可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

第七話 嵐の日の決まりごと

 いなくなっても……?
 その言葉に、レオニスの胸が小さく軋んだ。

「セルキア」
「はい」
「君は、どこかへ行くつもりなのか」

 首を傾げた。

「いいえ?ですが、人はいつか死にます。お父さまが言っていました」
「……ああ。そうだな」
「ですから、書き残しておくのです」

 あまりに素直な答えに、レオニスは自分の動揺が恥ずかしくなった。
 この子が語っているのは、海へ帰ることではなく、もっと当たり前の、命の終わりについてだ。
 それでも、心のどこかで抱えていた不安が、ふいに形を持って浮かび上がった気がした。

 その夜、公爵邸のささやかな晩餐には、レオニスも招かれた。
 食卓に大皿が運ばれてくる。丸ごと一尾焼かれた白身魚だった。

「セルキアの好物でございます」

 夫人が説明する横で、セルキアの瞳が輝いている。

「殿下!これは、今朝港に上がったばかりです!」
「なぜわかる」
「匂いです!」
「……そうか」

 レオニスは、ナイフとフォークを取ろうとしたセルキアの手元をじっと見つめた。

「セルキア」
「はい」
「丸呑みは」
「しません!」
「本当だな」
「この大きさは、さすがに無理です!」

 その答えに、公爵が吹き出し、夫人が「まあ」と口元を押さえた。
 和やかな食事の席で、公爵が改まった様子で口を開いた。

「殿下。この三年、娘が保護院へ通うことをお許しくださり、感謝しております」
「礼を言うのはこちらのほうです。あの子がいなければ、救えなかった命がいくつもある」
「あの子は……その、普通の令嬢とは違いますので」
「知っています」

 レオニスは静かに答えた。

「だからこそ、あの子には、あの子の生き方をさせてやりたい」

 公爵は深く頭を下げた。
 食後、セルキアは早々に本を読み始め、いつの間にか居間の長椅子で眠ってしまった。
 膝の上には、開いたままの観察記録がある。

「……起こしましょうか」
「いや、そのままで」

 そっと本を取り上げて閉じ、脇の卓へ置いた。
 眠るセルキアの顔にかかった白銀の髪を、指先で払ってやる。

 九歳。まだ幼い……

 だが、いつかこの子は大人になる。
 自分で道を選び、自分の足で歩いていくだろう。
 そのとき、自分はどこにいるのか。

「殿下」

 寝ぼけたセルキアが、うっすらと目を開け呟く。

「……あしたも、いらっしゃいますか」

 しばらく答えられなかった。
 いつまでも、この子の寝顔を眺めていたいと思ってしまう自分がいた。

「ああ。行くよ」
「よかったです……」

 小さな寝息が、再び規則正しくなる。
 窓の外では、変わらず波の音が響いていた。




 九歳の冬の終わり、セルキアは初めて「助けに行かない」という判断を覚えた。

 その日は朝から風が強かった。
 午後には空が暗くなり、保護院の窓を雨が激しく叩き始める。

「今日は早めにお帰りください」

 バルトに言われても、セルキアは窓の外を気にしていた。

「でも、七番プールの子が落ち着いていません」
「嵐の音に驚いているのでしょう」
「違います。海のほうを見ています」

 七番プールには、放流を数日後に控えた若いアザラシが三頭いる。
 三頭とも、水面から頭を出しては同じ方向へ鼻を向けていた。

 そのときだった。

 外から、何かが割れる大きな音がした。

「何です!?」
「裏手の柵です!」

 職員が駆け込んでくる。
 高波で、海へつながる水路の外柵が一部壊れたという。

「七番を確認しろ!」

 バルトの声で職員たちが走る。
 その後を追った。

 プールには、二頭しかいなかった。

「一頭、いません!」
「水路へ出たのか!」

 壊れた柵の向こうでは、灰色の海が荒れている。
 波が石壁へぶつかるたび、白いしぶきが高く上がった。

 迷わず上着を脱ぎ始めた。

「セルキア様!」
「探してきます!」
「駄目です!」
「私なら泳げます!」

 バルトが止めるより早く、セルキアは水路へ向かおうとした。

 だが、腕を掴まれた。

「離してください!」
「離さない」

 振り返ると、いつの間にかレオニスが立っていた。
 嵐がひどくなる前に迎えに来たらしい。濡れた外套から水が滴っている。

「殿下! 一頭いないんです!」
「聞いた」
「なら、早く探さないと!」
「だからといって、君が飛び込んでいい海ではない」
「でも私は元アザラシです!」
「今は九歳の人間だ!」

 強い声に、セルキアは動きを止めた。

「俺たちが助けたいのは一頭だ。君まで流されたら、助けなければならない相手が二人になる」
「でも……」
「助ける側が、助けられる側になってどうする」

 唇を噛んだ。

 海なら負けない。
 ずっと、そう思ってきた。
 五歳のときだってマリエッタを助けられた。

 けれど、目の前の海は、あのときとは違う。
 大人の職員ですら、岸へ近づくのをためらうほど荒れている。

「……では、どうすればいいのですか」
「君にしかできないことをしろ。海へ入ることだけが、君の力じゃない」

 言われたとおり、目を閉じた。

 雨の音。
 風の音。
 石壁へぶつかる波。
 職員たちの声。

 全部がうるさくて、いつものようには聞こえない。

 それでも、耳を澄ます。

「……鳴いています」
「どこだ」
「待ってください」

 風上へ少し移動した。
 鼻から息を吸い、また耳を澄ます。

「海ではありません」
「何?」
「もっと近いです。水路の……向こう」

 指さした先には、壊れた柵から流れ込んだ海水がたまる排水溝があった。

 職員が灯りを持って覗き込む。

「いました!」
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