夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第二話 再会
御堂先生から連絡が来たのは、三日後の昼過ぎだった。
今日、時間があるか。紹介したい人が今日だけ都合がつくそうで。
凜はメッセージを見つめた。今日。樹はシンポジウムの後に別件が入ったとかで、帰国が数日遅れている。どうせ、と凜は思った。それ以上は考えなかった。
はい、大丈夫です。
送信して、クローゼットの前に立った。何を着ればいいか、少し迷った。研究者だった頃なら迷わなかった。でも今の自分は——
凜は紺のジャケットを手に取った。シンプルで、でも凛としている。これでいい。
---
指定されたのは、都内の一流ホテルのレストランだった。
エントランスをくぐると、静かな緊張感が漂っていた。要人が使うような個室を備えた、格式ある空間。案内された個室のドアを開けると、御堂先生がソファに座って待っていた。
「来たか。すまないな、急に」
「いえ、大丈夫です」
凜は頭を下げた。それから、もう一人——部屋の窓際に立っている人物に、視線が向いた。
長身だった。
スーツをさらりと着こなした、背の高い男性。窓からの光を受けて立っているその横顔が、どこか見覚えがある気がした。男性がこちらを振り返った瞬間——凜の記憶が、かすかに動いた。
「またお会いしましたね」
低くて、穏やかな声だった。
凜は首を傾げた。また、とはどういう意味だろう。
「……どこかでお会いしましたか」
「ええ。少し前に、あるレストランの前で。肩をぶつけてしまって」
凜の頭の中で、何かがはっきりと像を結んだ。
あの夜。ガラス窓の前で立ち尽くしていた自分。背後からぶつかってきた人。振り返ったら——
「……あの時の」
「覚えていてくださいましたか」
男性は少し目を細めた。穏やかな笑みだった。
「紹介しよう」
御堂先生が口を開いた。
「朝比奈 蓮くん。医療データ解析プラットフォーム・HELIOSのCEOだ。今回のシンポジウムでも特別ゲストとして参加していた。御堂ゼミで凜くんの後輩にあたる」
凜は息をのんだ。
朝比奈 蓮。確かに聞いたことがある名前だった。でも今、その名前の人物が目の前に立っている。
「黒瀬さん」
蓮が静かに言った。
「お会いできて光栄です。ずっと、お目にかかりたかった」
「……私に、ですか」
「氷室 凜名義の論文、全部読みました。バイオインフォマティクスの世界に飛び込んだのは、あなたの発表を見たのがきっかけです」
凜は、言葉を失った。
氷室凜。その名前を、この人は知っている。研究を辞めた凜ではなく、研究者だった頃の凜を、知っている。
「あの発表を見た時——」
蓮は少し間を置いた。
「世界が変わる、と思いました」
部屋が、静かだった。
凜は蓮の顔を見つめた。お世辞を言っている顔ではなかった。本当にそう思っている目だった。
胸の奥で、五年間眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ます感覚があった。
---
次話へ続く
今日、時間があるか。紹介したい人が今日だけ都合がつくそうで。
凜はメッセージを見つめた。今日。樹はシンポジウムの後に別件が入ったとかで、帰国が数日遅れている。どうせ、と凜は思った。それ以上は考えなかった。
はい、大丈夫です。
送信して、クローゼットの前に立った。何を着ればいいか、少し迷った。研究者だった頃なら迷わなかった。でも今の自分は——
凜は紺のジャケットを手に取った。シンプルで、でも凛としている。これでいい。
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指定されたのは、都内の一流ホテルのレストランだった。
エントランスをくぐると、静かな緊張感が漂っていた。要人が使うような個室を備えた、格式ある空間。案内された個室のドアを開けると、御堂先生がソファに座って待っていた。
「来たか。すまないな、急に」
「いえ、大丈夫です」
凜は頭を下げた。それから、もう一人——部屋の窓際に立っている人物に、視線が向いた。
長身だった。
スーツをさらりと着こなした、背の高い男性。窓からの光を受けて立っているその横顔が、どこか見覚えがある気がした。男性がこちらを振り返った瞬間——凜の記憶が、かすかに動いた。
「またお会いしましたね」
低くて、穏やかな声だった。
凜は首を傾げた。また、とはどういう意味だろう。
「……どこかでお会いしましたか」
「ええ。少し前に、あるレストランの前で。肩をぶつけてしまって」
凜の頭の中で、何かがはっきりと像を結んだ。
あの夜。ガラス窓の前で立ち尽くしていた自分。背後からぶつかってきた人。振り返ったら——
「……あの時の」
「覚えていてくださいましたか」
男性は少し目を細めた。穏やかな笑みだった。
「紹介しよう」
御堂先生が口を開いた。
「朝比奈 蓮くん。医療データ解析プラットフォーム・HELIOSのCEOだ。今回のシンポジウムでも特別ゲストとして参加していた。御堂ゼミで凜くんの後輩にあたる」
凜は息をのんだ。
朝比奈 蓮。確かに聞いたことがある名前だった。でも今、その名前の人物が目の前に立っている。
「黒瀬さん」
蓮が静かに言った。
「お会いできて光栄です。ずっと、お目にかかりたかった」
「……私に、ですか」
「氷室 凜名義の論文、全部読みました。バイオインフォマティクスの世界に飛び込んだのは、あなたの発表を見たのがきっかけです」
凜は、言葉を失った。
氷室凜。その名前を、この人は知っている。研究を辞めた凜ではなく、研究者だった頃の凜を、知っている。
「あの発表を見た時——」
蓮は少し間を置いた。
「世界が変わる、と思いました」
部屋が、静かだった。
凜は蓮の顔を見つめた。お世辞を言っている顔ではなかった。本当にそう思っている目だった。
胸の奥で、五年間眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ます感覚があった。
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次話へ続く