夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第五話 香り

 最近、凜が気になって仕方がない。

 黒瀬 樹は、帰宅するたびにそう思う。

 結婚して五年。専業主婦として家にいる凜は、いつも同じだった。穏やかで、静かで、樹の思い通りで。それが当たり前のはずだった。

 でも最近、違う。

 キッチンに立つ背中が、どこか凛としている。目に、光がある。以前より話し方がはっきりして、表情も豊かになった。御堂先生に頼まれた研究を手伝うようになってから、凜はまるで別人みたいに変わりつつあった。

 ——まずい。

 樹はそう思う。凜が研究の世界に戻れば、自分のコントロールから外れる。それだけじゃない。凜は賢い。いずれ、気づくかもしれない。あの頃のことを。

 それだけは、絶対に避けなければならなかった。

 早く帰ろう。休日は家にいよう。もう少し凜に目を向けよう。

 そう決めた矢先に、スマートフォンが振動する。

 るなからだった。

 [今日、会えない?]

 樹は画面を見て、小さく舌打ちをした。

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 断った。

 [今日は無理。仕事が立て込んでる]

 数分後、既読がついて返信が来る。

 [また?最近全然会ってくれない。前はこんなじゃなかったのに]

 樹は画面を閉じた。

 以前は可愛いと思っていたるなの甘え方が、最近はどうにも重い。会うたびに高級ディナーをねだり、プレゼントを要求し、「奥さんのことが好きなの?」と拗ねてみせる。

 最初から計算ずくで動いてきた樹にとって、感情的な女ほど面倒なものはなかった。

 スマートフォンをポケットにしまうと、樹は早足で帰路についた。

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 一方その頃、凜は研究施設の廊下を歩いていた。

 長い一日だった。朝から資料とにらめっこして、午後はミーティングで頭をフル回転させて。充実してはいたものの、さすがに疲れが滲み出てくる。

 階段を下りようとした時、足元が、ふっと揺れた気がした。

 ——あ。

 立ちくらみだ、と思った瞬間、視界が白くなる。手すりを掴もうとして、間に合わない。

 でも——落ちなかった。後ろから、誰かに支えられている。

 しっかりとした腕が、凜の体を抱えていた。スーツ越しでも分かる、意外なほど力強い腕と、厚い胸板。着痩せするタイプなのか、と凜はどこか遠い頭で思う。そして——よく知っているあの香りがした。

 「大丈夫ですか」

 耳元で、低い声がする。

 蓮だった。

 「……はい、すみません。立ちくらみで」

 「無理しすぎです」

 蓮の声は静かで、それでもどこか心配そうに揺れていた。凜がゆっくりと体を起こすと、蓮の腕が、少し名残惜しそうに離れていく。

 「少し休んでください。お茶を持ってきます」

 「……大丈夫です、本当に」

 「大丈夫じゃない人が言う言葉です、それ」

 蓮が凜の顔を覗き込む。心配と、少しの呆れと、それから——隠しきれない何かが、その目に滲んでいた。

---

 しばらく休んでから、凜は帰り支度を始めた。

 施設の出口まで、蓮が一緒に来る。外に出た瞬間、冷たい風が頬を刺した。

 凜は思わず、くしゅんとくしゃみをする。

 「……」

 蓮が少し眉を寄せた。それから、自分のマフラーをするりと外す。

 「これ、使ってください」

 「いいです」

 「風邪をひかれたら困りますから」

 「でも——」

 「研究、まだ途中ですよね」

 凜は言葉に詰まった。

 断れない。真っ当すぎる理由だ。

 蓮は凜の返事を待たずに、マフラーを凜の首に巻いていく。丁寧に、でも手際よく。その動作がどこか慣れていて、凜はなぜか少し目を逸らした。

 「……ありがとうございます」

 「気をつけて帰ってください、凜さん」

 蓮の声は静かだった。その目が、凜の顔をしばらく見つめている。

 凜は小さく頷いて、歩き出した。

---

 その様子を、道の向こうから見ている目があった。

 花咲るなだ。

 樹に断られたメッセージを何度も読み返しながら、るなはあてもなく街を歩いていた。

 [今日は無理。仕事が立て込んでる]

 また、同じ言葉。最近の樹は、何かにつけて断ってくる。以前はこんなじゃなかった。何が変わったのか——るなには分かっていた。あの女だ。黒瀬 凜。あの女がHELIOSに入り込んでから、樹がおかしくなった。

 苛立ちを持て余して外に出たはいいものの、行き先も決まらないまま足だけが動く。そうしてHELIOSのビルの前を通りかかった瞬間——見覚えのある後ろ姿が目に飛び込んできた。

 凜だった。そして——男が、凜の首にマフラーを巻いている。

 るなは足を止める。

 男の顔が見えた。

 朝比奈 蓮。HELIOSのCEO。

 るなは一瞬、その光景に見入った。男が女の首にマフラーを巻いてやっている。夕暮れの橙色の光の中で、二人の距離は——ひどく、近い。

 胸の中で、何かがぞわりと動いた。

 手が、動いていた。

 スマートフォンを取り出して、シャッターを切る。

 思考より先に、体が動いていた。

 画面を確認する。夕暮れの光の中、男が女の首元に手を伸ばしている横顔。顔はぎりぎり映っていないが、蓮のスーツと、凜のコートは分かる人には分かるだろう。

 るなの口元が、かすかに上がった。

 ——使える。

 まだ投稿はしない。タイミングを見極める。でも、この写真は——必ず使う。

 スマートフォンをポケットにしまうと、るなは何事もなかったように歩き出した。

 苛立ちは、いつの間にか消えていた。

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 帰り道、凜はマフラーに顔を埋めるようにして歩いていた。

 仄かな香りが、鼻先をかすめる。

 ホワイトムスクの、清潔で繊細な香り。蓮のいつもの香りが、マフラー全体にしみ込んでいた。歩くたびに、その香りにふわりと包まれる。

 ——だめだ……

 凜は思う。でも、外す気にはなれなかった。

 マンションの入口が見えた時、凜はマフラーをそっと外してカバンにしまう。それでも首筋には、まだほんの仄かに香りが残っていた。

 深呼吸をして、ドアを開ける。

---

 リビングの灯りがついていた。

 「おかえり」

 樹がソファから立ち上がる。珍しく、穏やかな顔で。

 「遅かったな。疲れただろう」

 「……少し」

 樹が後ろから凜の肩を引き寄せた。久しぶりの、唐突な抱擁だ。

 凜は少し固まる。

 そのまま首筋に顔を近づけて——

 止まった。

 「……凜」

 樹の声のトーンが、変わる。

 「この香り……何?」

 凜は動かない。

 「香水、つけてたか?」

 「……つけていません」

 「じゃあこれは何の香りだ」

 樹の腕が、かすかに強くなる。

 「研究室で、マフラーを借りただけです。寒かったので」

 嘘ではなかった。

 樹はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと凜を解放する。

 「……誰の」

 「同じプロジェクトのメンバーです」

 凜は振り返らなかった。コートをハンガーにかけながら、静かに思う。

 あなたが誰より、そういうことをよく知っているはずでしょう。

 口には出さない。ただ、いつも通りの顔で、キッチンへ向かった。

 背後で、樹のスマートフォンが振動した。

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次話に続く
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