可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第八話 海がおかしい
若いアザラシが、細い排水路の途中で身体を挟まれていた。
海へ流されたのではない。
逃げようとして、途中で動けなくなったらしい。
「縄を!」
「板も持ってこい!」
大人たちが動き始める。
セルキアは水路の入口にしゃがみ込み、声をかけ続けた。
「大丈夫です! 今、行きますから!」
アザラシが短く鳴く。
「怖いそうです!」
「それは見ればわかりますな!」
バルトの返事に、こんなときなのに少しだけ笑いが起きた。
救出には半刻ほどかかった。
引き上げられたアザラシは脇腹に擦り傷を作っていたが、それ以外に大きな怪我はなかった。
獣医が診察を終えるまで、セルキアはずっとそばにいた。
「……私、役に立てましたか」
小さく尋ねる。
「もちろんだ」
レオニスが隣に立った。
「でも、泳いでいません」
「泳がなくても見つけただろう」
「はい」
「助ける方法は、一つじゃない」
自分の濡れていない服を見下ろした。
飛び込まずに誰かを助けたのは、初めてだった。
「殿下」
「何だ」
「次からは、勝手に飛び込みません」
「本当だな」
「たぶん!」
「そこは言い切れ」
「……はい」
翌日。
セルキアは報告書の最後に、新しい項目を一つ増やした。
『あらしのときは、ひとりで海に入らない。泳げる人も入らない。まず、どこにいるかを探す』
マリエッタが後ろから覗き込む。
「『泳げる人も入らない』ではなく、『安全を確認できない場合は入水しない』ですわね」
「難しいです!」
「ですが、大切なことですわ」
頬を膨らませながら書き直した。
その決まりは後に、保護院の正式な救助の決まりになった。
数日後、バルトが新しく書き直した救助の決まりを壁へ貼ると、セルキアは少しだけ不満そうに眺めた。
「私も、みなさんと同じなのですね」
「同じとは?」
「海へ入る前に許可をもらって、縄をつけて、危なければ戻るところです」
「当たり前ですな」
「私は元アザラシなのに」
「元アザラシでも、セルキア様はお一人しかおりません」
バルトは、壁の紙を指で叩いた。
「特別に泳げるからこそ、無茶をなさったら皆が真似をします。『セルキア様がやっていたから大丈夫だ』とな」
「……それは困ります」
「でしょう?」
しばらく考え、それから紙のいちばん下に一行を書き足した。
『じぶんだけは大丈夫、と思わない』
マリエッタに見つかれば、もっと難しい言葉へ直されるだろう。
それでも今は、この言葉がいちばんわかりやすかった。
そして二年後、北湾の海へ潜るとき、セルキア自身が腰に命綱を結ぶ理由にもなった。
セルキアが十一歳になった年の春、異変は静かに始まった。
最初に気づいたのは、保護院の記録係だった。
「バルトさん。今月の搬入数ですが」
「多いのか」
「先月の倍です。それも、外傷のない個体ばかりで」
運び込まれるアザラシに、網の傷も、船との衝突痕もない。
ただ痩せ、動きが鈍く、餌を与えても半分しか食べない。
原因がわからないまま、弱って死ぬアザラシまで出始めた。
同じ頃、沿岸の漁村では別の問題が起きていた。
「魚が獲れねえ」
「網を入れても、去年の三割だ」
「このままじゃ、冬を越せねえぞ」
漁師たちの不満は、やがて保護院へ向かった。
「アザラシを増やしすぎたんじゃねえのか」
「王太子様が獣を守るから、俺たちの魚がなくなるんだ」
「動物なんか守っている場合じゃねえだろう!」
六年前に王宮の会議室で交わされた議論が、今度は港町の広場で燃え上がっていた。
「殿下。海辺の五つの村から、保護院を小さくしてほしいという嘆願書が届いております」
王宮の執務室で、文官が書状の束を差し出す。
十八歳になったレオニスは、一枚ずつ丁寧に目を通していった。
「署名は、何名だ」
「三百二十七名。村の成人ほぼ全員かと」
「……本気だな」
