夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第三話 完璧な笑顔
招待状には「スマートカジュアル」と書いてあった。
凜はクローゼットの前に立って、しばらく迷った。結婚前はこういった場に出ることも珍しくなかった。学会のレセプション、研究機関の交流会、スポンサー企業との懇親会——ヒールを履いて、名刺を持って、英語で挨拶して。あの頃は何も考えずにできていたことが、今は少し遠い記憶のように感じる。
結局、紺のワンピースを選んだ。シンプルだけど品がある。樹に見せると、「似合う」と笑った。
「久しぶりだね、こういうの」と凜が言うと、樹は「そうだな」と頷いた。
その「そうだな」が、なんとなく上の空に聞こえた。気のせいかもしれない。
---
会場は都内のホテルの宴会フロアだった。
欧州の大手バイオ系研究機関が日本支部を設立して三年、その記念レセプションだという。産学連携を掲げた華やかな場で、製薬会社の重役、大学の研究者、省庁の役人が入り混じっている。夫婦同伴が慣例の格式あるパーティーで、樹のような気鋭の研究者には当然招待状が届く。
エントランスを入ったところに、スポンサー企業のパネルが並んでいた。製薬大手、医療機器メーカー、商社——その中に、見覚えのある名前があった。
HELIOS
凜は思わず足を止めた。先日タイムラインで見たばかりの社名だ。医療データ解析プラットフォーム。若いCEO。御堂先生のシンポジウムに呼ばれていた、あの会社。
パネルには大きなロゴマークが印刷されていた。白い蓮の花のデザイン。近づいてよく見ると、花びらの中に細く小さなアルファベットが刻まれていた。
R.I.N。
——なぜ、R.I.N?
凜は首を傾げた。社名はHELIOSで、蓮の花のロゴ。花びらの中に刻まれたR.I.N。パネルの隅に小さく添え書きがあった。
*Resonate Innovation Nexus——革新を共鳴させる結節点。*
企業理念か、と凜は思った。でも何か、引っかかった。R.I.N。その三文字が、頭の片隅に残った。
「どうした?」と樹が振り返る。
「ううん、なんでもない」
凜は歩き出した。
---
凜は樹の隣に立ちながら、静かに場を見渡した。
知っている顔が、いくつかあった。かつて学会で見かけた研究者。論文で名前を知っている教授。五年前なら名刺交換して、研究の話で盛り上がれた人たち。今の自分には、何を話せばいいのだろう。
「飲み物、取ってくるよ」
樹がそう言って人混みの中に消えた。凜は一人、グラスも持たずにその場に立った。
周囲の会話が波のように流れていく。最新の論文の話、研究費の話、海外の学会の話。どれも分かる言葉なのに、どこか水の中から聞いているような感覚があった。
近くに立っていた研究者らしき二人組の会話が、ふと耳に入った。
「HELIOSが今回スポンサーに入ったの、結構驚いたよ。あそこ最近バイオインフォマティクス領域に本気で参入してきてるから」
「朝比奈がそっちに舵切ったんだろう。あの人、動きが読めないんだよな。でも結果は出すんだよね毎回」
凜はその会話を、特に意識することもなく聞き流した。朝比奈。HELIOSの。確かそういうCEOがいた。
——私はもう、この世界の人間じゃない。
そう思った瞬間、隣に気配がした。
---
「奥様、ですよね?」
振り返ると、若い女性が立っていた。
二十代後半だろうか。華やかな顔立ちで、淡いピンクのドレスがよく似合っている。ふんわりした雰囲気の中に、どこか計算されたような愛らしさがある。
「黒瀬先生の奥様だって、なんとなく分かりました。素敵な方だから」
にこりと笑う。屈託のない、完璧な笑顔だった。
「はじめまして。花咲 るなといいます。黒瀬先生の研究室でお世話になってます」
凜の中で、何かがかすかに揺れた。
花咲 るな。その名前を、凜は知っていた。スマートフォンのタイムラインで見た、共同論文の著者。それだけだ。それだけのはずだった。
「はじめまして。黒瀬 凜です」
