夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第三話 揺れる
その日の午後、ミーティングルームに歓声が上がった。
「出た!!」
田辺が立ち上がった。画面を見たまま、声が震えている。
「精度92%……これ、業界初のレベルですよ」
チーム全員が画面に集まった。数字を見て、また歓声が上がる。凜はホワイトボードの前に立ったまま、静かにその数字を見つめていた。
やった。
胸の中で、小さくそう思った。
ドアが開いた。
「すごい声がしてましたけど——」
蓮が顔を出した瞬間、田辺が振り返った。
「社長!!92%出ました!!」
蓮は足早に画面へ近づいて数字を確認すると、その表情を一気に輝かせた。
さっきまでの顔じゃない。
まるで少年みたいな、無防備な笑顔だった。
凜はその顔を、思わず見つめてしまった。
——え。
次の瞬間、
「凜さん!!」
蓮は振り返りざまに凜の両手をがしっと掴むと、ぶんぶんと上下に振った。
「やりましたよ!!すごい!!本当にすごい!!」
「っ——」
あまりの勢いに、凛の思考は完全にフリーズしてしまった。
部屋が静まりかえる。
田辺が固まり、明美が目を丸くしている。他のメンバーも、誰一人声を出せていない。
蓮は数秒後、自分が何をしているか気づいたようだった。
凜の手を握ったまま、ピタリと動きを止めた。
それから——こほん、と一つ咳払いをしてから、手を離し、表情を引き締めた。
「……失礼しました」
低く、静かな声だった。さっきの少年みたいな顔は、もうどこにもない。いつもの顔。
でも——耳が、かすかに赤かった。
凜の両手には、まだその感触が残ったままでいた。うまく表情が作れなくて、ホワイトボードの方に視線を逃がす。
明美がこっそり田辺の袖を引っ張っている気配がした。
---
解散する頃には、すっかり夜も更けていた。
チームのメンバーが帰り支度を始める中、蓮が凜のデスクに近づいてきた。
「少し、いいですか」
廊下に出て二人きりになると、蓮は静かに言った。
「今日は本当にありがとうございました。あの数字が出たのは、凜さんのアプローチがあったからです」
さらりと、『凜さん』と呼んだ。
凜は少し目を瞬いた。
「……さっきから、凜さんと」
「あ」
蓮が少し困ったような顔をした。それから、凜の顔を覗き込むようにしながら上目遣いで言った。
「……いつの間にか、そっちの方がしっくりきてしまって。」
さっきまでの顔じゃない。少年みたいな顔だった。
「ご迷惑でなければ、下の名前で呼ばせていただいても構いませんか」
凜は視線を逸らした。
「……どちらでも」
「じゃあ、凜さんで」
あっさりと、蓮は言った。「もちろん私のことも名前で構いませんので」という言葉と共に。
凜はうまく返せなくて、廊下の窓の方を見た。夜の景色が広がっていた。
「じゃあ、……蓮さん、と呼んでもいいですか」
気がついたら、そう言っていた。
蓮が、少し目を見開いた。それからまた、あの少年みたいな顔になった。
「……はい」
嬉しそうに、そう言った。隠しきれていない。
凜は思わず視線を戻して——また逸らした。
この人は、ずるい。
そう思った。切れ者の顔をしているくせに、時々こういう顔をする。そのギャップに、凜の胸が妙に落ち着かなくなる。
「おやすみなさい、凜さん」
「……おやすみなさい」
エレベーターのドアが滑らかに閉まり、あたりに静寂が戻る。
凜は立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
ふいに両手の感触が蘇りそうになり、慌てて目を閉じる。そして、その記憶を心の奥へと仕舞い込んだ。
---
マンションに帰ると、リビングの灯りがついていた。
珍しく早い。そう思いながらドアを開けると、樹がソファに座って待っていた。スマートフォンも見ていない。ただ、凜を待っていたような顔で。
「遅かったな」
「研究が佳境で」
凜はコートを脱いだ。いつも通りの動作で、いつも通りの声で。
「凜」
樹が立ち上がった。
「少し、話がある」
テーブルを挟んで向かい合った。樹の顔は穏やかだった。でもその目に、いつもと違う何かがあった。
「御堂先生の頼みだから、研究の手伝いをすることは認めた。でも最近、外出が多すぎないか」
凜は黙っていた。
「研究の打ち合わせって言うけど、毎日じゃないか。専業主婦がそこまでやる必要があるのか」
『認めた』その言葉が、凜の胸にひっかかった。
まるで許可を与えているかのような言い方だった。
「先生の頼みを断れなくて、俺も大人の対応をしてやってるつもりだけど——凜、そろそろ本当に大事なことを考えないか」
「……大事なこと」
「子供のことだよ」
樹は静かに、でも真剣な目で言った。
「母さんからも連絡が来た。黒瀬家の世継ぎがって、またうるさく言われてる。俺もそろそろ本気で考えないといけないと思ってる」
凜は樹の顔を見つめた。
少し前まで、その言葉を聞くたびに胸が痛かった。子供が欲しかった。樹との子供が。でも今——
「……分かった」
凜は静かに答えた。
何も変わらない声で。何も変わらない顔で。
でも胸の中では、何かがはっきりと見えていた。
子供のことを持ち出したのは、愛情からじゃない?
凜を、家に縛り付けたいから?
研究の世界に戻らせたくないから?
