可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

第十七話 重い病

 顔を上げたときには、曲が終わっていた。
 二人は礼をして離れる。

 自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえることに気づいた。


 その後、レオニスは他の令嬢とも次々と踊り始めた。
 使節の関係者や、有力貴族の娘たち。
 王太子として、断る理由はない。

 壁際に戻ったセルキアは、その光景を見ていた。
 美しい令嬢が、レオニスの手を取る。
 笑いかける。彼が穏やかに応じる。

 ――胸が、変です。

 自分の胸元を押さえた。

 痛いわけではない、苦しいわけでもない……
 ただ、何か重いものが沈んでいるような感覚。

 ――お腹でしょうか。今日はまだ何も食べていません。

 そう思って給仕の卓へ向かったが、並んだ料理を見ても食欲が湧かなかった。

「……おかしいです」

 魚料理を前にして食欲が湧かないなど、生まれて初めてのことだった。

「あら。どうなさいましたの」

 マリエッタが隣に来た。

「マリエッタ様。私、病気かもしれません……」
「症状は?」
「胸が重いです。それから、お魚が食べたくありません」

 しゅんとするセルキアの様子を見て、マリエッタは扇を口元に当てた。
 こらえ切れず、肩が震え出してしまう。

「マリエッタ様?」
「……いえ。それは、重い病ですわね」
「治りますか!?」
「治りませんわ。一生ものですの」
「一生!?」

 真っ青になるセルキアを見て、マリエッタはついに笑い出した。

「ど、どうしたらよいのでしょう!?お父様とお母さまを心配させてしまいます!」
「大丈夫ですわ。命に別状はございません」
「では、何の病気ですか」
「ご自分でお考えなさい」
「マリエッタ様!」

 その夜、公爵邸に戻ったセルキアは、なかなか寝つけなかった。

 窓を開けると、潮の匂いが入ってくる。

 ――殿下が、他の方と踊っていました。

 それは当然のことだった。
 王太子なのだから。

 ――でも、私は嫌でした。

 自分でも驚くほど、はっきりとした感情。
 寝台に座り込み、膝を抱えた。

 九年前、五歳の自分は「殿下を幸せにします」と宣言した。
 それは恩返しのつもりだった。助けてもらったから、返す。

 単純な話。

 ――では、今は?

 殿下の役に立ちたい……それは変わらない。
 でも、他の誰かが殿下の隣にいるのは嫌だ。

 ――恩返しなら、誰が隣にいても構わないはずです。

 その考えに辿り着いた瞬間、セルキアは顔から火が出そうになった。

「……あ」

 毛布を頭からかぶる。

 ――私、殿下のことを。

 その先の言葉を、まだ口にできなかった。

 同じ夜、王宮のバルコニーでは、レオニスが夜風に当たっていた。

「レオニス様。冷えますわよ」

 マリエッタが上着を持って現れる。

「……マリエッタか」
「今夜のあなた、ずいぶん大人げなくていらっしゃいましたわね」
「何のことだ」
「アルヴィス卿ですわ。あの方、まだ十六歳ですのよ」

 答えなかった。

「王太子ともあろう方が、少年相手に威圧なさるとは」
「……悪かったと思っている」
「思っていない顔ですわね」

 呆れたように息を吐いた。

「ですが、良い兆しもございましたわ」
「兆し?」
「あの子、初めて胸が苦しいと申しておりましたの」

 レオニスの目が、わずかに見開かれた。

「魚を前にして、食欲がないと」
「……セルキアが?」
「ええ。重症ですわね」

 いたずらっぽく笑った。

「あと少しですわ、レオニス様」
「……そうか」

 夜空を仰いだ。

 九年待った。あと一年、あるいは数か月。
 その先に何が待っているのか、まだ確信は持てない。
 それでも、風が少しだけ、暖かくなった気がした。




 翌朝、フォーシール公爵邸の朝食の席では、別の意味で空気が妙だった。

 焼き魚がある。
 セルキアの好物である。
 しかも、今朝港に上がったばかりの新鮮な魚だ。

 なのにセルキアは、魚を前にしてぼんやりしていた。

 公爵が妻を見る。
 夫人も夫を見る。
 二人でもう一度、娘を見る。

「セルキア」
「はい」
「魚だぞ」
「……はい」
「今朝のだぞ」
「匂いでわかります」
「なのに食べないのか!?」

 公爵がとうとう耐えきれず、身を乗り出した。

「あなた。そこまで驚かなくても」
「この子が魚を前にして動かないんだぞ。医者を呼ぶべきではないか」
「マリエッタ様にも、重い病だと言われました……」
「医者だ!」
「あなたは黙っていらして」

 夫人は夫を座らせ、セルキアへ向き直った。

「昨夜、何かあったの?」
「何も……」
「本当に?」

 魚へ視線を落とした。

「殿下が、ほかの令嬢と踊っていらっしゃいました」
「まあ」
「王太子なのだから当然――いたっ」

 公爵が言いかけたところで、夫人が卓の下でその足を踏んだ。

「あなたは少し、お黙りになって」
「……はい」

 二人のやり取りにも気づかず、フォークで魚の身をつつく。

「別に、おかしなことではありません。殿下は王太子です。たくさんの方と踊る必要があります」
「ええ」
「私もわかっています」
「ええ」
「でも、嫌でした」

 最後だけ、声が小さくなった。

 公爵夫妻はまた顔を見合わせた。
 今度は、どちらも口元が少し緩んでいる。

「……何ですか」
「いいえ、何も」
「お父さまも笑っています」
「笑っていないぞ」
「口が笑っています!」

 公爵は慌てて口元を手で隠した。
 夫人は静かに茶を飲む。

「セルキア。もし、殿下がどなたかと婚約なさったら?」

 セルキアの手からフォークが落ちた。

「こ、婚約?」
「王太子殿下なのですもの。いつかはなさるでしょう」
「それは……」

 おめでたいことです。
 そう言えばいいだけなのに、言葉が出ない。

 知らない令嬢がレオニスの隣に立つところを想像した。
 毎朝顔を合わせるのも、その人。
 夜会で最初に踊るのも、その人。
 いつか王妃として隣に立つのも、その人。

 胸の奥が、昨日よりもっと重くなった。

「……お魚、食べられません」
「本当に重症だな」
「あなた」

 また夫人に睨まれ、公爵が口を閉じる。

「セルキア。無理に答えを出さなくてもいいのよ」
「でも……」
「あなたは、海の異変には誰より早く気づくのに、自分の気持ちには少し時間がかかるようだから」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」

 夫人は楽しそうに笑った。

 やっぱり、わからなかった。
 ただ一つわかったのは、このまま王宮にいても考えがまとまりそうにないということだけ。

「私、保護院へ行ってきます!」
「今日は勉強の日では?」
「午後には戻ります!」

 椅子から立ち上がり、数歩進んだところでセルキアは戻ってきた。
 焼き魚を包んでもらい、今度こそ出ていく。

「食欲はあるのね」
「そこは安心した」

 扉が閉じる。
 公爵は娘が消えた方向を見ながら、小さく息を吐いた。

「殿下も、長かったな」
「まだですわ。あの子が自分で気づくまで、お待ちになるおつもりなのでしょう」
「……本当に待つ気なのか」
「だから、私たちも余計なことは言わないのです」

 そう言いながらも、公爵夫人の顔は少し楽しそうだった。
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