夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第六話 渡されたもの
インターホンが鳴ったのは、昼過ぎのことだった。
宅配便にしては時間が中途半端だ、と思いながら凜はモニターを確認した。
映っていたのは、見知らぬ男性だった。
三十代くらいだろうか。地味なダウンジャケットを着た、背の高い男性。整った顔立ちではないけれど、誠実そうな目をしていた。モニター越しでも、どこか不器用そうな雰囲気が伝わってくる。
「……どちら様ですか」
「あの、突然すみません。生田 耕平といいます。黒瀬先生の研究室で研究員をしています」
男性はそう言いながら、首から下げたIDカードをカメラに向けてそっと掲げた。大学のロゴと、顔写真と、生田 耕平という名前。
凜の手が、インターホンの前で止まった。
樹の研究室の人間が、なぜここに。
「奥様に、どうしてもお伝えしたいことがあって。お時間、少しだけいただけないでしょうか」
しばらく、凜は動かなかった。
常識的に考えれば、知らない男性を家に上げるべきではない。でも——その声に、裏のない真っ直ぐさがあった。飾り気のない、ただ正直に話しているだけの声。
凜はドアを開けた。
---
玄関先で向かい合うと、生田 耕平は思ったより若かった。
「あの……すみません、こんな形で」
頭を下げる仕草が、不器用だった。凜は「どうぞ」と言って、リビングに通した。
お茶を出すと、耕平は両手でカップを持って、しばらく黙っていた。何から話せばいいか、整理しているようだった。
「僕、花咲 るなさんと同期なんです」
ぽつりと、言った。
凜は静かに頷いた。
「二人で共同研究してたんですよ、去年まで。ゲノムデータの解析で、結構いいところまで来てたと思ってたんですけど……黒瀬先生が途中から入ってきて」
耕平は言葉を選びながら話した。訴えるわけでも、感情的になるわけでもなく、ただ事実を並べるように。
「気がついたら、僕は外されてました。研究成果は先生とるなさんの共同論文になって。僕の名前はどこにもなくて」
「……そう」
凜は静かに答えた。
「るなさんも、最初は僕に謝ってくれてたんですけど……だんだん変わってって。先生と、その……」
耕平は言いにくそうに視線を落とした。
「知ってます」
凜が言った。耕平が顔を上げた。
「二人のこと、薄々は気づいていたから」
耕平は少し目を伏せた。それから、ジャケットのポケットに手を入れた。
「これ……先生のデスクの引き出しの奥に、隠してあったんです。先週、たまたま見つけて」
小さなマイクロSDカードだった。ケースもなく、ただビニール袋に入っているだけの。
「中身は見れてないです。パスワードがかかってて。でも……なんか、これは奥さんに渡すべきだと思って」
耕平はSDを差し出した。大きくて、でもまだどこか若さの残る手だった。
「僕には関係ないことかもしれないけど。でも奥さん、昔すごい優秀な研究者だったって聞いて。それを全部捨てて結婚されたって。それで……なんか、黙ってられなくて」
凜はSDを受け取った。
小さかった。手のひらに乗せると、重さもほとんどない。でもこの中に、何かがある。凜にはそれが分かった。
「ありがとう」
凜は言った。
耕平は深く頭を下げて、足早に帰っていった。
---
一人になった凜は、ノートパソコンを開いた。
SDをスロットに差し込む。フォルダが表示された。でもその中身を開こうとすると、パスワードを求めるウィンドウが現れた。
予想していた。
凜は考えた。樹がパスワードに使いそうなもの。誕生日、記念日——いや、そんな単純なものは使わない。研究者として、樹はそういうことに抜かりがない。
カチャカチャと入力する。弾かれる。また入力する。また弾かれる。
その時、ついていたテレビから声が聞こえた。
——こちらはシンガポールで開催中の国際バイオインフォマティクスシンポジウムの様子です。産学連携をテーマに世界中から研究者や企業関係者が集まっており——
凜は画面をちらりと見た。
樹がいた。
マイクの前に立って、流暢な英語でインタビューに答えている。そのすぐ隣に、花咲るなが寄り添うように立っていた。カメラの前でも、二人の距離は近かった。
凜は一秒だけ画面を見て、またパソコンに視線を戻した。
表情は、変わらなかった。
怒りでも、悲しみでも、もうそういうものじゃなかった。ただ静かに、次の文字列を入力した。弾かれた。また入力した。
