長い長い輪廻の中で
「おはよーさん」
朝五時に叩き起こされ、ジャージ姿の保名くんがタオルを首にかけた状態でひょっこり顔を出した。
昨日の制服姿とは少し印象が違い、髪も適当にまとめられている。
「……おはよう……」
眠たい目をこすりながら挨拶する。
まだ空は薄暗く、吐く息が白い。こんな時間に外へ出るなんて、今まで一度もしたことがない。
「眠そうやなぁ」
「眠いよ……まだ外、真っ暗じゃん……」
フラフラと布団を片付けだす私を、保名くんは呆れ半分、面白がり半分といった様子で見つめている。
「何を言うてんの。ほら、はよ着替えやー」
そう言い残し、保名くんは部屋から出ていってしまった。
私はタンスから前の学校の指定ジャージを取り出し、のそのそと着替え始める。
廊下に出て外へ向かうと、境内で保名くんが待っていた。
「おー、ええやん!動きやすそうやな」
保名くんはひと通り笑った後、山に入っていく。
「ちょっと、どこ行くの!?」
私は慌てて彼の後を追いかけた。
早朝の山道はひんやりとしていて、薄暗い樹々の中に深い静寂が広がっている。
「まずは基本中のキ、体力作り。この道を真っ直ぐ行くと、印つけた大きな木があるわ。そこまで走るんや」
「え、ここ走るの?」
早朝の山道を見上げて、私は思わず声を裏返した。
ジャージに着替えたとはいえ、まだ頭は半分寝ているし、こんな山道を走るなんて聞いていない。
「ちなみに距離はざっと一里あるで」
一里という単位がどれくらいの距離か分からないが、目印の木が遠目でも見えないので近くというわけではなさそうだ。
「いちり……?一里って、何キロ?」
聞き慣れない単位にパニックになりながら問い詰めると、保名くんはニッと意地悪く笑った。
「だいたい四キロくらいやな」
「よ、四キロ!?朝の五時から四キロも山道を走るの!?」
学校の持久走大会だってグラウンドや平坦な道を走るのに、足場の悪い未舗装の山道を四キロなんて正気の沙汰じゃない。
「四キロくらい平気平気。ほら、うだうだ言うてんと足動かす!」
「無理無理無理!!」
半ば半狂乱になりながら叫ぶ私を置いて、保名くんは軽快な足取りでさっさと山道を走り出してしまう。
「待って置いてかないで!」
一人取り残される恐怖に背中を押され、私は重い足を踏み出した。
地面は木々の根っこが露出し、踏み固められていない落ち葉で足元が滑る。
頭を空っぽにして必死に保名くんの背中を追いかけるものの、開始数分で肺が焼き切れるように痛くなってきた。
吐く息が白く乱れ、心臓が耳元でドクドクと警鐘を鳴らす。
「ほらほら、顔下がってるで!姿勢は真っ直ぐ!歩いたら余計しんどなるで」
振り返った保名くんは、涼しい顔で後ろ向きに走りながら私を煽ってくる。汗一つかいていない彼の余裕な表情に無性に腹が立つが、文句を言い返す体力すら残っていない。
どれくらい走っただろうか。時間の感覚も、足の感覚すらなくなってきた頃、薄暗かった樹々の間からパッと眩しい朝日が差し込んできた。
「はい、到着ー!」
保名くんの声に視線を上げると、そこには縄が巻き付けられた太く大きな杉の木が立っていた。
「……はぁ、……ひぃ、……もう無理……」
私はその場に膝から崩れ落ち、荒い息を吐き出しながら地面に突っ伏した。
「今日は時間も時間やし、朝の特訓は終わろか。お疲れさん」
保名くんはポンポンと私の頭を雑に叩くと、何事もなかったかのようにすいすいと山を下り始めてしまう。
「お、鬼!!」
「鬼で結構やでー」
声すら掠れかけた必死の叫びに、保名くんは振り返ることもなくひらひらと手を振る。
このまま山の中に一人置いていかれるわけにはいかない。
私は悲鳴を上げる太ももを叩き、フラフラの足取りで彼の後を追った。
下り坂は上り以上に足元が覚束ず、膝がガクガクと震えて笑っている。
滑って転びそうになるたび、保名くんが絶妙なタイミングで服の首元を掴んで支えてくれた。
