夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第三話 記憶の中の人
朝比奈 蓮が初めて彼女を見たのは、八年前の春だった。
御堂先生のゼミに所属していた蓮は、その日頼まれた学会のお手伝いで会場に来ていた。受付業務をこなしながら、広い会場をぼんやりと眺めていた。正直なところ、研究の内容などほとんど分からなかった。父の会社を継ぐつもりだったから、御堂先生のゼミも御堂先生自身も尊敬していたけれど、バイオインフォマティクスという分野が自分の人生と交わるとは、あの頃は思ってもいなかった。
だから——壇上に彼女が現れた瞬間のことを、蓮は今でも鮮明に覚えている。
---
マイクの前に立った女性は、場違いなほど静かだった。
華やかな学会の場で、彼女だけが違う空気をまとっていた。緊張しているわけでも、気負っているわけでもない。ただ、自分がこれから話すことに、完全に集中している。そういう静けさだった。
スライドが切り替わった——その瞬間だった。
「あ……」
壇上で、女性の声が止まった。
スクリーンが、真っ暗になっていた。
機材トラブルだった。発表の核心となるデータのスライドが、突然映らなくなった。会場がざわめいた。スタッフが慌てて駆け寄る。でも原因が分からない。
蓮は気がついたら走っていた。
受付を飛び出して、壇上に向かっていた。自分でも驚いた。でも足が動いていた。
「すみません、少し見せてもらえますか」
蓮は壇上のスタッフに声をかけた。PCの状態を確認する。データが破損している。でも完全に消えたわけじゃない。バックアップから引っ張れるかもしれない。
「……大丈夫ですか」
隣から、声がした。
女性——氷室 凜が、蓮の横に立っていた。その目が、状況を正確に把握しようとしていた。焦りはあるはずなのに、声は静かだった。
「バックアップのデータ、お持ちですか」
「……USBに入っています」
「貸してください」
蓮は手際よく作業を進めた。ファイルを復元して、スライドを再構成する。指が速く動く。それでも数分かかった。
その間、凜は壇上でマイクを持ったまま、聴衆に向かって話し続けていた。
「スライドが復旧するまで、口頭でご説明します」
動揺した様子は、少しもない。データが映らない状態で、頭の中にある内容を丁寧に言葉にしていた。蓮はそれを横で聞きながら、思った。
——この人は、すごい。
スクリーンに、スライドが戻った。
会場から、拍手が起きた。
凜が蓮の方を見た。目が合うと、凜は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。助かりました」
その言葉が、蓮の胸に落ちた。
発表が終わった。拍手が起きた。
蓮は、はぁっと息を吐いた。
その時、白いハンカチが差し出された。
凜が、蓮の前に立っていた。
「これ、よかったら。汗……」
「あ、ありがとうございます」
蓮は反射的に受け取った。
白くて、清潔な、刺繍のないシンプルなハンカチだった。
蓮は顔を上げて、彼女を見た。
世界が変わる、と思った。
この人が研究を続けたら、世界が変わる。根拠なんてなかった。でも蓮には、確信があった。
声をかけよう、と一歩踏み出したその時だった。
「凜、行くぞ」
人混みの中から、端整な顔立ちの男性が現れた。凜がその男性を見た瞬間、さっきまでとは違う顔になった。柔らかくて、安心したような顔。男性は凜の腕を取って、そのまま人混みの中へと連れていった。
蓮は立ち止まった。
二人の姿が、人混みの中に消えていく。
蓮はプログラムを手に取ると、発表者一覧を探した。指が、一つの名前の上で止まった。
氷室 凜。
声に出さずに、その名前を読んだ。氷室 凜。それだけを確認して、蓮はプログラムを胸のポケットにしまった。
手の中に、ハンカチがあった。
---
翌日のことだった。
学会は二日間にわたっていて、蓮は二日目もお手伝いで大学に来ていた。午後のセッションが始まる前の、人がまばらな時間帯。蓮は資料を抱えて廊下を歩いていた。
角を曲がった瞬間、声が聞こえた。
「それは違います」
はっきりとした、でも感情的ではない声だった。蓮は思わず足を止めた。
