可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第二十三話 あざらし幼稚園の園長先生
何も答えなかった。
ただ、預けた頭を動かさなかった。
やがて日が傾き、職員たちが夕方の餌やりを始める。
バルトが遠くから声をかけた。
「セルキア様。そろそろお帰りですかな」
「はい! あ、その桶は左から——」
「セルキア」
「……何も見ていません」
その日、セルキアは初めて「何もしない一日」を終えた。
帰りの馬車で、彼女はレオニスの肩にもたれたまま眠っていた。
起こそうとした手を、レオニスは途中で止めた。
公爵邸に着くまでの半刻、彼はずっと同じ姿勢のままでいた。
春が来た。
王立海洋動物保護院――「あざらし幼稚園」の門をくぐる。
潮の匂いと、餌を仕分ける音がいつものように迎えてくれた。
「おはようございます!」
セルキアの声が響くと、職員たちが一斉に振り返った。
「おはようございます、セルキア様」
「おはようございます、指導官」
二つの呼び名が混ざっているのは、その役職ができたばかりだからだ。
「今日は、新しい記録係の方が来られると聞きました」
「はい。王都の学院から、二名」
「では、まず匂いの見分け方からお教えします!」
「……それは、我々にも習得できるものでしょうか」
バルトが遠慮がちに尋ねる。
「できます!」
「本当ですかな」
「完璧にはできませんが、近づけます。これまで書きためたものがありますから」
掲げたのは、一冊の分厚い記録帳だった。
表紙には、こう書かれている。
『北方海域 海獣観察記録 補遺』
七年前、レオニスが誕生日に贈った古い研究書の、続きとして書かれたものだった。
「殿下がくださった本には、三十年前までのことが書いてあります。その先を、私が書きました」
ページをめくった。
何を食べていたか。鳴き声にはどんな意味があるか。異変を早く見つけるには、どこを見るか。
海の匂いが変わったとき、何が起きていたか。
自分の身体で覚えたことを、一つずつ言葉にしたものだった。
「これがあれば、私がいない日でも、あの子たちを助けられます」
その日の午後、レオニスが保護院を訪れた。
「殿下!」
「様子を見に来た。……新人の指導はどうだ」
「大変です! 皆さん、匂いがわからないと言います!」
「当たり前だ」
二人は並んで、プールの間を歩いた。
十一年前と同じ道だ。
五歳のセルキアは、ここでタコ型の遊具へ飛びつき、「タコニキ!」と叫んだ。
その遊具は、今も同じ場所にある。だいぶ色褪せて、何度か直した跡があった。
「タコニキも、長生きだな」
「殿下、覚えていらしたのですか」
「忘れられるか」
嬉しそうに笑い、それから遊具に近づいて、ぽんと叩いた。
「タコニキ。私、結婚します」
「遊具に報告するのか」
「大事なことですから!」
高台のベンチに座ると、海が広く見渡せた。
北湾では、二年前から海藻が少しずつ増えている。
魚のとれる量も、以前の八割まで戻った。
元の海に戻るには、まだ数年かかる。
それでも、少しずつ前へ進んでいた。
「セルキア」
「はい」
「一つ、渡すものがある」
差し出したのは、小さな箱だった。
開けると、中には色褪せた青い布の切れ端が入っていた。
「これは……」
「あの日、君の傷に巻いたものだ。保護院に残っていたのを、譲り受けた」
震える指で、それに触れた。
「ずっと、持っていらしたのですか?」
「ああ」
「どうして……」
海を見つめたまま答えた。
「……あの夜、俺は子供だった。誰にも理解されない活動を始めたばかりで、自分が正しいのかどうか、わからなかった」
波の音が、静かに響く。
「だが、震えている小さな命を前にしたとき、迷いは消えた。守りたいと思った。それだけだった」
彼はセルキアを見た。
「この布は、あの夜の俺を思い出させてくれる。だから、手放せなかった」
布を胸に抱き、しばらく黙っていた。
「殿下……」
「何だ」
「私も、あの夜のことを覚えています」
彼女は微笑んだ。
「暗くて、冷たくて、痛くて、もう駄目だと思いました」
「……ああ」
「でも、誰かが来ました。あたたかい布に包まれて、『大丈夫、もう独りじゃない』と聞こえました」
セルキアの瞳が、夕日を映して揺れる。
