夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第四話 灯る
「黒瀬さん」
蓮が静かに言った。
「先ほどおっしゃっていたゲノムデータの解析アプローチ、もう少し聞かせていただけますか。HELIOSが今取り組んでいる方向性と、かなり近いところがあって」
凜は少し戸惑った。この人は、今の自分に聞いているのだろうか。研究を辞めて五年、専業主婦の自分に。
「……今は研究から離れていますので、最新の動向には疎くて」
「かつてのアプローチの話で十分です。あの論文に書かれていた解析手法、今でも色褪せていない。むしろ今の技術と組み合わせたら、もっと面白いことができると思っている」
蓮はまっすぐに凜を見ていた。遠慮でも社交辞令でもない、本気の目だった。
凜の中で、何かが動いた。
「……たとえば、どういう方向性ですか」
気がついたら、聞いていた。
蓮が話し始めた。医療データとゲノム解析の融合、AIを使った新しいアプローチ、まだ誰も踏み込んでいない領域。凜は相槌を打ちながら、頭の中で自然と計算が走り始めていた。あの手法をこう使えば、このデータにはこのアルゴリズムが——
「その場合、データの前処理の段階で——」
凜は気がついたら話していた。
御堂先生が、静かに微笑んでいた。
---
ホテルを出ると、冬の夜風が頰を撫でた。
「送ります」と蓮が言ったのを、凜は「大丈夫です」と断った。タクシーを拾って、一人で帰路についた。
車窓に流れる夜の街を見ながら、凜は今夜のことを頭の中で反芻していた。
久しぶりに、研究の話をした。久しぶりに、頭の中でアルゴリズムが走った。久しぶりに——自分が研究者だったことを、思い出した。
朝比奈 蓮。
不思議な人だ、と思った。遊び人だという噂を耳にしたことがある気がするけれど、今夜の彼はそういう雰囲気とは程遠かった。ただ真剣に、研究の話をしていた。凜の言葉を、本当に聞いていた。
---
マンションに帰ると、リビングが暗かった。
樹はまだ帰らない。当たり前だ、と凜は思った。コートを脱いでソファに座ると、今夜のことがまた頭の中でゆっくりと巡った。
御堂先生の声。久しぶりに感じた研究の匂い。そして——朝比奈 蓮の言葉。
氷室 凜名義の論文、全部読みました。
世界が変わる、と思いました。
五年間、誰にも言われなかった言葉が、まだ胸の中で温かく灯っていた。
スマートフォンを手に取った。何気なく開いて、ふと思い出した。耕平が帰り際に、小さな声で教えてくれたことがあった。
るなさんのSNS、よかったら見てみてください。色々と……分かると思うので。
あの時は流していた。でも今夜、凜は検索した。
アカウントはすぐに見つかった。鍵もかかっていない、誰でも見られる投稿。
一番上に、今日の投稿があった。
海外の夕焼けの写真。オレンジ色に染まった美しい空。キャプションには何も書いていない。タグもない。ただ、ハートの絵文字が一つだけ。
その前の投稿は、高級レストランの料理の写真。その前は、見覚えのある街並み——シンガポールだった。
凜は画面を閉じた。
怒りは、なかった。悲しみも、もうあまりなかった。ただ静かに、全部が繋がっていく感覚だけがあった。
窓の外に、夜の街が広がっていた。
凜はもう一度、スマートフォンを開いた。今度はメモアプリを立ち上げて、樹が使いそうなパスワードの候補を、また一から書き出し始めた。
今夜の蓮の言葉が、頭の隅でまだ灯っていた。
世界が変わる。
——変えてみせる。
凜は画面を見つめながら、静かにそう思った。
---
次話へ続く
蓮が静かに言った。
「先ほどおっしゃっていたゲノムデータの解析アプローチ、もう少し聞かせていただけますか。HELIOSが今取り組んでいる方向性と、かなり近いところがあって」
凜は少し戸惑った。この人は、今の自分に聞いているのだろうか。研究を辞めて五年、専業主婦の自分に。
「……今は研究から離れていますので、最新の動向には疎くて」
「かつてのアプローチの話で十分です。あの論文に書かれていた解析手法、今でも色褪せていない。むしろ今の技術と組み合わせたら、もっと面白いことができると思っている」
蓮はまっすぐに凜を見ていた。遠慮でも社交辞令でもない、本気の目だった。
凜の中で、何かが動いた。
「……たとえば、どういう方向性ですか」
気がついたら、聞いていた。
蓮が話し始めた。医療データとゲノム解析の融合、AIを使った新しいアプローチ、まだ誰も踏み込んでいない領域。凜は相槌を打ちながら、頭の中で自然と計算が走り始めていた。あの手法をこう使えば、このデータにはこのアルゴリズムが——
「その場合、データの前処理の段階で——」
凜は気がついたら話していた。
御堂先生が、静かに微笑んでいた。
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ホテルを出ると、冬の夜風が頰を撫でた。
「送ります」と蓮が言ったのを、凜は「大丈夫です」と断った。タクシーを拾って、一人で帰路についた。
車窓に流れる夜の街を見ながら、凜は今夜のことを頭の中で反芻していた。
久しぶりに、研究の話をした。久しぶりに、頭の中でアルゴリズムが走った。久しぶりに——自分が研究者だったことを、思い出した。
朝比奈 蓮。
不思議な人だ、と思った。遊び人だという噂を耳にしたことがある気がするけれど、今夜の彼はそういう雰囲気とは程遠かった。ただ真剣に、研究の話をしていた。凜の言葉を、本当に聞いていた。
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マンションに帰ると、リビングが暗かった。
樹はまだ帰らない。当たり前だ、と凜は思った。コートを脱いでソファに座ると、今夜のことがまた頭の中でゆっくりと巡った。
御堂先生の声。久しぶりに感じた研究の匂い。そして——朝比奈 蓮の言葉。
氷室 凜名義の論文、全部読みました。
世界が変わる、と思いました。
五年間、誰にも言われなかった言葉が、まだ胸の中で温かく灯っていた。
スマートフォンを手に取った。何気なく開いて、ふと思い出した。耕平が帰り際に、小さな声で教えてくれたことがあった。
るなさんのSNS、よかったら見てみてください。色々と……分かると思うので。
あの時は流していた。でも今夜、凜は検索した。
アカウントはすぐに見つかった。鍵もかかっていない、誰でも見られる投稿。
一番上に、今日の投稿があった。
海外の夕焼けの写真。オレンジ色に染まった美しい空。キャプションには何も書いていない。タグもない。ただ、ハートの絵文字が一つだけ。
その前の投稿は、高級レストランの料理の写真。その前は、見覚えのある街並み——シンガポールだった。
凜は画面を閉じた。
怒りは、なかった。悲しみも、もうあまりなかった。ただ静かに、全部が繋がっていく感覚だけがあった。
窓の外に、夜の街が広がっていた。
凜はもう一度、スマートフォンを開いた。今度はメモアプリを立ち上げて、樹が使いそうなパスワードの候補を、また一から書き出し始めた。
今夜の蓮の言葉が、頭の隅でまだ灯っていた。
世界が変わる。
——変えてみせる。
凜は画面を見つめながら、静かにそう思った。
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次話へ続く