「ほら、足元ちゃんと見ぃ。下りの方が怪我しやすいんやから」
「誰の……せいだと……思って……」
息も絶え絶えに嫌味を返すが、彼は「はいはい」と聞き流すばかり。
なんとか境内に戻ってきた頃には、太陽はすっかり登りきっていた。私は縁側にそのまま倒れ込み、完全に事切れたように天井を見上げる。
「美鈴ちゃん、ほんまに体力ないなぁ」
保名くんは笑いながら私の顔を覗き込むと、どこからか持ってきた冷えた麦茶の入ったグラスを、私の頬にぺたりと押し当てた。
「びっ!?つめたっ!」
飛び起きた私に、保名くんはニシシと笑いながらグラスを差し出してくる。
「ほら、一気に飲んだら胃がびっくりするから、ちびちび飲みや」
「う、うん……ありがと……」
言われるがままグラスを受け取り、一口飲むと、冷たい麦茶がカラカラの喉と全身に染み渡っていく。生きた心地がするとはまさにこのことだ。
重い足を引きずるように居間に向かうと、朝ご飯が並んでいた。
ご飯に焼き魚にだし巻き卵、湯気の立つお豆腐の味噌汁。
「…………」
思わず立ち止まる。
「……ご飯……」
さっきまで死にかけていた身体が、料理の匂いを嗅いだ瞬間に反応した。
「二人とも戻ったか。美鈴さん、初日から災難だったね」
着物姿の伯父さんが、急須から湯呑みへとお茶を注ぎながら苦笑いを浮かべている。
「いや本当、朝から四キロ走らされたんです……」
私が恨みがましく訴えると、伯父さんは困ったように笑う。
「アイツは確かに術の腕は良いが、チャランポランだし、門限は破るしでなぁ」
「やっぱり……保名くんチャラいですもんね」
「お二人さーん?俺おること忘れてへん?」
✳✳✳
朝食が終わると、保名くんは「ちょっと散歩行こか」と言って、一緒に山を下りる。
「散歩って、また走らされるんじゃ……」
私は身構えながら、服の袖をぎゅっと握りしめた。足はすでに生まれたての小鹿みたいにガクガク震えている。
「ちゃうちゃう、今回はマジでただの散歩や!」
保名くんは苦笑いしながら、今度はのんびりとした足取りで石段を下りていく。
「美鈴ちゃん、転校先の中学校までの通学路、確認しといた方がええやろ?」
「あ……そうか」
保名くんの言葉に、ハッと胸が軽くなる。
学校の手続きのこと、ちゃんと考えてくれていたんだ。
石段をようやく下りきると、目の前にのどかな田園風景と小さな町並みが広がる。
都会のアパートの周りとはぜんぜん違う、どこか懐かしい風景。
「ここからまっすぐ歩いて十分くらいで学校や。俺も同じ中学やから、新学期からは一緒に登校やな」
町へと続く一本道を二人で並んで歩く。春の暖かい日差しが降り注ぎ、さっきまでの激しい運動で痛む足の重さをほんの少しだけ和らげてくれた。
「俺、夢があんねん。一人前なったら、なって良いって父ちゃんに言われてて〜」
「夢?」
「そそ、将来の夢。何やと思う?」
「えっと……学校の先生?」
「なんでや、俺そんな頭良く見える?」
「じゃあ、お坊さん?」
「神主やなくて?」
「え、違うの?」
「ちゃうちゃう。俺な――」
一拍置いてから、言葉を吐き出す。
「インフルエンサーなりたいんよ!」
「……え?」
予想していなかった言葉に、頭の中がこんがらがる。
「インフルエンサーなって〜、町中歩くだけキャーキャー言われたい!」
「あ、そうなんだ……」
ふと見上げると、道端にある古いお地蔵様の前に、小さな影のようなものが揺れているのが見えた。よく見ようと目を凝らすと、保名くんがすっと私の前に腕を差し出し、視線を遮る。
「美鈴ちゃん、あんまじっと見たらあかんで」
「え……?」
「『あ、この子見えてるな』って気づかれたら、面白がって寄ってくるからな。知らん顔して通り過ぎやー!」
保名くんの声は軽いノリのままで、けれどその腕は私の前をしっかりと遮っていた。
(見ない、見ない……)
呪文のように心の中で呟きながら、視線を足元に落として彼の後ろをぴったりとついて歩く。
