可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第十八話 それを決めるのは、あなたではありません
夜会から数日後、セルキアは保護院にいた。
王宮での勉強も続いているが、週に二日は必ずここへ通っている。
それは九年間、一度も途切れなかった習慣だった。
「セルキア様。今日はやけに静かですな」
餌の桶を運ぶバルトが、不思議そうに言う。
「そうでしょうか」
「いつもなら、門をくぐった時点で五番だ七番だと騒いでおられる」
「……すみません」
「謝ることではありませんが」
プールの縁に腰を下ろし、水面を眺めていた。
一頭の若いアザラシが近づいてきて、じっと彼女を見上げる。
「あなたも、私が変だと思いますか」
アザラシは、ぷいと顔を背けて潜っていった。
「……そうですよね」
膝を抱えた。
あの夜から、ずっと考えている。
自分の中に生まれた感情に、名前をつけようとして、そのたびに逃げていた。
――もし、これが恋なら。
恋を知らないわけではない。
物語の中では何度も読んだ。
マリエッタからも「令嬢の嗜みとして」いくつかの詩集を渡されている。
だが、自分がそうなるとは思っていなかった。
――私は、元アザラシです。
その事実が、初めて重く感じられた。
これまで「元アザラシなので!」は、彼女にとって誇りだった。
泳ぎが得意なことも、匂いがわかることも、すべてそこから来ている。
だが、王太子の隣に立つことを考えたとき、それは急に別の意味を持ち始めた。
――どこから来たのかも、わからない生き物です。
公爵家の養女ではある自分には血筋はない。
証明できるものが、何一つない。
「セルキア」
背後から声がした。振り返ると、マリエッタが立っている。
「マリエッタ様」
「今日の隣国語の課題、提出されておりませんわね」
「……忘れていました」
「あなたが提出を忘れるのは、二年で初めてですわ」
マリエッタは隣に腰を下ろした。ドレスが濡れることも気にしていない。
「何をお悩みですの」
「悩んでいません」
「嘘が下手ですわね」
しばらく沈黙が流れた。
二人の間を波の音だけが響く。
「……マリエッタ様」
「ええ」
「私は、王太子妃になれるでしょうか」
マリエッタは、すぐには答えなかった。
「なりたいのですか?」
「わかりません……でも、殿下の隣に、他の方が立つのは嫌です」
言葉に詰まりながら、正直な気持ちを答えた。
「それは、恋ですわね」
「そんな、私は……っ」
あっさりと言われて、セルキアは真っ赤になっていく。
「認めたくないのは、なぜです」
鋭い問いに、セルキアは膝の上で手を握りしめた。
「私は、元アザラシです……」
「存じております」
「血筋も、生まれも、何もわかりません。それに、私が海から来たことを知っている人は、王都にはほとんどいません」
「ええ」
「もし知られたら、殿下のご迷惑になるんじゃないでしょうか」
セルキアの声が震えた。
「っ……殿下は、私を助けてくださいました。私が殿下に返せるのは、恩返しだけです。それ以上を望むのは、図々しいことではありませんか?」
大きな黒目勝ちの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れていく。
「セルキア」
「はい」
「わたくしは、十四歳のとき、あなたを追い出そうといたしました」
「……はい」
「あのとき、わたくしは『王太子妃にふさわしい者』という基準を、母から教わったとおりに信じておりました」
そう言いながら、セルキアの頬を優しく拭うと、彼女は海を見つめた。
「三か国語を話せること。作法を身につけていること。血筋が正しいこと。それらを満たせば、わたくしは価値があるのだと。けれど、わたくしは海に落ちて、五歳のあなたに助けられました」
黙って聞いていた。
マリエッタの口元が、わずかに緩む。
「あのとき、わたくしを助けたのは、血筋でも語学力でもございませんでした。ただ、溺れている者を放っておけないという、あなたの心ですわ」
「……マリエッタ様」
「あなたが図々しいとおっしゃるなら、わたくしはもっと図々しかったことになりますわね。何一つ持たないくせに、資格があると思い込んでおりましたもの」
首を振った。
「そんなことないです!マリエッタ様はいつも私によくしてくれました!」
「同じことですわ」
立ち上がり、スカートの砂を払った。
「セルキア。あなたが自分にふさわしくないと思うのは自由です。ですが、それを決めるのはあなたではありませんわ」
「では、誰が……」
