夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第五話 雨上がり
御堂先生と朝比奈 蓮に会ってから、数日が経っていた。
パスワードは、まだ分からない。でも不思議と、以前ほど焦っていなかった。何かが変わったわけじゃない。樹との関係も、何も動いていない。ただ——頭の中で、別の何かが静かに回り始めていた。
久しぶりに感じた、あの感覚だった。
問いを立てて、仮説を組んで、検証する。研究者として当たり前にやっていたことが、五年ぶりに血の中で動き始めているような。蓮との会話で触れた医療データとゲノム解析の話が、頭の隅でずっとくすぶっていた。眠れない夜に、気がついたらノートに数式を走り書きしていた。
いつの間に買ったのか覚えていないノートだった。でもペンを持つ手は、迷わなかった。
---
その日、凜が外に出たのは特に理由があったわけじゃない。
強いて言えば、気晴らしだった。家の中にいると、どうしても書斎のドアや、パソコンや、あのSDカードのことが頭をよぎる。少し空気を変えたかった。
駅近くの小さなカフェに入った。窓際の席を取って、コーヒーを頼んで、バッグからノートを取り出した。本当は何も書くつもりはなかった。ただ、なんとなく持ってきてしまっただけだ。
でも——コーヒーが運ばれてきた頃には、ペンが動いていた。
蓮が話していたアルゴリズムの限界点。あそこに凜のアプローチを当てはめると、どうなるだろう。データの前処理の段階で設計を変えれば、精度が上がるかもしれない。いや、もう一段階手前から——
気がついたら、二時間が経っていた。
コーヒーはとっくに冷めていた。ノートには数式と走り書きのメモがびっしり並んでいた。凜はペンを置いて、少し呆然とした。
——まだ、できる。
その感覚が、静かに胸に広がった。
---
帰ろうとして店を出たのは、夕方近くだった。
空が急に暗くなったのは、商店街に差し掛かった頃のことだった。大粒の雨が落ちてきて、凜は近くの書店の軒先に駆け込んだ。通り雨にしては本格的で、しばらく止みそうにない。凜はコートの襟を直して、雨が斜めに叩きつける景色を眺めた。
「また会いましたね」
声がした。
振り返ると、朝比奈 蓮が立っていた。傘を畳みながら、少し濡れた肩のまま。凜と目が合うと、穏やかに笑った。
「……ほんとうに、よく会いますね」
凜は少し驚きながらも、思わずそう返した。
「御堂先生に言わせると、必然だそうですよ」
蓮は軒先に並んで立った。二人分のスペースはちょうどあって、でも少し狭くて、凜は視線を雨の方に向けた。
「今日はお一人ですか」
「ええ。少し気晴らしに」
「そうですか」
蓮はそれ以上聞かなかった。ただ隣で、同じように雨を見ていた。その沈黙が、不思議と居心地よかった。
---
しばらくして、蓮が口を開いた。
「HELIOSの新しいプロジェクト、少し話してもいいですか。聞いてもらえたら嬉しくて」
「……私でいいんですか」
「黒瀬さんじゃないとだめなんです」
まっすぐな言い方だった。凜は思わず蓮の顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。
「ゲノムデータと医療AIの融合、今一番面白いところに来ていて。でも肝心な部分で壁にぶつかっていて」
「どういう壁ですか」
気がついたら、聞いていた。
蓮が話し始めた。解析結果を実際の臨床現場に落とし込む時の壁——データの多様性が高すぎて、精度が一般化できない問題。理論上は解けても、実用に耐えるモデルが作れない。凜の頭の中で、さっきカフェで走り書きした数式が蘇った。前処理の設計を変えれば、このボトルネックが崩せるかもしれない——
「その場合、解析の前処理を根本から見直す必要があると思います。従来の手法では——」
凜は気がついたら話していた。
蓮が静かに、でも真剣に聞いていた。相槌を打つ目が、本気だった。
「……やっぱりそこですよね」
蓮が言った。
「氷室 凜名義の論文を読んだ時から、そこだと思っていた。でも僕には解けなかった。黒瀬さんなら解ける」
凜は黙っていた。
「一緒にやりませんか」
雨音の中で、蓮の声は静かだった。
「研究者として。御堂先生も一緒に。黒瀬さんの力が、本当に必要なんです」
凜は雨を見つめた。
