夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第五話 鍵のかかった箱
あの夜から、凜の中で何かが変わっていた。
表向きは何も変わらない。朝食を作り、樹を送り出し、掃除をして、夕飯の準備をする。いつも通りの一日を、いつも通りにこなしていた。でも頭の中では、あの言葉たちがずっと回り続けていた。
あの時。研究のこと。全部うまくいってる。
意味が分からなかった。分からないままでいたかった。でも凜の頭は——研究者として鍛えられたその頭は——どんなに目を逸らそうとしても、勝手に考え続けた。仮説を立てて、検証して、答えを出そうとする。それが凜という人間の、どうしようもない性分だった。
---
樹がシンガポールへ出国したのは、あの夜から三日後のことだった。御堂先生が基調講演を務める国際バイオインフォマティクスシンポジウムへの参加のためだ。数日前から準備に追われ、慌ただしくマンションを後にした。
「行ってくる」と言い残して出て行った後、凜はしばらくリビングに立っていた。
静かな部屋。差し込む冬の光。
気がついたら、書斎のドアの前に立っていた。
樹の書斎には、普段あまり入らない。樹が「研究の資料が多いから」と言って、なんとなく凜が入ることを好まない雰囲気があった。凜もそれに従ってきた。疑問も持たずに、当たり前のように。
——なぜ、入ってはいけなかったのだろう。
凜はドアを開けた。
---
書斎は整然としていた。
壁一面の本棚、デスク、ファイルが並んだキャビネット。樹らしく、無駄のない空間だった。凜は棚の埃を払いながら、ゆっくりと部屋を見渡した。
デスクの上には、樹のノートパソコンが置いてあった。閉じたまま、静かに存在している。凜はしばらくそれを見つめた。
開いてみようとは思った。でも、どうせパスワードがかかっている。樹はそういうことに抜かりがない。凜はそれをよく知っていた。
視線を移して、キャビネットの引き出しを一つずつ開けていった。研究の資料、学会のパンフレット、名刺の束——どれも特に引っかかるものはなかった。
一番下の引き出しを開けた時、奥に何かが押し込まれているのに気がついた。
レシートの束だった。
何気なく手に取った。クレジットカードの利用明細、領収書、レストランのレシート——凜の目が、一枚のレシートの上で止まった。
都内のホテルの名前。日付は三ヶ月前。
樹が「学会で泊まる」と言っていた日と、一致していた。
でも——凜は記憶を辿った。あの学会は、日帰りで行けるはずの距離だった。わざわざ宿泊する必要はない。
さらにめくる。同じホテルの領収書が、もう二枚出てきた。別の日付で。
凜はそれらを、元の場所に戻した。手が、かすかに震えていた。
もう一度キャビネットを見渡した時、本棚の端に挟まった一枚の紙が目に入った。引き抜くと、手書きのメモだった。
数式が書いてあった。
凜は息をのんだ。
見覚えがあった。いや——見覚えがある、なんていう生易しいものじゃない。この記号の並び、この変数の置き方、この思考の跳び方。これは凜が何十時間も悩んで辿り着いた、凜だけの解析アプローチだった。
でも樹の字で書いてある。
日付は——結婚する半年前。
凜はメモを持ったまま、しばらく動けなかった。これだけでは何も分からない。共同研究をしていたのだから、樹がこのアプローチを知っていても不思議ではない。断片的すぎる。証拠にも、確信にも、なりえない。
でも。
でも——なぜこれが、樹の書斎の本棚に、ひっそりと挟まっているのだろう。
凜はメモを元の場所に戻して、書斎を出た。ドアを閉めて、リビングに戻って、ソファに腰を下ろした。
頭の中で、断片たちが静かに浮かんでいた。
ホテルの領収書。見覚えのある数式。深夜の電話の声。あの時。研究のこと。
どれも繋がらない。でも、どれも無関係とは思えない。
答えは、まだ見えない。でも——何かが、確かにある。
凜はそれを、静かに確信していた。
---
次話へ続く