地蔵の脇を通り過ぎる時、横目でうっすら感じた影の気配が、すっと遠ざかっていくのが分かった。
「はい、上出来!ちゃんとスルーできて偉いな〜」
地蔵堂から十分に離れたところで、保名くんはひらひらと手を振って腕を引いた。
「……本当にいるんですね」
「当たり前やん。美鈴ちゃん、一瞬フリーズして目ぇ丸くしてたやろ。あんなん『私見えてます!』ってアピールしてるようなもんやで」
保名くんは呆れたように笑いながら、自分の首の後ろをトントンと叩く。
「このあたりは古い山やし、神様もいれば妙なモノもぎょうさんおる。特に逢魔ヶ刻はな」
「逢魔ヶ刻?」
聞き慣れない単語にまたもや首を傾げる。
「……あ、逢魔ヶ刻は夕方のことや。午前は丑三つ時、午後は逢魔ヶ刻に気をつけろって言うやろ?」
そんな共感するように聞かれても困る。
「そんなの、知らないよ……」
呆れ半分で吐き捨てると、保名くんは「まぁ普通は知らんか!これから知ってけば良いし」とあっけらかんと笑った。
「そんなことより、しっかり『無視するスキル』身につけんと損するで」
「無視するスキル、ねぇ……」
言葉で言うのは簡単だけど、あんな不気味な影が視界に入ってきたら、どうしても反応してしまう。自分の体質を改めて突きつけられたようで、少しだけ胃のあたりが痛くなった。
そんな私の暗い顔に気づいたのか、保名くんは「ま!」と大きな声を上げてパンッと手を叩いた。
「もし変なのに取り憑かれそうになったら、祓ったるから安心しぃ。一応これでも、将来はバズり倒す予定の超優秀な陰陽師の卵やからな!」
「自分で超優秀とか言う……?ていうか、陰陽師とインフルエンサーって根本的に渋滞してない?」
思わず突っ込むと、保名くんは待ってましたと言わんばかりにドヤ顔を決めた。
「渋滞してへんよ!今の時代、SNSでバズってフォロワー増やしてなんぼやろ?父ちゃんには『伝統をなんやと思っとるんや』って毎日怒られてるけどな〜」
「でしょうね……」
朝五時に叩き起こされ、ジャージ姿の保名くんがタオルを首にかけた状態でひょっこり顔を出した。
昨日の制服姿とは少し印象が違い、髪も適当にまとめられている。
「……おはよう……」
眠たい目をこすりながら挨拶する。
まだ空は薄暗く、吐く息が白い。こんな時間に外へ出るなんて、今まで一度もしたことがない。
「眠そうやなぁ」
「眠いよ……まだ外、真っ暗じゃん……」
フラフラと布団を片付けだす私を、保名くんは呆れ半分、面白がり半分といった様子で見つめている。
「何を言うてんの。ほら、はよ着替えやー」
そう言い残し、保名くんは部屋から出ていってしまった。
私はタンスから前の学校の指定ジャージを取り出し、のそのそと着替え始める。
廊下に出て外へ向かうと、境内で保名くんが待っていた。
「おー、ええやん!動きやすそうやな」
保名くんはひと通り笑った後、山に入っていく。
「ちょっと、どこ行くの!?」
私は慌てて彼の後を追いかけた。
早朝の山道はひんやりとしていて、薄暗い樹々の中に深い静寂が広がっている。
「まずは基本中のキ、体力作り。この道を真っ直ぐ行くと、印つけた大きな木があるわ。そこまで走るんや」
「え、ここ走るの?」
早朝の山道を見上げて、私は思わず声を裏返した。
ジャージに着替えたとはいえ、まだ頭は半分寝ているし、こんな山道を走るなんて聞いていない。
「ちなみに距離はざっと一里あるで」
一里という単位がどれくらいの距離か分からないが、目印の木が遠目でも見えないので近くというわけではなさそうだ。
「いちり……?一里って、何キロ?」
聞き慣れない単位にパニックになりながら問い詰めると、保名くんはニッと意地悪く笑った。
「だいたい四キロくらいやな」
「よ、四キロ!?朝の五時から四キロも山道を走るの!?」
学校の持久走大会だってグラウンドや平坦な道を走るのに、足場の悪い未舗装の山道を四キロなんて正気の沙汰じゃない。
