夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第二話 名前のない痛み
診察室を出ると、廊下の白さが目に染みた。
黒瀬 凜は受付で次回の予約を入れながら、さっきの医師の言葉を頭の中で繰り返していた。
奥様には特に問題は見られません。排卵のタイミングも、ホルモンバランスも、年齢を考えれば十分良好です。あとは……ご主人の検査結果と合わせて考えていきましょう。
合わせて考えましょう。
凜は小さく息を吐いた。その「合わせて」が、ずっとできないでいる。
---
クリニックを出ると、十一月の風が頬を撫でた。
駅までの道を歩きながら、凜は三ヶ月前のことを思い出していた。
樹、一緒に検査行こう。私だけじゃなくて、二人で調べた方がいいって先生にも言われてる。
夕飯の後、ソファに並んで座りながら切り出した。樹はその時、テレビのリモコンをいじりながら「そうだな」と頷いた。そうだな。でも実際には、何も動かなかった。
一ヶ月後にまた言った。予約、一緒に取ろうか。土曜日なら——
ごめん、来月の学会の準備が佳境で。落ち着いたら必ず行くから。
落ち着いたら。その言葉が、何度繰り返されただろう。
学会が終われば論文の締め切りがあり、論文が終われば次のプロジェクトが始まる。研究者というのはそういう生き物だと、凜には分かっていた。かつて自分もそうだったから。だから責めることもできなくて、ただ「うん、わかった」と頷いてきた。
でも今日で、一人での通院は六回目になる。
凜は立ち止まって、信号が変わるのを待った。隣に小さな子どもを連れた母親が並んだ。子どもは赤いコートを着ていて、信号に向かって何か話しかけていた。母親がくすくす笑いながら応える。
凜は視線を信号に戻した。
---
家に帰ると、静かだった。
コートを脱いでキッチンに立ち、お茶を淹れる。温かいカップを両手で包んでいると、少しだけ落ち着いた。
樹のことを、疑いたくはなかった。
忙しいのは本当のことだ。樹の研究室は今、プロジェクトが重なっている。凜にはその大変さが分かるから、追い詰めるようなことは言いたくない。それに樹はいつだって、凜のことを気にかけてくれている。誕生日を忘れたことは一度もないし、凜が体調を崩せばすぐに心配する。
ただ——この一点だけが、動かない。
なぜだろう、と凜はカップを置いた。樹は子どもが欲しくないのだろうか。それとも本当にただ、忙しいだけなのか。聞けばいい。聞けばきっと、樹はちゃんと答えてくれる。
でも凜は、なぜかその質問を正面からぶつけることができないでいた。答えが怖いのか。それとも、答えを聞いて何かが変わってしまうのが怖いのか。
自分でも、よく分からなかった。
---
その夜、樹は比較的早く帰ってきた。九時過ぎ、珍しいことだった。
「今日、クリニック行ってきた」
夕飯を終えてお茶を飲んでいる時、凜は言った。なるべく何でもない口調で。
樹の手が、湯呑みの上で少し止まった。
「そうか。……どうだった」
「私は問題なかった。やっぱり樹にも一緒に来てほしくて」
樹は静かに頷いた。表情は穏やかで、責められているような顔は少しもしない。
「ごめんな、凜。ずっと待たせて」
低い声で、真剣な目で、そう言った。凜の胸がじわりと温かくなる。この人はいつもこうだ。ちゃんと向き合ってくれる。
「来月、絶対行く。約束する」
「……うん」
凜は小さく頷いた。信じたかった。信じていた、たぶん。
それから二人でテレビを見て、いつも通りの夜が過ぎた。樹が先に風呂に入り、凜が後から入った。上がってリビングに戻ると、樹はソファでスマートフォンを見ていた。
「先に寝てていいよ」と樹が言う。凜は頷いて、寝室へ向かった。
ドアに手をかけた時、背後でかすかに振動音がした。通知の音だった。
何気なく振り返ると、ソファの上の樹がスマートフォンの画面を見て——そのまま、さりげなく画面を伏せた。
ほんの一瞬のことだった。
凜には画面が見えたわけじゃない。ただ、その「伏せる」動作が、なぜか目に焼きついた。
「おやすみ」と凜は言った。
「おやすみ、凜」と樹は答えた。
寝室のドアを閉めて、ベッドに横になった。天井を見上げる。暗い部屋の中で、さっきの樹の動作が何度も頭を巡った。
気にしすぎだ。スマートフォンを伏せるなんて、誰だってする。研究室の連絡かもしれない。何でもないことだ。
でも——
眠れない夜だった。
どれくらいそうしていただろう。うとうとしかけた頃、リビングのドアが静かに閉まる音がした。樹が寝室に来る音。
凜は目を閉じたまま、寝たふりをした。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
---
次話へ続く
黒瀬 凜は受付で次回の予約を入れながら、さっきの医師の言葉を頭の中で繰り返していた。