表向きは何も変わらない。朝食を作り、樹を送り出し、掃除をして、夕飯の準備をする。いつも通りの一日を、いつも通りにこなしていた。でも頭の中では、あの言葉たちがずっと回り続けていた。
あの時。研究のこと。全部うまくいってる。
意味が分からなかった。分からないままでいたかった。でも凜の頭は——研究者として鍛えられたその頭は——どんなに目を逸らそうとしても、勝手に考え続けた。仮説を立てて、検証して、答えを出そうとする。それが凜という人間の、どうしようもない性分だった。
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樹がシンガポールへ出国したのは、あの夜から三日後のことだった。御堂先生が基調講演を務める国際バイオインフォマティクスシンポジウムへの参加のためだ。数日前から準備に追われ、慌ただしくマンションを後にした。
「行ってくる」と言い残して出て行った後、凜はしばらくリビングに立っていた。
静かな部屋。差し込む冬の光。
気がついたら、書斎のドアの前に立っていた。
樹の書斎には、普段あまり入らない。樹が「研究の資料が多いから」と言って、なんとなく凜が入ることを好まない雰囲気があった。凜もそれに従ってきた。疑問も持たずに、当たり前のように。
——なぜ、入ってはいけなかったのだろう。
凜はドアを開けた。
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書斎は整然としていた。
壁一面の本棚、デスク、ファイルが並んだキャビネット。樹らしく、無駄のない空間だった。凜は棚の埃を払いながら、ゆっくりと部屋を見渡した。
デスクの上には、樹のノートパソコンが置いてあった。閉じたまま、静かに存在している。凜はしばらくそれを見つめた。
開いてみようとは思った。でも、どうせパスワードがかかっている。樹はそういうことに抜かりがない。凜はそれをよく知っていた。
視線を移して、キャビネットの引き出しを一つずつ開けていった。研究の資料、学会のパンフレット、名刺の束——どれも特に引っかかるものはなかった。
一番下の引き出しを開けた時、奥に何かが押し込まれているのに気がついた。
レシートの束だった。
何気なく手に取った。クレジットカードの利用明細、領収書、レストランのレシート——凜の目が、一枚のレシートの上で止まった。
都内のホテルの名前。日付は三ヶ月前。
樹が「学会で泊まる」と言っていた日と、一致していた。
でも——凜は記憶を辿った。あの学会は、日帰りで行けるはずの距離だった。わざわざ宿泊する必要はない。
さらにめくる。同じホテルの領収書が、もう二枚出てきた。別の日付で。
凜はそれらを、元の場所に戻した。手が、かすかに震えていた。
もう一度キャビネットを見渡した時、本棚の端に挟まった一枚の紙が目に入った。引き抜くと、手書きのメモだった。
数式が書いてあった。
凜は息をのんだ。
見覚えがあった。いや——見覚えがある、なんていう生易しいものじゃない。この記号の並び、この変数の置き方、この思考の跳び方。これは凜が何十時間も悩んで辿り着いた、凜だけの解析アプローチだった。
でも樹の字で書いてある。
日付は——結婚する半年前。
凜はメモを持ったまま、しばらく動けなかった。これだけでは何も分からない。共同研究をしていたのだから、樹がこのアプローチを知っていても不思議ではない。断片的すぎる。証拠にも、確信にも、なりえない。
でも。
でも——なぜこれが、樹の書斎の本棚に、ひっそりと挟まっているのだろう。
凜はメモを元の場所に戻して、書斎を出た。ドアを閉めて、リビングに戻って、ソファに腰を下ろした。
頭の中で、断片たちが静かに浮かんでいた。
ホテルの領収書。見覚えのある数式。深夜の電話の声。あの時。研究のこと。
どれも繋がらない。でも、どれも無関係とは思えない。
答えは、まだ見えない。でも——何かが、確かにある。
凜はそれを、静かに確信していた。
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次話へ続く