「四キロくらい平気平気。ほら、うだうだ言うてんと足動かす!」
「無理無理無理!!」
半ば半狂乱になりながら叫ぶ私を置いて、保名くんは軽快な足取りでさっさと山道を走り出してしまう。
「待って置いてかないで!」
一人取り残される恐怖に背中を押され、私は重い足を踏み出した。
地面は木々の根っこが露出し、踏み固められていない落ち葉で足元が滑る。
頭を空っぽにして必死に保名くんの背中を追いかけるものの、開始数分で肺が焼き切れるように痛くなってきた。
吐く息が白く乱れ、心臓が耳元でドクドクと警鐘を鳴らす。
「ほらほら、顔下がってるで!姿勢は真っ直ぐ!歩いたら余計しんどなるで」
振り返った保名くんは、涼しい顔で後ろ向きに走りながら私を煽ってくる。汗一つかいていない彼の余裕な表情に無性に腹が立つが、文句を言い返す体力すら残っていない。
どれくらい走っただろうか。時間の感覚も、足の感覚すらなくなってきた頃、薄暗かった樹々の間からパッと眩しい朝日が差し込んできた。
「はい、到着ー!」
保名くんの声に視線を上げると、そこには縄が巻き付けられた太く大きな杉の木が立っていた。
「……はぁ、……ひぃ、……もう無理……」
私はその場に膝から崩れ落ち、荒い息を吐き出しながら地面に突っ伏した。
「今日は時間も時間やし、朝の特訓は終わろか。お疲れさん」
保名くんはポンポンと私の頭を雑に叩くと、何事もなかったかのようにすいすいと山を下り始めてしまう。
「お、鬼!!」
「鬼で結構やでー」
声すら掠れかけた必死の叫びに、保名くんは振り返ることもなくひらひらと手を振る。
このまま山の中に一人置いていかれるわけにはいかない。
私は悲鳴を上げる太ももを叩き、フラフラの足取りで彼の後を追った。
下り坂は上り以上に足元が覚束ず、膝がガクガクと震えて笑っている。
滑って転びそうになるたび、保名くんが絶妙なタイミングで服の首元を掴んで支えてくれた。
「ほら、足元ちゃんと見ぃ。下りの方が怪我しやすいんやから」
「誰の……せいだと……思って……」
息も絶え絶えに嫌味を返すが、彼は「はいはい」と聞き流すばかり。
なんとか境内に戻ってきた頃には、太陽はすっかり登りきっていた。私は縁側にそのまま倒れ込み、完全に事切れたように天井を見上げる。
「美鈴ちゃん、ほんまに体力ないなぁ」
保名くんは笑いながら私の顔を覗き込むと、どこからか持ってきた冷えた麦茶の入ったグラスを、私の頬にぺたりと押し当てた。
「びっ!?つめたっ!」
飛び起きた私に、保名くんはニシシと笑いながらグラスを差し出してくる。
「ほら、一気に飲んだら胃がびっくりするから、ちびちび飲みや」
「う、うん……ありがと……」
言われるがままグラスを受け取り、一口飲むと、冷たい麦茶がカラカラの喉と全身に染み渡っていく。生きた心地がするとはまさにこのことだ。
重い足を引きずるように居間に向かうと、朝ご飯が並んでいた。
ご飯に焼き魚にだし巻き卵、湯気の立つお豆腐の味噌汁。
「…………」
思わず立ち止まる。
「……ご飯……」
さっきまで死にかけていた身体が、料理の匂いを嗅いだ瞬間に反応した。
「二人とも戻ったか。美鈴さん、初日から災難だったね」
着物姿の伯父さんが、急須から湯呑みへとお茶を注ぎながら苦笑いを浮かべている。
「いや本当、朝から四キロ走らされたんです……」
私が恨みがましく訴えると、伯父さんは困ったように笑う。
「アイツは確かに術の腕は良いが、チャランポランだし、門限は破るしでなぁ」
「やっぱり……保名くんチャラいですもんね」
「お二人さーん?俺おること忘れてへん?」
✳✳✳
朝食が終わると、保名くんは「ちょっと散歩行こか」と言って、一緒に山を下りる。
「散歩って、また走らされるんじゃ……」
私は身構えながら、服の袖をぎゅっと握りしめた。足はすでに生まれたての小鹿みたいにガクガク震えている。
「ちゃうちゃう、今回はマジでただの散歩や!」