奥様には特に問題は見られません。排卵のタイミングも、ホルモンバランスも、年齢を考えれば十分良好です。あとは……ご主人の検査結果と合わせて考えていきましょう。
合わせて考えましょう。
凜は小さく息を吐いた。その「合わせて」が、ずっとできないでいる。
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クリニックを出ると、十一月の風が頬を撫でた。
駅までの道を歩きながら、凜は三ヶ月前のことを思い出していた。
樹、一緒に検査行こう。私だけじゃなくて、二人で調べた方がいいって先生にも言われてる。
夕飯の後、ソファに並んで座りながら切り出した。樹はその時、テレビのリモコンをいじりながら「そうだな」と頷いた。そうだな。でも実際には、何も動かなかった。
一ヶ月後にまた言った。予約、一緒に取ろうか。土曜日なら——
ごめん、来月の学会の準備が佳境で。落ち着いたら必ず行くから。
落ち着いたら。その言葉が、何度繰り返されただろう。
学会が終われば論文の締め切りがあり、論文が終われば次のプロジェクトが始まる。研究者というのはそういう生き物だと、凜には分かっていた。かつて自分もそうだったから。だから責めることもできなくて、ただ「うん、わかった」と頷いてきた。
でも今日で、一人での通院は六回目になる。
凜は立ち止まって、信号が変わるのを待った。隣に小さな子どもを連れた母親が並んだ。子どもは赤いコートを着ていて、信号に向かって何か話しかけていた。母親がくすくす笑いながら応える。
凜は視線を信号に戻した。
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家に帰ると、静かだった。
コートを脱いでキッチンに立ち、お茶を淹れる。温かいカップを両手で包んでいると、少しだけ落ち着いた。
樹のことを、疑いたくはなかった。
忙しいのは本当のことだ。樹の研究室は今、プロジェクトが重なっている。凜にはその大変さが分かるから、追い詰めるようなことは言いたくない。それに樹はいつだって、凜のことを気にかけてくれている。誕生日を忘れたことは一度もないし、凜が体調を崩せばすぐに心配する。
ただ——この一点だけが、動かない。
なぜだろう、と凜はカップを置いた。樹は子どもが欲しくないのだろうか。それとも本当にただ、忙しいだけなのか。聞けばいい。聞けばきっと、樹はちゃんと答えてくれる。
でも凜は、なぜかその質問を正面からぶつけることができないでいた。答えが怖いのか。それとも、答えを聞いて何かが変わってしまうのが怖いのか。
自分でも、よく分からなかった。
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その夜、樹は比較的早く帰ってきた。九時過ぎ、珍しいことだった。
「今日、クリニック行ってきた」
夕飯を終えてお茶を飲んでいる時、凜は言った。なるべく何でもない口調で。
樹の手が、湯呑みの上で少し止まった。
「そうか。……どうだった」
「私は問題なかった。やっぱり樹にも一緒に来てほしくて」
樹は静かに頷いた。表情は穏やかで、責められているような顔は少しもしない。
「ごめんな、凜。ずっと待たせて」
低い声で、真剣な目で、そう言った。凜の胸がじわりと温かくなる。この人はいつもこうだ。ちゃんと向き合ってくれる。
「来月、絶対行く。約束する」
「……うん」
凜は小さく頷いた。信じたかった。信じていた、たぶん。
それから二人でテレビを見て、いつも通りの夜が過ぎた。樹が先に風呂に入り、凜が後から入った。上がってリビングに戻ると、樹はソファでスマートフォンを見ていた。
「先に寝てていいよ」と樹が言う。凜は頷いて、寝室へ向かった。
ドアに手をかけた時、背後でかすかに振動音がした。通知の音だった。
何気なく振り返ると、ソファの上の樹がスマートフォンの画面を見て——そのまま、さりげなく画面を伏せた。
ほんの一瞬のことだった。
凜には画面が見えたわけじゃない。ただ、その「伏せる」動作が、なぜか目に焼きついた。
「おやすみ」と凜は言った。
「おやすみ、凜」と樹は答えた。
寝室のドアを閉めて、ベッドに横になった。天井を見上げる。暗い部屋の中で、さっきの樹の動作が何度も頭を巡った。
気にしすぎだ。スマートフォンを伏せるなんて、誰だってする。研究室の連絡かもしれない。何でもないことだ。
でも——
眠れない夜だった。
どれくらいそうしていただろう。うとうとしかけた頃、リビングのドアが静かに閉まる音がした。樹が寝室に来る音。
凜は目を閉じたまま、寝たふりをした。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
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次話へ続く