五年前と、何も変わっていない。
凜はソファから立ち上がって、寝室へ向かった。ドアを閉めて、ベッドに腰を下ろす。
さっきまで胸の中で温かく灯っていたものが、まだそこにあった。
消えていなかった。
——消させない。
凜は静かに、そう思った。
---
次話へ続く
「出た!!」
田辺が立ち上がった。画面を見たまま、声が震えている。
「精度92%……これ、業界初のレベルですよ」
チーム全員が画面に集まった。数字を見て、また歓声が上がる。凜はホワイトボードの前に立ったまま、静かにその数字を見つめていた。
やった。
胸の中で、小さくそう思った。
ドアが開いた。
「すごい声がしてましたけど——」
蓮が顔を出した瞬間、田辺が振り返った。
「社長!!92%出ました!!」
蓮は足早に画面へ近づいて数字を確認すると、その表情を一気に輝かせた。
さっきまでの顔じゃない。
まるで少年みたいな、無防備な笑顔だった。
凜はその顔を、思わず見つめてしまった。
——え。
次の瞬間、
「凜さん!!」
蓮は振り返りざまに凜の両手をがしっと掴むと、ぶんぶんと上下に振った。
「やりましたよ!!すごい!!本当にすごい!!」
「っ——」
あまりの勢いに、凛の思考は完全にフリーズしてしまった。
部屋が静まりかえる。
田辺が固まり、明美が目を丸くしている。他のメンバーも、誰一人声を出せていない。
蓮は数秒後、自分が何をしているか気づいたようだった。
凜の手を握ったまま、ピタリと動きを止めた。
それから——こほん、と一つ咳払いをしてから、手を離し、表情を引き締めた。
「……失礼しました」
低く、静かな声だった。さっきの少年みたいな顔は、もうどこにもない。いつもの顔。
でも——耳が、かすかに赤かった。
凜の両手には、まだその感触が残ったままでいた。うまく表情が作れなくて、ホワイトボードの方に視線を逃がす。
明美がこっそり田辺の袖を引っ張っている気配がした。
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解散する頃には、すっかり夜も更けていた。
チームのメンバーが帰り支度を始める中、蓮が凜のデスクに近づいてきた。
「少し、いいですか」
廊下に出て二人きりになると、蓮は静かに言った。
「今日は本当にありがとうございました。あの数字が出たのは、凜さんのアプローチがあったからです」
さらりと、『凜さん』と呼んだ。
凜は少し目を瞬いた。
「……さっきから、凜さんと」
「あ」
蓮が少し困ったような顔をした。それから、凜の顔を覗き込むようにしながら上目遣いで言った。
「……いつの間にか、そっちの方がしっくりきてしまって。」
さっきまでの顔じゃない。少年みたいな顔だった。
「ご迷惑でなければ、下の名前で呼ばせていただいても構いませんか」
凜は視線を逸らした。
「……どちらでも」
「じゃあ、凜さんで」
あっさりと、蓮は言った。「もちろん私のことも名前で構いませんので」という言葉と共に。
凜はうまく返せなくて、廊下の窓の方を見た。夜の景色が広がっていた。
「じゃあ、……蓮さん、と呼んでもいいですか」
気がついたら、そう言っていた。
蓮が、少し目を見開いた。それからまた、あの少年みたいな顔になった。
「……はい」
嬉しそうに、そう言った。隠しきれていない。
凜は思わず視線を戻して——また逸らした。
この人は、ずるい。
そう思った。切れ者の顔をしているくせに、時々こういう顔をする。そのギャップに、凜の胸が妙に落ち着かなくなる。
「おやすみなさい、凜さん」
「……おやすみなさい」
エレベーターのドアが滑らかに閉まり、あたりに静寂が戻る。
凜は立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
ふいに両手の感触が蘇りそうになり、慌てて目を閉じる。そして、その記憶を心の奥へと仕舞い込んだ。
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マンションに帰ると、リビングの灯りがついていた。
珍しく早い。そう思いながらドアを開けると、樹がソファに座って待っていた。スマートフォンも見ていない。ただ、凜を待っていたような顔で。
「遅かったな」
「研究が佳境で」
凜はコートを脱いだ。いつも通りの動作で、いつも通りの声で。
「凜」
樹が立ち上がった。
「少し、話がある」
テーブルを挟んで向かい合った。樹の顔は穏やかだった。でもその目に、いつもと違う何かがあった。
「御堂先生の頼みだから、研究の手伝いをすることは認めた。でも最近、外出が多すぎないか」
凜は黙っていた。
「研究の打ち合わせって言うけど、毎日じゃないか。専業主婦がそこまでやる必要があるのか」
『認めた』その言葉が、凜の胸にひっかかった。
まるで許可を与えているかのような言い方だった。
「先生の頼みを断れなくて、俺も大人の対応をしてやってるつもりだけど——凜、そろそろ本当に大事なことを考えないか」
「……大事なこと」
「子供のことだよ」
樹は静かに、でも真剣な目で言った。
「母さんからも連絡が来た。黒瀬家の世継ぎがって、またうるさく言われてる。俺もそろそろ本気で考えないといけないと思ってる」
凜は樹の顔を見つめた。
少し前まで、その言葉を聞くたびに胸が痛かった。子供が欲しかった。樹との子供が。でも今——
「……分かった」
凜は静かに答えた。
何も変わらない声で。何も変わらない顔で。
でも胸の中では、何かがはっきりと見えていた。
子供のことを持ち出したのは、愛情からじゃない?
凜を、家に縛り付けたいから?
研究の世界に戻らせたくないから?
五年前と、何も変わっていない。
凜はソファから立ち上がって、寝室へ向かった。ドアを閉めて、ベッドに腰を下ろす。
さっきまで胸の中で温かく灯っていたものが、まだそこにあった。
消えていなかった。
——消させない。
凜は静かに、そう思った。
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次話へ続く