夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第四話 くすり
「PC、そろそろ新しいの買おうと思ってて」
ミーティングの後、凜が何気なく切り出した。
今使っているのは結婚前から使い続けている古いもので、最近は動作も重い。研究に本格的に戻るなら、そろそろ限界だろう。
「何がいいか分からなくて。スペックとか、あまり詳しくないので」
「じゃあ、一緒に選びましょうか」
蓮があっさりと言う。
「IT関係なら任せてください。凜さんの用途なら、このくらいのスペックが——」
気がつけば、蓮がすぐ隣に座っていた。
スマートフォンで候補のPCを検索しながら、凜の方に画面を向けてくる。距離が、近い。
「このモデルが処理速度も速くて、バッテリーも長持ちで。データ解析するならメモリはこのくらい必要で——」
画面を指差しながら説明する蓮の腕が、凜の肩のすぐそばにあった。
その時、凜はふと気がついた。
——あっ、またこの香り。
仄かな、清潔感のある香り。蓮がいる時にたまに感じるそれが、こんなに距離が近くなって、蓮自身から香っているのだとはっきり分かった。
「……凜さん、聞いてますか」
「聞いてます」
「顔が固いですよ」
「これが普通です」
蓮がくすっと笑う。
「このモデルにしましょう。後でセットアップも手伝います」
「……ありがとうございます」
「お礼はいいです。その代わり——」
蓮が少し顔を近づけた。
「また研究の話、聞かせてください」
凜は視線を逸らす。窓の外には、夜の街が広がっていた。
「……研究の話なら、いくらでも」
「楽しみにしています」
満足そうに頷いて、蓮はスマートフォンをしまった。
凜は気づかれないように、小さく息を吐く。
近すぎる。こんなふうに距離を詰められると、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。
---
新しいPCが届いたのは、三日後のことだった。
「開けてみてください」
蓮が嬉しそうに言う。まるで自分が買ってもらったかのような顔だ。
凜が箱を開けると、薄くて軽い本体が出てきた。画面も綺麗だ。
「電源入れてみましょう」
隣に座った蓮が、セットアップを手伝い始める。あれこれと設定を進めながら、ふと言った。
「壁紙、何にしますか」
「……なんでもいいです」
「なんでもいいって言う人ほど、実はこだわりがあるんですよ」
「そんなことないです」
「じゃあ花にしましょうか。凜さんのイメージで」
「花のどこが——」
言い終わる前に、蓮が画面を操作して壁紙を表示した。
白い蓮の花だった。
水面に静かに浮かんだ、清廉な花。
凜は少し目を瞬く。
「……蓮の花ですね」
「そうです」
蓮はさらりとそう言ったきり、それ以上は何も口にしない。でも、その横顔が少しだけ笑っていた。
凜は画面を見つめた。
泥水の中でも清廉に咲く花。
何かを言おうとして、やめた。
---
設定が終わる頃には、窓の外もすっかり暗くなっていた。
「最後にここだけ——」
蓮が画面に手を伸ばす。凜の真横に、するりと腕が伸びてきた。
また、あの香りがする。仄かで、清潔な、いつもの香り。
凜は思わず息を止めた。
「……凜さん?」
「っ、なんでもないです」
「顔が赤いですよ」
「暖房が効きすぎています」
蓮が少し口元を緩める。何も言わない。でもその目が、やっぱり少し笑っていた。
「……使いこなしてくださいね」
「はい」
「あと——」
蓮がふっと凜の方を向く。
「さっき」
「さっき?」
「壁紙を見た時、少し笑いましたよね」
凜は固まった。
「……気のせいです」
「笑いました。口元が動いてました」
「動いていません」
「動いてました」
蓮が少し身を乗り出してくる。さっきまでのCEOの顔じゃない。あの、少年みたいな目だ。
ホワイトムスクだろうか。仄かで清潔な香りが、さっきよりも近くから漂ってくる。
「……もう一回、見たいです」
凜は思わず蓮を見た。
真剣な顔をしている。冗談を言っている顔ではない。本当にそう思っている目だった。
だから余計に——
「……帰ります」
凜は新しいPCを鞄に入れて、立ち上がる。
「あ」
「ありがとうございました、蓮さん」
名前を呼んだ。まだ少し、慣れない。でも不思議と、嫌じゃなかった。
「おやすみなさい、凜さん」
背後から、蓮の声がする。どこか嬉しそうな響きだった。
凜は振り返らなかった。
エレベーターに乗り込んで、ドアが閉まった瞬間だった。
壁にもたれて、凜は小さく息を吐く。
口元が、かすかに緩んでいた。
——あの香り。
まだ、仄かに残っている気がした。
---
次話へ続く
ミーティングの後、凜が何気なく切り出した。
