可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

第十九話 三日後の浜辺

 冬が来て、春が過ぎ、セルキアは十五歳の誕生日を迎えようとしていた。

 この一年、彼女は驚くほど変わった。
 隣国語はすらすら話せるようになり、王宮での礼儀作法も身についた。
 夜会に出れば「フォーシール公爵家のご令嬢」として通用する。
 北湾での功績も、王都の貴族に広く知られるようになっていた。

 だが、変わらないものもあった。

「殿下!今日、東の岩礁で子アザラシが二頭保護されました!」

 王宮の廊下を、セルキアが早足で歩いてくる。
 走ってはいない……走らないと決めているからだ。

「報告は聞いている」
「一頭は元気ですが、もう一頭は少し心配です」
「獣医の見立ては?」
「しばらく様子を見るそうです。でも、私は明日また見に行きます」

 二十二歳になったレオニスは、そんな彼女を眺めながら微笑んだ。

「君は、変わらないな」
「変わりました!廊下を走らなくなりました!」
「それは大きな進歩だ」

 二人は並んで歩き出す。

「セルキア。誕生日はどうする」
「特に、何も」
「公爵夫妻が祝いたいと言っていたが」
「では、家で静かに過ごします」

 その返答に、レオニスはわずかに眉を上げた。
 昨年までなら「お魚を出してください!」と即答していたはずだ。

「……体調でも悪いのか」
「いいえ!元気です!」
「そうか」

 少し早口だった。

 この一年、彼女は自分の中の感情と向き合い続けていた。
 名前をつけることはできた。
 だが、それをどうすればいいのかがわからない。

 言えば、何かが変わってしまう。
 今の距離が心地よい分だけ、失うのが怖かった。


 その頃、王宮では別の動きがあった。

「殿下。隣国から、正式な申し入れがございました」

 文官が書状を差し出す。

「第二王女殿下との、婚姻についてのお話です」
「……唐突だな」
「昨秋の夜会以来、先方は好意的でございました。両国の関係を強くするには、悪くない話かと」

 書状を受け取ると、室内の空気が張り詰める。

「返答は?」
「まだ何も。ただ、陛下は『レオニスの意思次第』とおっしゃっております」

 書状を机に置いた。

「断る」
「……よろしいのですか。国のためを考えれば——」
「国のためなら、他の形で作る」

 彼は立ち上がった。

「隣国とは、漁業と海の調査で協定を結ぶ準備を進めている。婚姻に頼らずとも、関係は築ける」
「しかし、先方の面子が」
「丁重に断れ。そのための言葉は、いくらでもある」

 文官は頭を下げて退出した。

 だが、この話は完全に伏せておくことができなかった。
 数日後、王宮内の噂として、それは広まり始めた。

「隣国の王女殿下との縁談だそうだ」
「では、フォーシール嬢は……」
「気の毒にな。あれだけ尽くしてこられたのに」

 その噂は、廊下を歩いていたセルキアの耳にも入った。

「……縁談」

 立ち止まったまま、動けなくなる。
 頭の中が真っ白になった。

 ――当然です。殿下は王太子です。

 自分に言い聞かせようとした……だが、うまくいかない。

 ――私は、恩返しがしたかっただけです。それなら、殿下が幸せになるなら、それでいいはずです。

 だが、足が動かない……視界まで滲んでくる。

「セルキア様?」

 通りかかった侍女が心配そうに声をかけた。
 首を振り、そのまま保護院へ向かった。

 馬車の中でも、浜辺に着いてからも、何も考えられなかった。
 ただ、海だけが見たかった。
 浜辺に立ち、波の音を聞く。

 ――ここへ来れば、落ち着くと思っていました。

 だが、落ち着くわけもなく、むしろはっきりしてしまった。

 ――私は、殿下のそばにいたいのです。

 恩返しではない。役に立ちたいからでもない。
 ただ、あの人の隣にいたい。
 それが、この九年間ずっと自分を動かしてきたものの正体だった。

「……遅すぎます」

 砂の上に膝をついた。
 自分が気づくまでに、十年近くかかった。
 その間に、他の誰かが決まってしまうのは、当然のことだ。

 波が寄せて、指先を濡らす。

「セルキア」

 振り返ると、レオニスが立っていた。
 外套も羽織らず、息を切らしている。

「殿下……?」
「王宮を出たと聞いた。馬を飛ばした」
「なぜ……ですか」
「君が泣いていたと、侍女が」

 慌てて顔を拭った。

「泣いていません」
「今も泣いている」
「……潮です」

 レオニスは砂の上に膝をつき、セルキアと同じ目線の高さになる。

「セルキア。噂を聞いたな」
「……はい」
「断った」

 セルキアの動きが止まった。

「え?」
「隣国の申し入れは、断った。三日前の話だ」
「でも、国のためには——」
「俺が決めることだ」

 まっすぐ彼女を見た。

「セルキア。俺は、誰とも婚約するつもりがない」

 その言葉に、セルキアの胸が締めつけられた。

 ――誰とも?

 それは、自分も含まれるということだ。

「……そう、ですか」

 うつむいたセルキアの声が、かすれる。

「わかりました。でしたら、私は今まで通り、保護院で——」
「セルキア」

 レオニスが遮った。

「話は、まだ終わっていない」
「はい?」
「俺は、誰とも婚約しない。ただし、それは今日までの話だ」

 顔を上げる。

「君の誕生日は、いつだった」
「……三日後です」
「そうだな」

 立ち上がり、手を差し出した。

「三日後、君は十五歳になる。この国では、自分の意思で婚約を決められる年齢だ」

 セルキアの目が、大きく見開かれた。

「俺は、十年待った」
「殿下……?」
「五歳の君に手を伸ばすことも、十歳の君に伝えることもできた。だが、それでは君が選んだことにならない」

 夕日が、海を金色に染めていく。

「三日後、君に伝えたいことがある。この浜辺で」

 レオニスの手は、まだ差し出されたままだった。

「それまでに、君も考えておいてほしい。断ってもいい。それも君の選択だ」

 震える手を、その手に重ねた。

「……殿下」
「何だ」
「どうしましょう……私、三日も待てません」

 目を瞬かせ、それから笑った。

「待ちなさい」
「なぜですか!」
「十年待った俺が言うんだ。三日くらい待て」
「……はぁい」

 しょんぼりと肩を落とすセルキアの頭に、レオニスの手が乗った。

「セルキア」
「はい」
「泣いていた理由は、聞かないでおく」
「……はい」
「三日後、君の口から聞かせてくれ」

 波が、二人の足元を洗っていった。
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