「殿下と、あなた自身の二人ですわ。他の誰でもございません」
その言葉に、顔を上げた。
「……でも、そうですわね。あなたが降りるというのでしたら、わたくしが王太子妃になりますわ」
「っ!!ダメです!!マリエッタ様のことを嫌いになりたくありません!!」
嫌う……?誰かを嫌いだと思ったことなど、セルキアにはなかった。
でも、誰かがあの人の隣に立つと思ったら、その感情を想像できてしまった。
「よろしいこと?あなたが遠慮して身を引いたとして、その結果、殿下が別の方と婚約なさったとします」
「……はい」
「あなたはそれを、心から祝福できますの」
答えられなかった。
「できないのなら、逃げているだけですわ」
「それは……」
容赦なく言い切り、それから少し声を和らげた。
「……それに、あなたが心配なさっていることは、たいてい杞憂ですのよ」
「え?」
「殿下は、あなたが海から来たことを最初からご存じですわ。九年間、一度も態度を変えておられません」
はっと目を見開いた。
「殿下は、あなたが元アザラシだからそばに置いておられるのでも、元アザラシなのに置いておられるのでもございません。ただ、セルキアだから、ですわ」
扇を広げた。
「さて、説教はここまでですわ。隣国語の課題、明日までに提出なさい」
「……はい」
「返事は?」
「ええ!」
「よろしい」
その夜、セルキアは保護院の記録帳を開いた。
六年分の記録が、そこにある。
最初のページは、たどたどしい平仮名だった。
『五番プールのこども、しょくよくていかおよびかつどうせいのていかが見られる』
途中から、字が整い始める。
三年目には、簡単な図が描かれるようになった。
五年目には、数字をまとめた表も出てきた。
北湾の事件のページは、細かい字でびっしり埋まっていた。
そして最後のページ。
羽根ペンを取り、新しい行に書き込んだ。
『十四歳、秋。胸が重い。魚が食べられない。原因は不明』
しばらく見つめてから、その下に一行を足した。
『いや、原因はわかっている』
そこでペンが止まった。
書けなかった。
まだ、文字にする勇気がなかった。
記録帳を閉じ、窓の外を見ると、海が月明かりに光っている。
九年前、あの海から来た。
公爵夫妻に拾われ、レオニスに助けられ、マリエッタに叱られ、保護院で育った。
――私は、どこへ行くのでしょう。
答えは、まだ見つからなかった。
だが、行きたい場所だけは、はっきりしていた。
王宮での勉強も続いているが、週に二日は必ずここへ通っている。
それは九年間、一度も途切れなかった習慣だった。
「セルキア様。今日はやけに静かですな」
餌の桶を運ぶバルトが、不思議そうに言う。
「そうでしょうか」
「いつもなら、門をくぐった時点で五番だ七番だと騒いでおられる」
「……すみません」
「謝ることではありませんが」
プールの縁に腰を下ろし、水面を眺めていた。
一頭の若いアザラシが近づいてきて、じっと彼女を見上げる。
「あなたも、私が変だと思いますか」
アザラシは、ぷいと顔を背けて潜っていった。
「……そうですよね」
膝を抱えた。
あの夜から、ずっと考えている。
自分の中に生まれた感情に、名前をつけようとして、そのたびに逃げていた。
――もし、これが恋なら。
恋を知らないわけではない。
物語の中では何度も読んだ。
マリエッタからも「令嬢の嗜みとして」いくつかの詩集を渡されている。
だが、自分がそうなるとは思っていなかった。
――私は、元アザラシです。
その事実が、初めて重く感じられた。
これまで「元アザラシなので!」は、彼女にとって誇りだった。
泳ぎが得意なことも、匂いがわかることも、すべてそこから来ている。
だが、王太子の隣に立つことを考えたとき、それは急に別の意味を持ち始めた。
――どこから来たのかも、わからない生き物です。
公爵家の養女ではある自分には血筋はない。
証明できるものが、何一つない。
「セルキア」
背後から声がした。振り返ると、マリエッタが立っている。
「マリエッタ様」
「今日の隣国語の課題、提出されておりませんわね」
「……忘れていました」
「あなたが提出を忘れるのは、二年で初めてですわ」
マリエッタは隣に腰を下ろした。ドレスが濡れることも気にしていない。
「何をお悩みですの」
「悩んでいません」
「嘘が下手ですわね」
しばらく沈黙が流れた。
二人の間を波の音だけが響く。
「……マリエッタ様」
「ええ」
「私は、王太子妃になれるでしょうか」
マリエッタは、すぐには答えなかった。
「なりたいのですか?」
「わかりません……でも、殿下の隣に、他の方が立つのは嫌です」