「あの言葉が、私を陸へ連れてきたのだと思います」
彼女の肩を抱き寄せた。
「セルキア」
「はい」
「君は、俺が守った命だ。だが今は、君が俺を守っている」
海鳥が鳴きながら、二人の上を横切っていく。
しばらくして、セルキアが何かを思い出したように顔を上げた。
「殿下。私からも、お渡しするものがあります」
「何だ」
差し出されたのは、小さく折り畳まれた紙だった。
折り目が擦り切れて、端が茶色く変わっている。
開くと、たどたどしい平仮名が並んでいた。
『でんかを、しあわせにします セルキア』
「……これは」
「五歳のとき、書きました」
「私に渡さなかったのか」
「渡すつもりでした。でも、字が下手すぎて、恥ずかしくなりました」
紙を指さした。
「『しあわせ』の『わ』が、裏返っています」
「本当だな」
「マリエッタ様に見せたら、書き直せと言われそうで」
紙を見つめ、それから声を上げて笑った。
「十年遅れの手紙か」
「はい」
「では、返事も十年遅れで書こう」
「今書いてください!」
「善処する」
返してもらおうと手を伸ばしたが、レオニスはそれを外套の内側へしまってしまった。
「殿下!」
「これは俺のものだ。宛名が書いてある」
「宛名は書いていません!」
「『でんかを』と書いてある。十分だ」
頬を膨らませ、それから諦めたように笑った。
青い布と、十年しまわれていた手紙。
どちらも、渡せないまま持ち続けたものだった。
「殿下」
「何だ」
「私、あと五十年は元気に働きます」
「ずいぶん具体的だな」
「アザラシの寿命は三十年くらいです。ですが、私は人間ですから、もう少し長いはずです」
真面目な顔で言うので、レオニスは吹き出した。
「では、五十年後にまた聞こう」
「何をですか」
「幸せかと」
「……今すぐお答えできます」
レオニスの肩に頭を預けた。
「幸せです」
夕日が沈み、海が藍色に変わっていく。
プールでは、明日には海へ帰る予定の子アザラシが、元気に水しぶきを上げていた。
保護され、育てられ、そして帰っていく。
あざらし幼稚園は、今日も誰かを送り出している。
その門の前で、かつてここから旅立った一頭が、今は誰かを迎えるために立っていた。
ただ、預けた頭を動かさなかった。
やがて日が傾き、職員たちが夕方の餌やりを始める。
バルトが遠くから声をかけた。
「セルキア様。そろそろお帰りですかな」
「はい! あ、その桶は左から——」
「セルキア」
「……何も見ていません」
その日、セルキアは初めて「何もしない一日」を終えた。
帰りの馬車で、彼女はレオニスの肩にもたれたまま眠っていた。
起こそうとした手を、レオニスは途中で止めた。
公爵邸に着くまでの半刻、彼はずっと同じ姿勢のままでいた。
春が来た。
王立海洋動物保護院――「あざらし幼稚園」の門をくぐる。
潮の匂いと、餌を仕分ける音がいつものように迎えてくれた。
「おはようございます!」
セルキアの声が響くと、職員たちが一斉に振り返った。
「おはようございます、セルキア様」
「おはようございます、指導官」
二つの呼び名が混ざっているのは、その役職ができたばかりだからだ。
「今日は、新しい記録係の方が来られると聞きました」
「はい。王都の学院から、二名」
「では、まず匂いの見分け方からお教えします!」
「……それは、我々にも習得できるものでしょうか」
バルトが遠慮がちに尋ねる。
「できます!」
「本当ですかな」
「完璧にはできませんが、近づけます。これまで書きためたものがありますから」
掲げたのは、一冊の分厚い記録帳だった。
表紙には、こう書かれている。
『北方海域 海獣観察記録 補遺』
七年前、レオニスが誕生日に贈った古い研究書の、続きとして書かれたものだった。
「殿下がくださった本には、三十年前までのことが書いてあります。その先を、私が書きました」
ページをめくった。
何を食べていたか。鳴き声にはどんな意味があるか。異変を早く見つけるには、どこを見るか。
海の匂いが変わったとき、何が起きていたか。
自分の身体で覚えたことを、一つずつ言葉にしたものだった。
「これがあれば、私がいない日でも、あの子たちを助けられます」
その日の午後、レオニスが保護院を訪れた。
「殿下!」
