可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

第六話 九歳の誕生日

「セルキア」
「はい」
「君は、俺が守ろうとしてきたものを、俺より上手に言葉にする」
「では、報告書に書いてもよろしいですか!」
「そこは報告書に書くことではない」
「難しいです!」

 いつもの調子に戻ったセルキアに、レオニスは笑った。

 その一件は、王宮でも小さくない話題になった。

「フォーシール公爵令嬢が、岩場の子アザラシを言い当てた」
「八歳の令嬢が、殿下に捜索を進言したそうだ」
「まさか。偶然だろう」

 信じない者も多かった。
 けれど、一つだけ確かなことがあった。
 保護院では、もう誰もセルキアを「殿下のお気に入りのお嬢様」とは呼ばなくなっていた。

 冬の初め、母子のアザラシが海へ帰る日が来た。
 波打ち際で木箱の扉が開かれると、母アザラシが先に外へ出て、後ろを振り返る。
 子アザラシがよちよちと続いた。

「お元気でーー!」

 大きく手を振る。
 母アザラシは一度だけ、こちらを向いた。
 長い間、じっとセルキアを見つめていた。
 それから、子を促すように鼻先で押し、二頭並んで波の中へ滑り込んでいく。

「……行きましたね」
「ああ」
「帰る場所があるのは、良いことです」

 セルキアの声は明るかった。だが、その横顔をレオニスは見ていた。
 この子には、帰る場所があるのだろうか。

 海から来て、公爵家の娘となり、今は保護院と王宮を行き来している。
 どこにも属していないようで、どこにでもいるような。
 いつかこの子も、あの母子のように海へ帰ってしまうのではないか。

 ――そんな考えが、レオニスの胸に初めて影を落としたのは、この日のことだった。

「殿下?」

 セルキアが不思議そうに見上げる。

「どうかなさいましたか。難しいお顔をされています」
「……いや。何でもない」
「お腹が空いているのではありませんか!お魚を食べれば元気が出ます!」
「君は何でも魚で解決しようとするな」
「元アザラシなので!」

 冬の海風の中で、セルキアの笑い声だけが温かかった。




 年が明け、セルキアの九歳の誕生日が近づいていた。

 フォーシール公爵邸では、ささやかな祝いの準備が進められている。
 海辺に建つ古い屋敷で、窓を開ければいつでも波の音が聞こえた。

「セルキア。お誕生日には、何が欲しい?」

 公爵夫人が尋ねると、セルキアは即答した。

「網です!」
「……網?」
「保護院で使う、丈夫な網です。今のものは古くて、大きな子を運ぶときに破れそうなのです」

 公爵夫妻は顔を見合わせた。

「あなた、それは誕生日の贈り物ではなく、備品の要望書ですわ」
「駄目でしょうか……」
「駄目ではないけれど……」

 セルキアの大きな目がしょんぼりとすると、夫人は困ったように笑い、それから娘の頭を撫でた。

「セルキア。あなたは、自分のために欲しいものはないの?」

 しばらく真剣に考え込むと、ぱあっと光るようにセルキアは喋り出す。

「では、お父さまとお母さまに、ずっと元気でいてほしいです」
「……それも、自分のためではないでしょうに」

 公爵が咳払いをして、目元を拭った。

 この夫妻には、長く子ができなかった。
 ある朝、浜辺で青い布に包まれた赤子を見つけたとき、彼らは奇跡だと思った。

 そして、その子が「自分はアザラシだ」と言い出したときも、否定しなかった。
 どこから来たのかより、目の前で笑っている命のほうが大切だったからだ。

「セルキア」
「はい、お父さま」
「もし、いつか海へ帰りたくなったら……」

 慎重に言葉を選んでいた。

「私たちは、止めない。おまえの選ぶ道を尊重する」

 目を丸くしたかと思うと、勢いよく首を振る。

「帰りません!」
「そうか」
「だって、この家には、お父さまとお母さまがいます。それに、お風呂があります!」
「風呂?」
「海は塩辛いので、洗い流せません!」

 あまりに現実的な理由に、公爵夫妻は声を上げて笑った。


 誕生日の当日、公爵邸には意外な客が訪れた。

「殿下!?」

 玄関で出迎えたセルキアが、目を真ん丸にする。
 十六歳のレオニスが、供を数人だけ連れて立っていた。

「祝いに来た。招かれていないが」
「招きます!今から招きます!」
「順序が逆だな」

 苦笑しながら、抱えていた包みを差し出した。

「これを」

 開いてみると、中から出てきたのは一冊の分厚い本。
 革張りの表紙に、金文字で題が刻まれている。

「『北方海域 海獣観察記録』……」
「三十年前に、王立学院の学者がまとめたものだ。今は絶版になっている」
「絶版!?」
「王宮の書庫に眠っていた。父上に頼んで、譲ってもらった」

 震える手で表紙を撫でた。

「殿下。これは、とても高価なものではありませんか」
「金額の話ではない。君が読むべき本だと思った」

 ページをめくると、細かい図版と観察記録が並んでいる。
 アザラシの潜水時間、季節ごとの回遊、鳴き声の分類。
 これまで感覚で知っていたことが、言葉と数字で整理されていた。

「……すごいです」
「読めるか?」
「難しい字がたくさんあります。でも、読みます!」
「わからないところは、聞きに来なさい」
「はい!」

 本を胸に抱きしめ、それからふと顔を上げた。

「殿下。どうして、この本を?」

 少し考えてから答えた。

「君の力は、君にしかないものだ。だが、それを言葉にできれば、他の者にも伝わる」

 マリエッタが報告書について言ったことと、同じだった。

「君が感じているものを、記録として残せるようになれば、君が海へ行けない日にも、誰かがアザラシを助けられる」

 しばらく本を見つめていた。

「殿下」
「何だ」
「私、大人になったら、この本のようなものを書いてもよろしいでしょうか」

 目を見開いた。

「……君が?」
「はい。私が見たことを、全部書きます。そうすれば、私がいなくなっても、あの子たちを助けられます」
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