廊下の端に、数人の研究者が集まっていた。その中心に、昨日の彼女がいた。
年配の研究者らしき男性が、腕を組んで話している。
「君のアプローチは面白いが、サンプル数が少なすぎる。説得力に欠けるんじゃないかね」
「サンプル数の問題ではなく、解析アルゴリズムの設計自体を変える必要があると思っています」
凜は静かに、でも一歩も引かずに答えた。
「従来の手法では限界があります。このデータの特性を活かすなら——」
凜が話し始めた。蓮には専門的な内容は分からない。でも、凜の目が昨日とまた違う光を放っているのは分かった。議論の中で、さらに輝いている。反論されるほど、燃え上がるような。
年配の研究者が少し目を見開いた。
「……なるほど。その発想は、確かに面白い」
凜は頷いた。勝ち誇るわけでも、安堵するわけでもなく、ただ淡々と。まるでそれが当然の結論であるかのように。
蓮は廊下の端で、息をするのも忘れて立っていた。
---
声をかけよう、と思ったのはその直後だった。
議論が終わって、周りの研究者が散り始めた。凜が一人になった。今なら話しかけられる。蓮は一歩踏み出した。
その時だった。
「凜」
また、あの声がした。
昨日と同じ男性が、廊下の向こうから歩いてきた。凜がその男性を見た瞬間、さっきまでの鋭い研究者の顔が、ふっと柔らかくなった。
「黒瀬先輩、お疲れ様です」
近くにいた別の研究者が頭を下げる。黒瀬。それが彼の名前らしかった。
「論文の修正、もう少しかかりそうで」と凜が言う。
「俺も手伝う。今夜、研究室に残れるか」
「……うん」
二人が並んで歩き出した。凜がその男性の隣で、また微笑んでいる。昨日と同じ顔だった。柔らかくて、どこか安心したような。
蓮は動けなかった。
二人の後ろ姿が、廊下の奥へと消えていく。
——そういうことか。
胸の中で、何かが静かに沈んだ。痛いとか悔しいとか、そういう感情が来る前に、ただ静かに、沈んでいくような感覚だった。
蓮はプログラムを胸のポケットの中で、そっと指先で触れた。
ポケットの奥に、白いハンカチがあった。
氷室 凜。
その名前だけを、また心の中で読んだ。
---
次話へ続く
御堂先生のゼミに所属していた蓮は、その日頼まれた学会のお手伝いで会場に来ていた。受付業務をこなしながら、広い会場をぼんやりと眺めていた。正直なところ、研究の内容などほとんど分からなかった。父の会社を継ぐつもりだったから、御堂先生のゼミも御堂先生自身も尊敬していたけれど、バイオインフォマティクスという分野が自分の人生と交わるとは、あの頃は思ってもいなかった。
だから——壇上に彼女が現れた瞬間のことを、蓮は今でも鮮明に覚えている。
---
マイクの前に立った女性は、場違いなほど静かだった。
華やかな学会の場で、彼女だけが違う空気をまとっていた。緊張しているわけでも、気負っているわけでもない。ただ、自分がこれから話すことに、完全に集中している。そういう静けさだった。
スライドが切り替わった——その瞬間だった。
「あ……」
壇上で、女性の声が止まった。
スクリーンが、真っ暗になっていた。
機材トラブルだった。発表の核心となるデータのスライドが、突然映らなくなった。会場がざわめいた。スタッフが慌てて駆け寄る。でも原因が分からない。
蓮は気がついたら走っていた。
受付を飛び出して、壇上に向かっていた。自分でも驚いた。でも足が動いていた。
「すみません、少し見せてもらえますか」
蓮は壇上のスタッフに声をかけた。PCの状態を確認する。データが破損している。でも完全に消えたわけじゃない。バックアップから引っ張れるかもしれない。
「……大丈夫ですか」
隣から、声がした。
女性——氷室 凜が、蓮の横に立っていた。その目が、状況を正確に把握しようとしていた。焦りはあるはずなのに、声は静かだった。
「バックアップのデータ、お持ちですか」
「……USBに入っています」
「貸してください」
蓮は手際よく作業を進めた。ファイルを復元して、スライドを再構成する。指が速く動く。それでも数分かかった。
その間、凜は壇上でマイクを持ったまま、聴衆に向かって話し続けていた。
