夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第三章 再起

第一話 先生の声

 四日経っても、パスワードは分からなかった。

 凜はノートパソコンの前に座ったまま、画面を見つめていた。エラーメッセージが、また表示される。パスワードが正しくありません。何度目だろう。数えるのをやめた頃から、また数え始めていた。

 樹が使いそうなパスワード。研究に関連する用語、数式の一部、シンポジウムの略称——思いつく限りのものを試した。でも全部、弾かれた。

 ——樹は賢い。

 凜は目を閉じた。研究者として凜の実力を認めているからこそ、樹は徹底的に隠す。甘いパスワードは絶対に使わない。それが分かっているから、余計に糸口が見えない。

 窓の外では、冬の空が白く霞んでいた。何日も同じ景色を見ている気がした。

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 家の電話が鳴ったのは、午後の静かな時間だった。

 固定電話が鳴ることは滅多にない。誰だろうと思いながら受話器を取った。

 「……はい、黒瀬です」

 「凜くんか。御堂だ」

 凜の手が、止まった。

 御堂 隆一郎。その声は、五年前と少しも変わっていなかった。穏やかで、低くて、でも芯のある声。大学の研究室で何度も聞いた声。あの頃の自分が、一瞬だけ鮮明に蘇った。

 「……先生」

 声が、かすかに震えた。こらえようとして、こらえきれなかった。

 「シンポジウムが終わって一時帰国しているんだ。番号が変わっていなくて良かった。突然で悪かったな」

 「いえ……」

 「元気にしているか」

 その一言が、胸に刺さった。

 元気か。どう答えればいい。ここ数日、まともに眠れていない。食事もろくに摂っていない。夫の嘘の上に積み上げてきた五年間が、今崩れかけている。そんなことを、この人に言えるわけがない。

 「……はい、おかげさまで」

 「そうか」

 御堂先生は、それ以上聞かなかった。ただ少しの間、電話口で黙っていた。その沈黙が、嘘をついた凜の胸をじくりと刺した。

 「凜くん、会えるか。実はきみに紹介したい人物がいる」

 「……紹介、ですか」

 「ああ。この分野で面白い動きをしているヤツでな。きみなら絶対に興味を持つと思ったし、ぜひきみの力を貸してほしいとも思っている。きみにとっても、その人にとっても、きっと良い出会いになると思う。詳しくは会って話したい」

 凜は少し戸惑った。力を借りたい。この分野。今の自分には、もう関係のない言葉のはずだった。でも——

 「……分かりました。とりあえず、お話だけでも」

 答えは、すぐに出た。自分でも驚くくらい、迷わなかった。

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 待ち合わせは、都内のホテルのラウンジだった。

 凜が着くと、御堂先生はすでに窓際の席に座っていた。五年ぶりに見る恩師は、記憶より少し髪に白いものが増えていた。でも背筋の伸び方も、穏やかな目の光も、何も変わっていなかった。

 「凜くん」

 立ち上がって名前を呼ぶ声が、温かかった。

 「ご無沙汰しています、先生」

 凜は頭を下げた。研究者だった頃の礼儀が、体に染み付いている。

 向かい合って座ると、御堂先生はしばらく凜の顔を見ていた。値踏みするような視線ではなく、ただ静かに、見ていた。

 「痩せたな」

 開口一番、そう言った。

 「そんなことないです」

 「研究者の目は誤魔化せんよ」

 御堂先生は微かに笑った。凜は視線を落とした。

 「シンポジウムはいかがでしたか」

 「盛況だったよ。医療データ解析の分野、これから大きく動く。特にHELIOSの朝比奈の発表は面白かった」

 朝比奈。その名前が、また凜の耳をかすめた。SNSのタイムライン、パーティーのスポンサーパネル、研究者たちの会話——何度も素通りしてきた名前。

 「それから——」

 御堂先生が、少し声のトーンを変えた。

 「シンポジウムの会場で、黒瀬くんを見た」

 凜の手が、テーブルの上でかすかに動いた。

 「……そうですか」

 「花咲という若い研究者と一緒だったな。発表の内容も見た」

 御堂先生はそれ以上言わなかった。ただ、静かに凜を見ていた。

 この人は、気づいている。

 凜にはそれが分かった。何を、どこまで——は分からない。でも御堂先生の目が、凜に「大丈夫か」と聞いていた。

 「先生」

 凜は顔を上げた。感情を表に出さない、いつもの顔で。

 「紹介したい方というのは、どなたですか」

 御堂先生は少し目を細めた。それから、ゆっくりと口を開いた。

 「かつてきみの研究を見て、この分野に飛び込んだ人間だ。今はIT×医療データ解析で世界を動かそうとしている。きみの仕事を、ずっと覚えていた」

 凜は息をのんだ。

 私の研究を、覚えていた。

 五年間、誰にも言われなかった言葉だった。研究を辞めた凜に、そんなことを言う人間はいなかった。所帯じみた、中途半端、務め——そんな言葉ばかりが積み重なっていた。

 「近いうちに紹介しよう」と御堂先生は続けた。「会えばわかる」

 凜は静かに頷いた。

 胸の奥で、何かが小さく灯った。消えそうなくらい、細い光だった。でも確かに、そこにあった。

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次話へ続く
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