夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第四章 逆転

第一話 氷室凜、再び

 ホワイトボードに数式を羅列していると、凜は時折、目の前の現実の輪郭がひどく曖昧に思えてくることがある。

 「そこの係数なんですけど」

 向かいに座った田辺(たなべ)が、ノートパソコンの画面を凜に向けた。HELIOSの若手研究員で、データ解析が専門だ。最初の頃は凜のことをどこか値踏みするような目で見ていたけれど、最近は違う。

 「前処理の段階でここを変えると、後段のアルゴリズムに影響が出て。どう思いますか」

 「影響は出るけど、それが狙いじゃないですか。ここで補正をかけることで精度が上がる。試してみる価値はある」

 凜が答えると、隣に座っていた梨田 明美(なしだ あけみ)が顔を上げた。

 「……それ、わたしたちが先週詰まってたところですよね」

 二十五、六歳だろうか。小柄で、くりっとした目の女性だった。HELIOSでも特に優秀だと聞いている。最初の顔合わせの時、明美が凜に向けてきた視線には、「なぜ今更、現場を離れていた人が」という露骨な懐疑心が混じっていた。

 「そうです。試してみてください」

 凜が頷くと、明美は少し口をへの字にしながらも、素直にパソコンに向かった。その横顔が、どこか真剣で、凜はそれを見て小さく息をついた。

 この子は、いい研究者になる。

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 研究に復帰した最初の日のことを、凜はよく覚えている。

 御堂先生に「待っていた」と言われて電話を切った翌週、凜はHELIOSの研究施設に足を踏み入れた。

 ドアを開けた瞬間、懐かしいにおいがした。

 試薬でも機械でもない。紙とインクと、乾いた空気の混じった、研究室特有のにおい。それだけで、胸が締め付けられた。

 「来たか」

 御堂先生が振り返った。いつもの穏やかな顔で、でも目が少し温かかった。その隣に、蓮が立っていた。

 「お待ちしていました」

 蓮が静かに言った。そしてチームのメンバーを一人ずつ紹介した。データ解析担当、アルゴリズム開発担当、医療データ連携担当——どれも若くて、優秀そうで、でもどこか凜を見る目が探っていた。

 凜はそれを感じながら、頭を下げた。

 「よろしくお願いします。足を引っ張らないようにします」

 その一言で、空気が少し変わった気がした。

 デスクに案内され、資料を渡されて、説明を受けた。全部分かる。全部、頭に入ってきた。

 五年のブランクが、嘘みたいだった。

 最初の三時間、凜は無我夢中で資料を読んだ。気がついたら御堂先生が「今日はここまでにしなさい」と言っていた。

 施設を出て、夜風に当たった瞬間、目から、涙が出た。

 泣くつもりはなかった。でも止まらなかった。嬉しいのか悔しいのか、五年分が一気に溢れてきたような感覚に、凜はしばらく夜空を見上げたまま、誰にも見られないところで、静かに泣いた。

 それからだった。毎日が変わり始めたのは。

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 「黒瀬さん」

 ドアが開いて、蓮が顔を出した。

 ミーティングルームの空気が、さりげなく変わった。明美がさっと姿勢を正したのが、凜の視界の端に映った。

 「今日は早く終わりそうですか」

 「あと一時間くらいかと」

 「そうですか」

 蓮はチームの進捗を確認して、二、三言葉を交わした。それだけだった。でも——帰り際に、凜だけに向けて言った。

 「必要なものがあれば、遠慮なく言ってください」

 低くて、静かな声だった。

 凜は頷いた。

 蓮が出て行った後、明美がちらりと凜を見た。何かを言いかけて、やめた。その目が何を言いたいのか、凜には何となく分かった。

 でも今は、それより考えることがある。

 凜はホワイトボードに向き直って、ペンを取った。

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 その夜、帰宅した凜を迎えたのは、珍しく早く帰っていた樹だった。

 「今日も遅かったな」

 キッチンに立つ凜の背後から、樹が声をかけた。

 「研究の打ち合わせがあって」

 「最近多いな、そういうの」

 樹の声の底に混じる「何か」を、凛の直感が捉えていた。でも振り返らなかった。

 「御堂先生と一緒に進めてるから」

 「……他には誰がいるんだ」

 凜は味噌汁をかき混ぜながら、静かに答えた。

 「色々と」

 それ以上は言わなかった。樹も、それ以上聞かなかった。

 でも凜には分かっていた。

 樹の目が、久しぶりに、凜をちゃんと見ていた。

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次話へ続く
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