「スライドが復旧するまで、口頭でご説明します」
動揺した様子は、少しもない。データが映らない状態で、頭の中にある内容を丁寧に言葉にしていた。蓮はそれを横で聞きながら、思った。
——この人は、すごい。
スクリーンに、スライドが戻った。
会場から、拍手が起きた。
凜が蓮の方を見た。目が合うと、凜は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。助かりました」
その言葉が、蓮の胸に落ちた。
発表が終わった。拍手が起きた。
蓮は、はぁっと息を吐いた。
その時、白いハンカチが差し出された。
凜が、蓮の前に立っていた。
「これ、よかったら。汗……」
「あ、ありがとうございます」
蓮は反射的に受け取った。
白くて、清潔な、刺繍のないシンプルなハンカチだった。
蓮は顔を上げて、彼女を見た。
世界が変わる、と思った。
この人が研究を続けたら、世界が変わる。根拠なんてなかった。でも蓮には、確信があった。
声をかけよう、と一歩踏み出したその時だった。
「凜、行くぞ」
人混みの中から、端整な顔立ちの男性が現れた。凜がその男性を見た瞬間、さっきまでとは違う顔になった。柔らかくて、安心したような顔。男性は凜の腕を取って、そのまま人混みの中へと連れていった。
蓮は立ち止まった。
二人の姿が、人混みの中に消えていく。
蓮はプログラムを手に取ると、発表者一覧を探した。指が、一つの名前の上で止まった。
氷室 凜。
声に出さずに、その名前を読んだ。氷室 凜。それだけを確認して、蓮はプログラムを胸のポケットにしまった。
手の中に、ハンカチがあった。
---
翌日のことだった。
学会は二日間にわたっていて、蓮は二日目もお手伝いで大学に来ていた。午後のセッションが始まる前の、人がまばらな時間帯。蓮は資料を抱えて廊下を歩いていた。
角を曲がった瞬間、声が聞こえた。
「それは違います」
はっきりとした、でも感情的ではない声だった。蓮は思わず足を止めた。
廊下の端に、数人の研究者が集まっていた。その中心に、昨日の彼女がいた。
年配の研究者らしき男性が、腕を組んで話している。
「君のアプローチは面白いが、サンプル数が少なすぎる。説得力に欠けるんじゃないかね」
「サンプル数の問題ではなく、解析アルゴリズムの設計自体を変える必要があると思っています」
凜は静かに、でも一歩も引かずに答えた。
「従来の手法では限界があります。このデータの特性を活かすなら——」
凜が話し始めた。蓮には専門的な内容は分からない。でも、凜の目が昨日とまた違う光を放っているのは分かった。議論の中で、さらに輝いている。反論されるほど、燃え上がるような。
年配の研究者が少し目を見開いた。
「……なるほど。その発想は、確かに面白い」
凜は頷いた。勝ち誇るわけでも、安堵するわけでもなく、ただ淡々と。まるでそれが当然の結論であるかのように。
蓮は廊下の端で、息をするのも忘れて立っていた。
---
声をかけよう、と思ったのはその直後だった。
議論が終わって、周りの研究者が散り始めた。凜が一人になった。今なら話しかけられる。蓮は一歩踏み出した。
その時だった。
「凜」
また、あの声がした。
昨日と同じ男性が、廊下の向こうから歩いてきた。凜がその男性を見た瞬間、さっきまでの鋭い研究者の顔が、ふっと柔らかくなった。
「黒瀬先輩、お疲れ様です」
近くにいた別の研究者が頭を下げる。黒瀬。それが彼の名前らしかった。
「論文の修正、もう少しかかりそうで」と凜が言う。
「俺も手伝う。今夜、研究室に残れるか」
「……うん」
二人が並んで歩き出した。凜がその男性の隣で、また微笑んでいる。昨日と同じ顔だった。柔らかくて、どこか安心したような。
蓮は動けなかった。
二人の後ろ姿が、廊下の奥へと消えていく。
——そういうことか。
胸の中で、何かが静かに沈んだ。痛いとか悔しいとか、そういう感情が来る前に、ただ静かに、沈んでいくような感覚だった。
蓮はプログラムを胸のポケットの中で、そっと指先で触れた。
ポケットの奥に、白いハンカチがあった。
氷室 凜。
その名前だけを、また心の中で読んだ。
---
次話へ続く