研究者として。その言葉が、胸の中でゆっくりと広がった。五年間、誰にも言われなかった言葉。所帯じみた、中途半端、務め——そういう言葉ばかりが積み重なっていた場所に、全然違う言葉が降ってきた。
さっきカフェで、気がついたら数式を書いていた自分のことを思った。
まだ、できる。
「……少し、考えさせてください」
凜は言った。
「もちろん」
蓮は笑った。急かす顔ではなかった。ただ、待っていると言っているような目だった。
雨が、少しずつ弱まっていた。やがて完全に止んで、濡れたアスファルトに夕方の光が反射した。
「タクシーを呼びます」
蓮がさっとスマートフォンを取り出した。凜が「大丈夫です」と言いかけると、
「夕方で混みますから」
それだけ言って、もう呼んでいた。有無を言わせない自然さだった。
数分で来たタクシーに凜が乗り込もうとした時、蓮が言った。
「あ、これ」
スマートフォンの画面をさっと向けてきた。QRコードだった。
「研究のことで何かあれば、いつでも。メールより早く返せるので」
凜は少し戸惑いながらも、スマートフォンを取り出してコードを読み取った。画面に「朝比奈 蓮」という名前が表示された。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
蓮は微かに笑った。凜がドアを閉めると、タクシーがゆっくりと走り出した。
バックミラー越しに振り返ると、蓮はまだそこに立っていた。タクシーが角を曲がるまで、見届けるように。
---
翌朝、凜は御堂先生に電話をかけた。
「先生」
「凜くんか。どうした」
「……研究に戻ります」
電話口で、短い沈黙があった。
「待っていた」
御堂先生の声は、いつも通り穏やかだった。でもその一言に、五年分の何かが詰まっているような気がした。
凜は窓の外を見た。昨日の雨が上がって、冬の朝の光が差し込んでいた。
氷室凜として、もう一度。
その思いが、静かに、でも確かに、凜の中で根を張り始めていた。
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第三章 了
パスワードは、まだ分からない。でも不思議と、以前ほど焦っていなかった。何かが変わったわけじゃない。樹との関係も、何も動いていない。ただ——頭の中で、別の何かが静かに回り始めていた。
久しぶりに感じた、あの感覚だった。
問いを立てて、仮説を組んで、検証する。研究者として当たり前にやっていたことが、五年ぶりに血の中で動き始めているような。蓮との会話で触れた医療データとゲノム解析の話が、頭の隅でずっとくすぶっていた。眠れない夜に、気がついたらノートに数式を走り書きしていた。
いつの間に買ったのか覚えていないノートだった。でもペンを持つ手は、迷わなかった。
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その日、凜が外に出たのは特に理由があったわけじゃない。
強いて言えば、気晴らしだった。家の中にいると、どうしても書斎のドアや、パソコンや、あのSDカードのことが頭をよぎる。少し空気を変えたかった。
駅近くの小さなカフェに入った。窓際の席を取って、コーヒーを頼んで、バッグからノートを取り出した。本当は何も書くつもりはなかった。ただ、なんとなく持ってきてしまっただけだ。
でも——コーヒーが運ばれてきた頃には、ペンが動いていた。
蓮が話していたアルゴリズムの限界点。あそこに凜のアプローチを当てはめると、どうなるだろう。データの前処理の段階で設計を変えれば、精度が上がるかもしれない。いや、もう一段階手前から——
気がついたら、二時間が経っていた。
コーヒーはとっくに冷めていた。ノートには数式と走り書きのメモがびっしり並んでいた。凜はペンを置いて、少し呆然とした。
——まだ、できる。
その感覚が、静かに胸に広がった。
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帰ろうとして店を出たのは、夕方近くだった。
空が急に暗くなったのは、商店街に差し掛かった頃のことだった。大粒の雨が落ちてきて、凜は近くの書店の軒先に駆け込んだ。通り雨にしては本格的で、しばらく止みそうにない。凜はコートの襟を直して、雨が斜めに叩きつける景色を眺めた。
「また会いましたね」
声がした。
