はぁい……」
「もう一つ」
レオニスが小さな革袋を差し出した。中には水筒が入っている。
「上がったら、必ず口をすすげ。飲み込むな。それから真水で全身を洗う」
「なぜですか?」
「海底に何があるか、まだわからない。アザラシは平気でも、君の身体は人間のものだ」
水筒を見つめ、それから素直に頷いた。
「……はい」
「返事が短いな」
「口をすすぐの、苦手なのです」
「我慢しなさい」
「はぁい……」
水しぶきが上がり、白い身体が海中へ消えた。
綱を握りしめ、水面を見つめる。
――一、二、三。
数を数えるたび、心臓が鳴った。
六年前、幼いセルキアが波間へ消えたときと同じ感覚だった。
――三十。三十二。四十。
「殿下、そろそろ」
「まだだ」
――四十八、四十九。
水面が割れた。
「殿下!」
息を吐きながら浮上したセルキアの手には、黒く変色した海藻の塊が握られていた。
「引き上げろ!」
舟へ上がったセルキアの口元へ、レオニスがすぐ水筒を差し出す。
言われたとおり、三度すすいで海へ吐いた。
「もう一度」
「もうしました!」
「もう一度だ」
四度目をすすぎ終えてから、ようやく毛布に包まれる。
「底のほうです。岩に、白いものが積もっていました。海藻が枯れて、貝も死んでいます」
「魚は?」
「一匹もいませんでした。あんなに静かな海は、初めてです」
セルキアの声が震えていた。寒さのせいだけではなかった。
「海が、黙っています」
持ち帰った海藻と海底の泥は、その日のうちに王立学院へ送られた。
結果が出るまでの三日間、レオニスは保護院に留まった。
「殿下がこちらに滞在されるのは、異例ですわね」
マリエッタが茶を運びながら言う。
「王宮にいても、できることがない」
「政務は?」
「書類は運ばせている。判は、どこでも押せる」
窓の外では、セルキアがプールの縁にしゃがみ込んでいた。
弱ったアザラシの様子を、一頭ずつ記録している。
「あの子、昨日から三時間しか眠っておりませんわ」
「止めなかったのか」
「止めましたわ。三度ほど」
肩をすくめた。
「『まだ書けます』と言って聞かないのです。誰かに似ておりますわね」
答えなかった。
三日目の夕刻、早馬が到着した。
王立学院からの報告書には、こう記されていた。
『海の底から、普通では考えられないほど多くの金属を検出。海藻や貝が死んでいる原因である可能性が高い』
「……製錬所か」
レオニスの声は低かった。
「殿下。ですが、これだけで製錬所のせいだと決めることはできませんわ」
マリエッタが冷静に指摘する。
「排水が原因だという直接の証拠がありません。先方は必ず『上流の鉱山から自然に流れ出たものだ』と主張しますわ」
「その通りだ。だから、経路を押さえる」
地図を広げた。
「セルキアは、匂いが北湾の奥へ行くほど強くなると言った。ならば、源は湾の最奥にある」
「製錬所の排水口ですわね」
「排水口の近くから、少しずつ離れながら泥を集める。遠ざかるほど金属が減っていくなら、そこから流れ出たと示せる」
その夜、セルキアがランプを手に事務室へやってきた。
「殿下。まだ起きていらしたのですか」
「君こそ」
「私は、思いついたことがありまして」
机に自分の記録帳を広げた。細かい字で、日付と観察が並んでいる。
「弱った子たちですが、みんな同じ場所で餌を探していたのだと思います」
「なぜわかる」
「胃の中に残っていたものです。獣医さまに聞いて、書き留めました」
ページをめくると、そこにはアザラシたちが何を食べていたか、細かく書かれていた。
「元気な子は、いろいろな魚を食べています。でも、弱った子は、砂に潜る貝や、底にいる魚ばかりです」
「……底の生き物を食べている」
「はい。毒が積もっているのは、海の底です」