嘆願書の文字は、荒く、不揃いだった。
書き慣れない手で、必死に綴られたものだとわかる。
「殿下。ここは一度、保護院の予算を凍結し、漁業支援へ振り替えるべきかと。世論も——」
「それで魚が戻るのか」
レオニスの問いに、文官は言葉を詰まらせた。
「アザラシを減らせば魚が戻るという証拠は、どこにもない。数字を見ろ。保護するアザラシが増えた年でも、魚がたくさん獲れた年はある」
「しかし、村人たちは納得しません」
「納得させるのは、私の仕事だ。だが、そのためには原因を突き止めねばならない」
立ち上がり、外套を手に取った。
「保護院へ行く。馬の用意を」
その頃、保護院ではセルキアが浜辺に立ち尽くしていた。
白銀の髪が、風になびいている。
十一歳になった彼女は背が伸び、以前のような幼さは薄れていた。
だが、その表情はいつになく険しい。
「セルキア様。そろそろ中へ」
リナが声をかけても、動かない。
「……匂いが」
「え?」
「海の匂いが、いつもと違います」
目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「潮の匂いの下に、別のものが混じっています。鉄をなめたような……いいえ、もっと苦いです」
「何かの薬品でしょうか」
「わかりません。でも、去年の秋にはありませんでした」
背後で馬蹄の音が響いた。振り返ると、レオニスが下馬するところだった。
「殿下!」
「セルキア。状況を聞かせてくれ」
挨拶もそこそこに、二人は保護院の事務室へ入った。
マリエッタが記録を広げて待っている。
「レオニス様。運び込まれたアザラシの共通点を調べましたわ」
すっかり運営の中核になっていた。
帳簿を扱う手つきに、迷いがない。
「弱ったアザラシの九割が、北の湾から南の海で見つかっています。逆に、東の岩場は去年までとほとんど変わりません」
「地域が偏っているのか」
「はい。そして、魚が獲れなくなっている村も、ほぼ同じ範囲ですわ」
地図を睨む。
「北湾から南……ここには何がある」
「漁村が三つ。それから、五年前に建った製錬所が一つ」
海へ流されたのではない。
逃げようとして、途中で動けなくなったらしい。
「縄を!」
「板も持ってこい!」
大人たちが動き始める。
セルキアは水路の入口にしゃがみ込み、声をかけ続けた。
「大丈夫です! 今、行きますから!」
アザラシが短く鳴く。
「怖いそうです!」
「それは見ればわかりますな!」
バルトの返事に、こんなときなのに少しだけ笑いが起きた。
救出には半刻ほどかかった。
引き上げられたアザラシは脇腹に擦り傷を作っていたが、それ以外に大きな怪我はなかった。
獣医が診察を終えるまで、セルキアはずっとそばにいた。
「……私、役に立てましたか」
小さく尋ねる。
「もちろんだ」
レオニスが隣に立った。
「でも、泳いでいません」
「泳がなくても見つけただろう」
「はい」
「助ける方法は、一つじゃない」
自分の濡れていない服を見下ろした。
飛び込まずに誰かを助けたのは、初めてだった。
「殿下」
「何だ」
「次からは、勝手に飛び込みません」
「本当だな」
「たぶん!」
「そこは言い切れ」
「……はい」
翌日。
セルキアは報告書の最後に、新しい項目を一つ増やした。
『あらしのときは、ひとりで海に入らない。泳げる人も入らない。まず、どこにいるかを探す』
マリエッタが後ろから覗き込む。
「『泳げる人も入らない』ではなく、『安全を確認できない場合は入水しない』ですわね」
「難しいです!」
「ですが、大切なことですわ」
頬を膨らませながら書き直した。
その決まりは後に、保護院の正式な救助の決まりになった。
数日後、バルトが新しく書き直した救助の決まりを壁へ貼ると、セルキアは少しだけ不満そうに眺めた。
「私も、みなさんと同じなのですね」
「同じとは?」
「海へ入る前に許可をもらって、縄をつけて、危なければ戻るところです」
「当たり前ですな」
「私は元アザラシなのに」