必ず開けてみせる。
その思いだけが、凜の中で静かに、でも確かに燃えていた。
---
第二章 了
宅配便にしては時間が中途半端だ、と思いながら凜はモニターを確認した。
映っていたのは、見知らぬ男性だった。
三十代くらいだろうか。地味なダウンジャケットを着た、背の高い男性。整った顔立ちではないけれど、誠実そうな目をしていた。モニター越しでも、どこか不器用そうな雰囲気が伝わってくる。
「……どちら様ですか」
「あの、突然すみません。生田 耕平といいます。黒瀬先生の研究室で研究員をしています」
男性はそう言いながら、首から下げたIDカードをカメラに向けてそっと掲げた。大学のロゴと、顔写真と、生田 耕平という名前。
凜の手が、インターホンの前で止まった。
樹の研究室の人間が、なぜここに。
「奥様に、どうしてもお伝えしたいことがあって。お時間、少しだけいただけないでしょうか」
しばらく、凜は動かなかった。
常識的に考えれば、知らない男性を家に上げるべきではない。でも——その声に、裏のない真っ直ぐさがあった。飾り気のない、ただ正直に話しているだけの声。
凜はドアを開けた。
---
玄関先で向かい合うと、生田 耕平は思ったより若かった。
「あの……すみません、こんな形で」
頭を下げる仕草が、不器用だった。凜は「どうぞ」と言って、リビングに通した。
お茶を出すと、耕平は両手でカップを持って、しばらく黙っていた。何から話せばいいか、整理しているようだった。
「僕、花咲 るなさんと同期なんです」
ぽつりと、言った。
凜は静かに頷いた。
「二人で共同研究してたんですよ、去年まで。ゲノムデータの解析で、結構いいところまで来てたと思ってたんですけど……黒瀬先生が途中から入ってきて」
耕平は言葉を選びながら話した。訴えるわけでも、感情的になるわけでもなく、ただ事実を並べるように。
「気がついたら、僕は外されてました。研究成果は先生とるなさんの共同論文になって。僕の名前はどこにもなくて」
「……そう」
凜は静かに答えた。
「るなさんも、最初は僕に謝ってくれてたんですけど……だんだん変わってって。先生と、その……」
耕平は言いにくそうに視線を落とした。
「知ってます」
凜が言った。耕平が顔を上げた。
「二人のこと、薄々は気づいていたから」
耕平は少し目を伏せた。それから、ジャケットのポケットに手を入れた。
「これ……先生のデスクの引き出しの奥に、隠してあったんです。先週、たまたま見つけて」
小さなマイクロSDカードだった。ケースもなく、ただビニール袋に入っているだけの。
「中身は見れてないです。パスワードがかかってて。でも……なんか、これは奥さんに渡すべきだと思って」
耕平はSDを差し出した。大きくて、でもまだどこか若さの残る手だった。
「僕には関係ないことかもしれないけど。でも奥さん、昔すごい優秀な研究者だったって聞いて。それを全部捨てて結婚されたって。それで……なんか、黙ってられなくて」
凜はSDを受け取った。
小さかった。手のひらに乗せると、重さもほとんどない。でもこの中に、何かがある。凜にはそれが分かった。
「ありがとう」
凜は言った。
耕平は深く頭を下げて、足早に帰っていった。
---
一人になった凜は、ノートパソコンを開いた。
SDをスロットに差し込む。フォルダが表示された。でもその中身を開こうとすると、パスワードを求めるウィンドウが現れた。
予想していた。
凜は考えた。樹がパスワードに使いそうなもの。誕生日、記念日——いや、そんな単純なものは使わない。研究者として、樹はそういうことに抜かりがない。
カチャカチャと入力する。弾かれる。また入力する。また弾かれる。
その時、ついていたテレビから声が聞こえた。
——こちらはシンガポールで開催中の国際バイオインフォマティクスシンポジウムの様子です。産学連携をテーマに世界中から研究者や企業関係者が集まっており——
凜は画面をちらりと見た。
樹がいた。
マイクの前に立って、流暢な英語でインタビューに答えている。そのすぐ隣に、花咲るなが寄り添うように立っていた。カメラの前でも、二人の距離は近かった。
凜は一秒だけ画面を見て、またパソコンに視線を戻した。
表情は、変わらなかった。
怒りでも、悲しみでも、もうそういうものじゃなかった。ただ静かに、次の文字列を入力した。弾かれた。また入力した。
必ず開けてみせる。
その思いだけが、凜の中で静かに、でも確かに燃えていた。
---
第二章 了