保名くんは苦笑いしながら、今度はのんびりとした足取りで石段を下りていく。
「美鈴ちゃん、転校先の中学校までの通学路、確認しといた方がええやろ?」
「あ……そうか」
保名くんの言葉に、ハッと胸が軽くなる。
学校の手続きのこと、ちゃんと考えてくれていたんだ。
石段をようやく下りきると、目の前にのどかな田園風景と小さな町並みが広がる。
都会のアパートの周りとはぜんぜん違う、どこか懐かしい風景。
「ここからまっすぐ歩いて十分くらいで学校や。俺も同じ中学やから、新学期からは一緒に登校やな」
町へと続く一本道を二人で並んで歩く。春の暖かい日差しが降り注ぎ、さっきまでの激しい運動で痛む足の重さをほんの少しだけ和らげてくれた。
「俺、夢があんねん。一人前なったら、なって良いって父ちゃんに言われてて〜」
「夢?」
「そそ、将来の夢。何やと思う?」
「えっと……学校の先生?」
「なんでや、俺そんな頭良く見える?」
「じゃあ、お坊さん?」
「神主やなくて?」
「え、違うの?」
「ちゃうちゃう。俺な――」
一拍置いてから、言葉を吐き出す。
「インフルエンサーなりたいんよ!」
「……え?」
予想していなかった言葉に、頭の中がこんがらがる。
「インフルエンサーなって〜、町中歩くだけキャーキャー言われたい!」
「あ、そうなんだ……」
ふと見上げると、道端にある古いお地蔵様の前に、小さな影のようなものが揺れているのが見えた。よく見ようと目を凝らすと、保名くんがすっと私の前に腕を差し出し、視線を遮る。
「美鈴ちゃん、あんまじっと見たらあかんで」
「え……?」
「『あ、この子見えてるな』って気づかれたら、面白がって寄ってくるからな。知らん顔して通り過ぎやー!」
保名くんの声は軽いノリのままで、けれどその腕は私の前をしっかりと遮っていた。
(見ない、見ない……)
呪文のように心の中で呟きながら、視線を足元に落として彼の後ろをぴったりとついて歩く。
地蔵の脇を通り過ぎる時、横目でうっすら感じた影の気配が、すっと遠ざかっていくのが分かった。
「はい、上出来!ちゃんとスルーできて偉いな〜」
地蔵堂から十分に離れたところで、保名くんはひらひらと手を振って腕を引いた。
「……本当にいるんですね」
「当たり前やん。美鈴ちゃん、一瞬フリーズして目ぇ丸くしてたやろ。あんなん『私見えてます!』ってアピールしてるようなもんやで」
保名くんは呆れたように笑いながら、自分の首の後ろをトントンと叩く。
「このあたりは古い山やし、神様もいれば妙なモノもぎょうさんおる。特に逢魔ヶ刻はな」
「逢魔ヶ刻?」
聞き慣れない単語にまたもや首を傾げる。
「……あ、逢魔ヶ刻は夕方のことや。午前は丑三つ時、午後は逢魔ヶ刻に気をつけろって言うやろ?」
そんな共感するように聞かれても困る。
「そんなの、知らないよ……」
呆れ半分で吐き捨てると、保名くんは「まぁ普通は知らんか!これから知ってけば良いし」とあっけらかんと笑った。
「そんなことより、しっかり『無視するスキル』身につけんと損するで」
「無視するスキル、ねぇ……」
言葉で言うのは簡単だけど、あんな不気味な影が視界に入ってきたら、どうしても反応してしまう。自分の体質を改めて突きつけられたようで、少しだけ胃のあたりが痛くなった。
そんな私の暗い顔に気づいたのか、保名くんは「ま!」と大きな声を上げてパンッと手を叩いた。
「もし変なのに取り憑かれそうになったら、祓ったるから安心しぃ。一応これでも、将来はバズり倒す予定の超優秀な陰陽師の卵やからな!」
「自分で超優秀とか言う……?ていうか、陰陽師とインフルエンサーって根本的に渋滞してない?」
思わず突っ込むと、保名くんは待ってましたと言わんばかりにドヤ顔を決めた。
「渋滞してへんよ!今の時代、SNSでバズってフォロワー増やしてなんぼやろ?父ちゃんには『伝統をなんやと思っとるんや』って毎日怒られてるけどな〜」
「でしょうね……」