「様子を見に来た。……新人の指導はどうだ」
「大変です! 皆さん、匂いがわからないと言います!」
「当たり前だ」
二人は並んで、プールの間を歩いた。
十一年前と同じ道だ。
五歳のセルキアは、ここでタコ型の遊具へ飛びつき、「タコニキ!」と叫んだ。
その遊具は、今も同じ場所にある。だいぶ色褪せて、何度か直した跡があった。
「タコニキも、長生きだな」
「殿下、覚えていらしたのですか」
「忘れられるか」
嬉しそうに笑い、それから遊具に近づいて、ぽんと叩いた。
「タコニキ。私、結婚します」
「遊具に報告するのか」
「大事なことですから!」
高台のベンチに座ると、海が広く見渡せた。
北湾では、二年前から海藻が少しずつ増えている。
魚のとれる量も、以前の八割まで戻った。
元の海に戻るには、まだ数年かかる。
それでも、少しずつ前へ進んでいた。
「セルキア」
「はい」
「一つ、渡すものがある」
差し出したのは、小さな箱だった。
開けると、中には色褪せた青い布の切れ端が入っていた。
「これは……」
「あの日、君の傷に巻いたものだ。保護院に残っていたのを、譲り受けた」
震える指で、それに触れた。
「ずっと、持っていらしたのですか?」
「ああ」
「どうして……」
海を見つめたまま答えた。
「……あの夜、俺は子供だった。誰にも理解されない活動を始めたばかりで、自分が正しいのかどうか、わからなかった」
波の音が、静かに響く。
「だが、震えている小さな命を前にしたとき、迷いは消えた。守りたいと思った。それだけだった」
彼はセルキアを見た。
「この布は、あの夜の俺を思い出させてくれる。だから、手放せなかった」
布を胸に抱き、しばらく黙っていた。
「殿下……」
「何だ」
「私も、あの夜のことを覚えています」
彼女は微笑んだ。
「暗くて、冷たくて、痛くて、もう駄目だと思いました」
「……ああ」
「でも、誰かが来ました。あたたかい布に包まれて、『大丈夫、もう独りじゃない』と聞こえました」
セルキアの瞳が、夕日を映して揺れる。
「あの言葉が、私を陸へ連れてきたのだと思います」
彼女の肩を抱き寄せた。
「セルキア」
「はい」
「君は、俺が守った命だ。だが今は、君が俺を守っている」
海鳥が鳴きながら、二人の上を横切っていく。
しばらくして、セルキアが何かを思い出したように顔を上げた。
「殿下。私からも、お渡しするものがあります」
「何だ」
差し出されたのは、小さく折り畳まれた紙だった。
折り目が擦り切れて、端が茶色く変わっている。
開くと、たどたどしい平仮名が並んでいた。
『でんかを、しあわせにします セルキア』
「……これは」
「五歳のとき、書きました」
「私に渡さなかったのか」
「渡すつもりでした。でも、字が下手すぎて、恥ずかしくなりました」
紙を指さした。
「『しあわせ』の『わ』が、裏返っています」
「本当だな」
「マリエッタ様に見せたら、書き直せと言われそうで」
紙を見つめ、それから声を上げて笑った。
「十年遅れの手紙か」
「はい」
「では、返事も十年遅れで書こう」
「今書いてください!」
「善処する」
返してもらおうと手を伸ばしたが、レオニスはそれを外套の内側へしまってしまった。
「殿下!」
「これは俺のものだ。宛名が書いてある」
「宛名は書いていません!」
「『でんかを』と書いてある。十分だ」
頬を膨らませ、それから諦めたように笑った。
青い布と、十年しまわれていた手紙。
どちらも、渡せないまま持ち続けたものだった。
「殿下」
「何だ」
「私、あと五十年は元気に働きます」
「ずいぶん具体的だな」
「アザラシの寿命は三十年くらいです。ですが、私は人間ですから、もう少し長いはずです」
真面目な顔で言うので、レオニスは吹き出した。
「では、五十年後にまた聞こう」
「何をですか」
「幸せかと」
「……今すぐお答えできます」
レオニスの肩に頭を預けた。
「幸せです」
夕日が沈み、海が藍色に変わっていく。
プールでは、明日には海へ帰る予定の子アザラシが、元気に水しぶきを上げていた。
保護され、育てられ、そして帰っていく。
あざらし幼稚園は、今日も誰かを送り出している。
その門の前で、かつてここから旅立った一頭が、今は誰かを迎えるために立っていた。