振り返ると、朝比奈 蓮が立っていた。傘を畳みながら、少し濡れた肩のまま。凜と目が合うと、穏やかに笑った。
「……ほんとうに、よく会いますね」
凜は少し驚きながらも、思わずそう返した。
「御堂先生に言わせると、必然だそうですよ」
蓮は軒先に並んで立った。二人分のスペースはちょうどあって、でも少し狭くて、凜は視線を雨の方に向けた。
「今日はお一人ですか」
「ええ。少し気晴らしに」
「そうですか」
蓮はそれ以上聞かなかった。ただ隣で、同じように雨を見ていた。その沈黙が、不思議と居心地よかった。
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しばらくして、蓮が口を開いた。
「HELIOSの新しいプロジェクト、少し話してもいいですか。聞いてもらえたら嬉しくて」
「……私でいいんですか」
「黒瀬さんじゃないとだめなんです」
まっすぐな言い方だった。凜は思わず蓮の顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。
「ゲノムデータと医療AIの融合、今一番面白いところに来ていて。でも肝心な部分で壁にぶつかっていて」
「どういう壁ですか」
気がついたら、聞いていた。
蓮が話し始めた。解析結果を実際の臨床現場に落とし込む時の壁——データの多様性が高すぎて、精度が一般化できない問題。理論上は解けても、実用に耐えるモデルが作れない。凜の頭の中で、さっきカフェで走り書きした数式が蘇った。前処理の設計を変えれば、このボトルネックが崩せるかもしれない——
「その場合、解析の前処理を根本から見直す必要があると思います。従来の手法では——」
凜は気がついたら話していた。
蓮が静かに、でも真剣に聞いていた。相槌を打つ目が、本気だった。
「……やっぱりそこですよね」
蓮が言った。
「氷室 凜名義の論文を読んだ時から、そこだと思っていた。でも僕には解けなかった。黒瀬さんなら解ける」
凜は黙っていた。
「一緒にやりませんか」
雨音の中で、蓮の声は静かだった。
「研究者として。御堂先生も一緒に。黒瀬さんの力が、本当に必要なんです」
凜は雨を見つめた。
研究者として。その言葉が、胸の中でゆっくりと広がった。五年間、誰にも言われなかった言葉。所帯じみた、中途半端、務め——そういう言葉ばかりが積み重なっていた場所に、全然違う言葉が降ってきた。
さっきカフェで、気がついたら数式を書いていた自分のことを思った。
まだ、できる。
「……少し、考えさせてください」
凜は言った。
「もちろん」
蓮は笑った。急かす顔ではなかった。ただ、待っていると言っているような目だった。
雨が、少しずつ弱まっていた。やがて完全に止んで、濡れたアスファルトに夕方の光が反射した。
「タクシーを呼びます」
蓮がさっとスマートフォンを取り出した。凜が「大丈夫です」と言いかけると、
「夕方で混みますから」
それだけ言って、もう呼んでいた。有無を言わせない自然さだった。
数分で来たタクシーに凜が乗り込もうとした時、蓮が言った。
「あ、これ」
スマートフォンの画面をさっと向けてきた。QRコードだった。
「研究のことで何かあれば、いつでも。メールより早く返せるので」
凜は少し戸惑いながらも、スマートフォンを取り出してコードを読み取った。画面に「朝比奈 蓮」という名前が表示された。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
蓮は微かに笑った。凜がドアを閉めると、タクシーがゆっくりと走り出した。
バックミラー越しに振り返ると、蓮はまだそこに立っていた。タクシーが角を曲がるまで、見届けるように。
---
翌朝、凜は御堂先生に電話をかけた。
「先生」
「凜くんか。どうした」
「……研究に戻ります」
電話口で、短い沈黙があった。
「待っていた」
御堂先生の声は、いつも通り穏やかだった。でもその一言に、五年分の何かが詰まっているような気がした。
凜は窓の外を見た。昨日の雨が上がって、冬の朝の光が差し込んでいた。
氷室凜として、もう一度。
その思いが、静かに、でも確かに、凜の中で根を張り始めていた。
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第三章 了