「元アザラシでも、セルキア様はお一人しかおりません」
バルトは、壁の紙を指で叩いた。
「特別に泳げるからこそ、無茶をなさったら皆が真似をします。『セルキア様がやっていたから大丈夫だ』とな」
「……それは困ります」
「でしょう?」
しばらく考え、それから紙のいちばん下に一行を書き足した。
『じぶんだけは大丈夫、と思わない』
マリエッタに見つかれば、もっと難しい言葉へ直されるだろう。
それでも今は、この言葉がいちばんわかりやすかった。
そして二年後、北湾の海へ潜るとき、セルキア自身が腰に命綱を結ぶ理由にもなった。
セルキアが十一歳になった年の春、異変は静かに始まった。
最初に気づいたのは、保護院の記録係だった。
「バルトさん。今月の搬入数ですが」
「多いのか」
「先月の倍です。それも、外傷のない個体ばかりで」
運び込まれるアザラシに、網の傷も、船との衝突痕もない。
ただ痩せ、動きが鈍く、餌を与えても半分しか食べない。
原因がわからないまま、弱って死ぬアザラシまで出始めた。
同じ頃、沿岸の漁村では別の問題が起きていた。
「魚が獲れねえ」
「網を入れても、去年の三割だ」
「このままじゃ、冬を越せねえぞ」
漁師たちの不満は、やがて保護院へ向かった。
「アザラシを増やしすぎたんじゃねえのか」
「王太子様が獣を守るから、俺たちの魚がなくなるんだ」
「動物なんか守っている場合じゃねえだろう!」
六年前に王宮の会議室で交わされた議論が、今度は港町の広場で燃え上がっていた。
「殿下。海辺の五つの村から、保護院を小さくしてほしいという嘆願書が届いております」
王宮の執務室で、文官が書状の束を差し出す。
十八歳になったレオニスは、一枚ずつ丁寧に目を通していった。
「署名は、何名だ」
「三百二十七名。村の成人ほぼ全員かと」
「……本気だな」
嘆願書の文字は、荒く、不揃いだった。
書き慣れない手で、必死に綴られたものだとわかる。
「殿下。ここは一度、保護院の予算を凍結し、漁業支援へ振り替えるべきかと。世論も——」
「それで魚が戻るのか」
レオニスの問いに、文官は言葉を詰まらせた。
「アザラシを減らせば魚が戻るという証拠は、どこにもない。数字を見ろ。保護するアザラシが増えた年でも、魚がたくさん獲れた年はある」
「しかし、村人たちは納得しません」
「納得させるのは、私の仕事だ。だが、そのためには原因を突き止めねばならない」
立ち上がり、外套を手に取った。
「保護院へ行く。馬の用意を」
その頃、保護院ではセルキアが浜辺に立ち尽くしていた。
白銀の髪が、風になびいている。
十一歳になった彼女は背が伸び、以前のような幼さは薄れていた。
だが、その表情はいつになく険しい。
「セルキア様。そろそろ中へ」
リナが声をかけても、動かない。
「……匂いが」
「え?」
「海の匂いが、いつもと違います」
目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「潮の匂いの下に、別のものが混じっています。鉄をなめたような……いいえ、もっと苦いです」
「何かの薬品でしょうか」
「わかりません。でも、去年の秋にはありませんでした」
背後で馬蹄の音が響いた。振り返ると、レオニスが下馬するところだった。
「殿下!」
「セルキア。状況を聞かせてくれ」
挨拶もそこそこに、二人は保護院の事務室へ入った。
マリエッタが記録を広げて待っている。
「レオニス様。運び込まれたアザラシの共通点を調べましたわ」
すっかり運営の中核になっていた。
帳簿を扱う手つきに、迷いがない。
「弱ったアザラシの九割が、北の湾から南の海で見つかっています。逆に、東の岩場は去年までとほとんど変わりません」
「地域が偏っているのか」
「はい。そして、魚が獲れなくなっている村も、ほぼ同じ範囲ですわ」
地図を睨む。
「北湾から南……ここには何がある」
「漁村が三つ。それから、五年前に建った製錬所が一つ」