夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第二話 突破口

 その日の朝、凜はいつも通り研究施設に着いた。

 ロッカーに荷物を入れて、デスクに向かおうとした時だった。

 廊下の向こうから、見慣れたメンバーたちが連れ立って歩いてくるのが見えた。田辺が資料を抱えている。明美がタブレットを見ながら何か話している。

 「……あれ」

 田辺が凜を見て、足を止めた。顔色が変わった。

 「黒瀬さん、今日のミーティング——」

 「ミーティング?」

 凜は首を傾げた。今日の予定には入っていなかった。カレンダーを確認しても、何もない。

 田辺がメンバーたちと顔を見合わせた。それから、明美に視線を向けた。

 「……梨田」

 低い声だった。

 明美が、タブレットから目を上げた。凜と目が合った瞬間、その顔がかすかに強張った。

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 話を聞けば、今朝の重要なミーティングは全員に連絡が届いていた。凜以外の全員に。
 差出人は『梨田 明美』

 「連絡リストから外れてたんです」

 田辺が静かに言った。「うっかり」にしては、あまりにもピンポイントだった。

 「それだけじゃなくて」

 別のメンバーが口を開いた。

 「先週から進めてた黒瀬さんの解析データ、共有フォルダから消えてます」

 ミーティングルームが、静かになった。

 凜は少し考えた。データが消え、ミーティングから外された。普通なら動揺する場面だ。でも凜の頭の中では、すでに別のことが動き始めていた。

 「データは……バックアップがあります。それより」

 凜はホワイトボードに向かった。

 「ミーティングの内容、教えてもらえますか。追いつきます」

 メンバーたちが顔を見合わせた。それから田辺が、ゆっくりと口を開いた。

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 一時間後、ホワイトボードはびっしりと数式とメモで埋め尽くされていた。

 バックアップから復元したデータと、ミーティングで議論されていた問題を組み合わせて、新しいアプローチを展開した。むしろデータを一から見直したことで、見落としていた可能性が浮かび上がってきた。

 「……精度、上がってます」

 田辺の声がかすれた。

 「めちゃくちゃ上がってます」

 ミーティングルームがどよめいた。凜はペンを置いた。

 「みなさんが積み上げてきたデータがあったからです。私一人じゃできなかった」

 凜はチーム全員を見渡して、静かに言った。本当にそう思っていた。

 その時だった。

 「なんで」

 小さな声がした。

 明美が、俯いたまま呟いていた。

 「なんでそんな……なんで普通にできるんですか」

 声が、震えていた。

 「データ消されても、ミーティング外されても、なんで普通に——」

 明美の目から、涙が落ちた。

 「わたし、ひどいことしました。分かってました。でも……社長がずっと黒瀬さんのことばかりで、黒瀬さんさえ来なければって、そればかり考えて——」

 田辺が立ち上がった。

 「梨田、それは——」

 「いいです」

 凜が静かに言った。

 全員の視線が、凜に注がれる。

 凜は明美の前に歩いて行って、しゃがんだ。泣いている明美と、目線を合わせた。

 「悔しかったんですね」

 明美が唇を噛んだ。

 「このチームの誰もが、それだけ本気だということです。その気持ちは間違っていない」

 「……でも、わたしのやったことは」

 「間違ってます」

 凜はきっぱりと言った。明美が顔を上げた。

 「でも、それはちゃんと謝れば済む話です」

 明美の目から、また涙が溢れた。

 「……ごめんなさい」

 嗚咽が、漏れた。

 「黒瀬さん、本当に、ごめんなさい」

 凜は何も言わなかった。ただ静かに、明美が泣き止むのを待った。

 チームのメンバーたちも、黙っていた。

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 その夜、蓮からメッセージが来た。

 [田辺さんから今日のことを聞きました。梨田さんとも話しました。HELIOSでああいうことはあってはいけない。ただ彼女はこのチームに必要な人間です。うまくやっていけそうですか。]

 凜はしばらく画面を見つめた。それから返信した。

 [大丈夫です。むしろ、いいチームだと思っています。]

 少し間があって、返信が来た。

 [よかった。黒瀬さんがそう言ってくれると安心します。]

 凜は画面を閉じた。

 夜の街が窓の外に広がっていた。

 今日一日、樹のことを考える時間が、ほとんどなかった。

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次話へ続く
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