今使っているのは結婚前から使い続けている古いもので、最近は動作も重い。研究に本格的に戻るなら、そろそろ限界だろう。
「何がいいか分からなくて。スペックとか、あまり詳しくないので」
「じゃあ、一緒に選びましょうか」
蓮があっさりと言う。
「IT関係なら任せてください。凜さんの用途なら、このくらいのスペックが——」
気がつけば、蓮がすぐ隣に座っていた。
スマートフォンで候補のPCを検索しながら、凜の方に画面を向けてくる。距離が、近い。
「このモデルが処理速度も速くて、バッテリーも長持ちで。データ解析するならメモリはこのくらい必要で——」
画面を指差しながら説明する蓮の腕が、凜の肩のすぐそばにあった。
その時、凜はふと気がついた。
——あっ、またこの香り。
仄かな、清潔感のある香り。蓮がいる時にたまに感じるそれが、こんなに距離が近くなって、蓮自身から香っているのだとはっきり分かった。
「……凜さん、聞いてますか」
「聞いてます」
「顔が固いですよ」
「これが普通です」
蓮がくすっと笑う。
「このモデルにしましょう。後でセットアップも手伝います」
「……ありがとうございます」
「お礼はいいです。その代わり——」
蓮が少し顔を近づけた。
「また研究の話、聞かせてください」
凜は視線を逸らす。窓の外には、夜の街が広がっていた。
「……研究の話なら、いくらでも」
「楽しみにしています」
満足そうに頷いて、蓮はスマートフォンをしまった。
凜は気づかれないように、小さく息を吐く。
近すぎる。こんなふうに距離を詰められると、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。
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新しいPCが届いたのは、三日後のことだった。
「開けてみてください」
蓮が嬉しそうに言う。まるで自分が買ってもらったかのような顔だ。
凜が箱を開けると、薄くて軽い本体が出てきた。画面も綺麗だ。
「電源入れてみましょう」
隣に座った蓮が、セットアップを手伝い始める。あれこれと設定を進めながら、ふと言った。
「壁紙、何にしますか」
「……なんでもいいです」
「なんでもいいって言う人ほど、実はこだわりがあるんですよ」
「そんなことないです」
「じゃあ花にしましょうか。凜さんのイメージで」
「花のどこが——」
言い終わる前に、蓮が画面を操作して壁紙を表示した。
白い蓮の花だった。
水面に静かに浮かんだ、清廉な花。
凜は少し目を瞬く。
「……蓮の花ですね」
「そうです」
蓮はさらりとそう言ったきり、それ以上は何も口にしない。でも、その横顔が少しだけ笑っていた。
凜は画面を見つめた。
泥水の中でも清廉に咲く花。
何かを言おうとして、やめた。
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設定が終わる頃には、窓の外もすっかり暗くなっていた。
「最後にここだけ——」
蓮が画面に手を伸ばす。凜の真横に、するりと腕が伸びてきた。
また、あの香りがする。仄かで、清潔な、いつもの香り。
凜は思わず息を止めた。
「……凜さん?」
「っ、なんでもないです」
「顔が赤いですよ」
「暖房が効きすぎています」
蓮が少し口元を緩める。何も言わない。でもその目が、やっぱり少し笑っていた。
「……使いこなしてくださいね」
「はい」
「あと——」
蓮がふっと凜の方を向く。
「さっき」
「さっき?」
「壁紙を見た時、少し笑いましたよね」
凜は固まった。
「……気のせいです」
「笑いました。口元が動いてました」
「動いていません」
「動いてました」
蓮が少し身を乗り出してくる。さっきまでのCEOの顔じゃない。あの、少年みたいな目だ。
ホワイトムスクだろうか。仄かで清潔な香りが、さっきよりも近くから漂ってくる。
「……もう一回、見たいです」
凜は思わず蓮を見た。
真剣な顔をしている。冗談を言っている顔ではない。本当にそう思っている目だった。
だから余計に——
「……帰ります」
凜は新しいPCを鞄に入れて、立ち上がる。
「あ」
「ありがとうございました、蓮さん」
名前を呼んだ。まだ少し、慣れない。でも不思議と、嫌じゃなかった。
「おやすみなさい、凜さん」
背後から、蓮の声がする。どこか嬉しそうな響きだった。
凜は振り返らなかった。
エレベーターに乗り込んで、ドアが閉まった瞬間だった。
壁にもたれて、凜は小さく息を吐く。
口元が、かすかに緩んでいた。
——あの香り。
まだ、仄かに残っている気がした。
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次話へ続く