思わず息を止めた。
海の上のほうを泳ぐ魚を食べていた子は元気だ。
なのに、海の底にいる貝や魚を食べた子だけが弱っている。
毒のようなものは、海の底にたまっているのかもしれない。
「セルキア。これを、いつからつけていた」
「二か月前です。おかしいと思ったので」
二か月前――誰も異変に気づいていなかった頃だ。
「君は、なぜ報告しなかった」
「証拠が足りませんでした」
まっすぐレオニスを見上げた。
「マリエッタ様が教えてくださいました。『あなたにしかわからないままでは、何も残りません』と。だから、数を集めていました」
思わず笑ってしまった。
「……そうか」
「殿下?」
「いや。君が、俺の想像よりずっと先を歩いていたことが、嬉しい」
セルキアの頬が、ほんのり赤くなる。
「あの、殿下」
「何だ」
「これは、人間にも関わりますか」
その問いに、レオニスの表情が引き締まった。
「ああ」
「やはり、そうですか」
「海底の生き物を食べるのは、アザラシだけではない。貝も、底魚も、人が食べる」
セルキアの顔から血の気が引いた。
「では、漁師の方々は……」
「今すぐ調べる。明日の朝、村へ行く」
「製錬所」
「山で採れた鉱石を、船で運んで処理しております。王都へ金属を供給する重要施設ですわ」
「排水は?」
「規定どおり処理していると、報告は受けております」
マリエッタの言い方には、含みがあった。
「報告は、な」
「ええ。報告は」
セルキアが顔を上げた。
「殿下。私、確かめに行きます」
「危険だ」
「でも、匂いを追えるのは私だけです」
まっすぐな目。
八歳の頃、岩場の子アザラシを言い当てたときと同じ目。
しばらく黙っていた。
「……条件がある」
「はい!」
「単独では潜らない。必ず俺と職員が同行する。潜る時間も、俺が決める」
「はい!」
「それから」
レオニスは、セルキアの前に膝をついて視線を合わせた。
「少しでも身体に異変を感じたら、すぐ上がれ。何も見つからなくてもいい。君の命のほうが重い」
目を丸くし、それから小さく頷いた。
「……はい」
翌朝、調査隊が組まれた。
小舟が三艘、北湾の入口へ向かう。空は曇り、海面は鈍い灰色をしていた。
「殿下。このあたりから、匂いが強くなります」
舟の縁に手をかけ、セルキアが告げる。
「潜れそうか」
「はい」
上着を脱ぎ、簡素な水着姿になった。腰には命綱が結ばれている。
「三十数える間だけだ。それを過ぎたら引き上げる」
「三十では短いです!」
「五十まで待つ。それ以上は認めない」
「はぁい……」
「もう一つ」
レオニスが小さな革袋を差し出した。中には水筒が入っている。
「上がったら、必ず口をすすげ。飲み込むな。それから真水で全身を洗う」
「なぜですか?」
「海底に何があるか、まだわからない。アザラシは平気でも、君の身体は人間のものだ」
水筒を見つめ、それから素直に頷いた。
「……はい」
「返事が短いな」
「口をすすぐの、苦手なのです」
「我慢しなさい」
「はぁい……」
水しぶきが上がり、白い身体が海中へ消えた。
綱を握りしめ、水面を見つめる。
――一、二、三。
数を数えるたび、心臓が鳴った。
六年前、幼いセルキアが波間へ消えたときと同じ感覚だった。
――三十。三十二。四十。
「殿下、そろそろ」
「まだだ」
――四十八、四十九。
水面が割れた。
「殿下!」
息を吐きながら浮上したセルキアの手には、黒く変色した海藻の塊が握られていた。
「引き上げろ!」
舟へ上がったセルキアの口元へ、レオニスがすぐ水筒を差し出す。
言われたとおり、三度すすいで海へ吐いた。
「もう一度」
「もうしました!」
「もう一度だ」
四度目をすすぎ終えてから、ようやく毛布に包まれる。