言葉に詰まりながら、正直な気持ちを答えた。
「それは、恋ですわね」
「そんな、私は……っ」
あっさりと言われて、セルキアは真っ赤になっていく。
「認めたくないのは、なぜです」
鋭い問いに、セルキアは膝の上で手を握りしめた。
「私は、元アザラシです……」
「存じております」
「血筋も、生まれも、何もわかりません。それに、私が海から来たことを知っている人は、王都にはほとんどいません」
「ええ」
「もし知られたら、殿下のご迷惑になるんじゃないでしょうか」
セルキアの声が震えた。
「っ……殿下は、私を助けてくださいました。私が殿下に返せるのは、恩返しだけです。それ以上を望むのは、図々しいことではありませんか?」
大きな黒目勝ちの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れていく。
「セルキア」
「はい」
「わたくしは、十四歳のとき、あなたを追い出そうといたしました」
「……はい」
「あのとき、わたくしは『王太子妃にふさわしい者』という基準を、母から教わったとおりに信じておりました」
そう言いながら、セルキアの頬を優しく拭うと、彼女は海を見つめた。
「三か国語を話せること。作法を身につけていること。血筋が正しいこと。それらを満たせば、わたくしは価値があるのだと。けれど、わたくしは海に落ちて、五歳のあなたに助けられました」
黙って聞いていた。
マリエッタの口元が、わずかに緩む。
「あのとき、わたくしを助けたのは、血筋でも語学力でもございませんでした。ただ、溺れている者を放っておけないという、あなたの心ですわ」
「……マリエッタ様」
「あなたが図々しいとおっしゃるなら、わたくしはもっと図々しかったことになりますわね。何一つ持たないくせに、資格があると思い込んでおりましたもの」
首を振った。
「そんなことないです!マリエッタ様はいつも私によくしてくれました!」
「同じことですわ」
立ち上がり、スカートの砂を払った。
「セルキア。あなたが自分にふさわしくないと思うのは自由です。ですが、それを決めるのはあなたではありませんわ」
「では、誰が……」
「殿下と、あなた自身の二人ですわ。他の誰でもございません」
その言葉に、顔を上げた。
「……でも、そうですわね。あなたが降りるというのでしたら、わたくしが王太子妃になりますわ」
「っ!!ダメです!!マリエッタ様のことを嫌いになりたくありません!!」
嫌う……?誰かを嫌いだと思ったことなど、セルキアにはなかった。
でも、誰かがあの人の隣に立つと思ったら、その感情を想像できてしまった。
「よろしいこと?あなたが遠慮して身を引いたとして、その結果、殿下が別の方と婚約なさったとします」
「……はい」
「あなたはそれを、心から祝福できますの」
答えられなかった。
「できないのなら、逃げているだけですわ」
「それは……」
容赦なく言い切り、それから少し声を和らげた。
「……それに、あなたが心配なさっていることは、たいてい杞憂ですのよ」
「え?」
「殿下は、あなたが海から来たことを最初からご存じですわ。九年間、一度も態度を変えておられません」
はっと目を見開いた。
「殿下は、あなたが元アザラシだからそばに置いておられるのでも、元アザラシなのに置いておられるのでもございません。ただ、セルキアだから、ですわ」
扇を広げた。
「さて、説教はここまでですわ。隣国語の課題、明日までに提出なさい」
「……はい」
「返事は?」
「ええ!」
「よろしい」
その夜、セルキアは保護院の記録帳を開いた。
六年分の記録が、そこにある。
最初のページは、たどたどしい平仮名だった。
『五番プールのこども、しょくよくていかおよびかつどうせいのていかが見られる』
途中から、字が整い始める。
三年目には、簡単な図が描かれるようになった。
五年目には、数字をまとめた表も出てきた。
北湾の事件のページは、細かい字でびっしり埋まっていた。
そして最後のページ。
羽根ペンを取り、新しい行に書き込んだ。
『十四歳、秋。胸が重い。魚が食べられない。原因は不明』
しばらく見つめてから、その下に一行を足した。
『いや、原因はわかっている』
そこでペンが止まった。
書けなかった。
まだ、文字にする勇気がなかった。
記録帳を閉じ、窓の外を見ると、海が月明かりに光っている。
九年前、あの海から来た。
公爵夫妻に拾われ、レオニスに助けられ、マリエッタに叱られ、保護院で育った。
――私は、どこへ行くのでしょう。
答えは、まだ見つからなかった。
だが、行きたい場所だけは、はっきりしていた。