「底のほうです。岩に、白いものが積もっていました。海藻が枯れて、貝も死んでいます」
「魚は?」
「一匹もいませんでした。あんなに静かな海は、初めてです」
セルキアの声が震えていた。寒さのせいだけではなかった。
「海が、黙っています」
持ち帰った海藻と海底の泥は、その日のうちに王立学院へ送られた。
結果が出るまでの三日間、レオニスは保護院に留まった。
「殿下がこちらに滞在されるのは、異例ですわね」
マリエッタが茶を運びながら言う。
「王宮にいても、できることがない」
「政務は?」
「書類は運ばせている。判は、どこでも押せる」
窓の外では、セルキアがプールの縁にしゃがみ込んでいた。
弱ったアザラシの様子を、一頭ずつ記録している。
「あの子、昨日から三時間しか眠っておりませんわ」
「止めなかったのか」
「止めましたわ。三度ほど」
肩をすくめた。
「『まだ書けます』と言って聞かないのです。誰かに似ておりますわね」
答えなかった。
三日目の夕刻、早馬が到着した。
王立学院からの報告書には、こう記されていた。
『海の底から、普通では考えられないほど多くの金属を検出。海藻や貝が死んでいる原因である可能性が高い』
「……製錬所か」
レオニスの声は低かった。
「殿下。ですが、これだけで製錬所のせいだと決めることはできませんわ」
マリエッタが冷静に指摘する。
「排水が原因だという直接の証拠がありません。先方は必ず『上流の鉱山から自然に流れ出たものだ』と主張しますわ」
「その通りだ。だから、経路を押さえる」
地図を広げた。
「セルキアは、匂いが北湾の奥へ行くほど強くなると言った。ならば、源は湾の最奥にある」
「製錬所の排水口ですわね」
「排水口の近くから、少しずつ離れながら泥を集める。遠ざかるほど金属が減っていくなら、そこから流れ出たと示せる」
その夜、セルキアがランプを手に事務室へやってきた。
「殿下。まだ起きていらしたのですか」
「君こそ」
「私は、思いついたことがありまして」
机に自分の記録帳を広げた。細かい字で、日付と観察が並んでいる。
「弱った子たちですが、みんな同じ場所で餌を探していたのだと思います」
「なぜわかる」
「胃の中に残っていたものです。獣医さまに聞いて、書き留めました」
ページをめくると、そこにはアザラシたちが何を食べていたか、細かく書かれていた。
「元気な子は、いろいろな魚を食べています。でも、弱った子は、砂に潜る貝や、底にいる魚ばかりです」
「……底の生き物を食べている」
「はい。毒が積もっているのは、海の底です」
思わず息を止めた。
海の上のほうを泳ぐ魚を食べていた子は元気だ。
なのに、海の底にいる貝や魚を食べた子だけが弱っている。
毒のようなものは、海の底にたまっているのかもしれない。
「セルキア。これを、いつからつけていた」
「二か月前です。おかしいと思ったので」
二か月前――誰も異変に気づいていなかった頃だ。
「君は、なぜ報告しなかった」
「証拠が足りませんでした」
まっすぐレオニスを見上げた。
「マリエッタ様が教えてくださいました。『あなたにしかわからないままでは、何も残りません』と。だから、数を集めていました」
思わず笑ってしまった。
「……そうか」
「殿下?」
「いや。君が、俺の想像よりずっと先を歩いていたことが、嬉しい」
セルキアの頬が、ほんのり赤くなる。
「あの、殿下」
「何だ」
「これは、人間にも関わりますか」
その問いに、レオニスの表情が引き締まった。
「ああ」
「やはり、そうですか」
「海底の生き物を食べるのは、アザラシだけではない。貝も、底魚も、人が食べる」
セルキアの顔から血の気が引いた。
「では、漁師の方々は……」
「今すぐ調べる。明日の朝、村へ行く」