凜は笑顔を作った。研究者だった頃に覚えた、感情を表に出さない微笑み。
「先生からよくお話聞いてます。料理がすごくお上手だって」
「そんなことないですよ」
「いえ、本当に!先生、奥様のお弁当を研究室で食べる時すごく嬉しそうで。みんなで羨ましいねって」
るなはよどみなく話す。自然で、明るくて、嫌みがない。完璧だった。
だからこそ、凜は目が離せなかった。
この子は、どこまで知っていてこの話をしているのだろう。
---
「凜」
樹の声がした。シャンパングラスを二つ持って戻ってきた樹は、るなを見た瞬間、ほんの一瞬——ほんの、一瞬だけ——表情が固まった。
凜はそれを、見逃さなかった。
「花咲さんと話してたの。ご挨拶していただいて」
「ああ……そうか」
樹はすぐに穏やかな顔に戻って、るなに向かって上司らしく微笑んだ。
「うちの妻が失礼しなかったか?」
「とんでもないです!素敵な奥様で、先生が自慢されるのも分かりました」
るなはまたあの完璧な笑顔で言った。樹は笑って、凜の肩にさりげなく手を置いた。
三人で、当たり障りのない会話をした。研究室の話、パーティーの話、今夜の料理の話。凜は相槌を打ちながら、樹の手の感触を背中で感じていた。
いつもと同じ温度だった。何も変わらない。
なのに——るなが笑うたびに、樹の視線がどこに向いているのか、凜は確かめることができなかった。
---
レストルームに立ったのは、パーティーが終わりに差し掛かった頃だった。
廊下に出ると、ざわめきが遠くなった。凜は少し息をついて、ゆっくりと歩いた。
曲がり角の手前で、声が聞こえた。
「氷室さん……黒瀬さんか、今は。すっかり変わったね」
男性の声だった。かつてどこかの学会で見かけた顔が浮かんだ。凜の名前を氷室で呼ぶくらいだから、研究者を辞める前から知っている人間だ。
「所帯じみたというか……もったいないよな、あれだけ優秀だったのに」
一瞬の間があった。
「もう、そんなこと言っちゃだめですよ」
るなの声だった。たしなめるような、柔らかいトーン。
でも——凜は角を曲がる直前に、足を止めた。
笑っていた。
るなの声が、ほんのかすかに、笑っていた。責めているのではなく、愉しんでいるような、そんな響きが混じっていた。一瞬のことで、聞き間違いかもしれない。
凜はそのまま、音を立てずに歩き続けた。
レストルームの鏡の前に立って、自分の顔を見た。紺のワンピース。きちんと整えた髪。研究者だった頃と変わらない、感情を表に出さない顔。
所帯じみた。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
否定する気にも、傷ついた顔をする気にも、なれなかった。ただそれが、どこかひっそりと刺さったまま、抜けなかった。
凜は口紅を直して、鏡から目を逸らした。
---
帰りのタクシーの中、樹は凜の手を握った。
「楽しめた?久しぶりでああいう場は疲れただろう」
「ううん、大丈夫。楽しかった」
「花咲さんと話してたんだな。明るい子だろう、研究室でも人気で」
凜は窓の外を見ながら「そうね」と答えた。
「気を遣わせて悪かった。来年からはこういう会、なるべく凜を巻き込まないようにするよ。疲れるだろうし」
優しい声だった。気遣いに満ちた言葉だった。
でも凜は、その言葉の意味をゆっくりと頭の中で転がした。
なるべく巻き込まないようにする。
それは優しさだろうか。
タクシーの窓に、夜の街が流れていった。樹の手は温かくて、いつも通りで、何も変わらない。
鏡の中の自分の顔が、頭の隅でまだちらついていた。
所帯じみた。
——そうかもしれない。でも。
凜は窓に映る自分の輪郭を、静かに見つめた。その先に何を言いたかったのか、自分でも分からないまま、タクシーは夜の中を走り続けた。
---
次話へ続く
凜はクローゼットの前に立って、しばらく迷った。結婚前はこういった場に出ることも珍しくなかった。学会のレセプション、研究機関の交流会、スポンサー企業との懇親会——ヒールを履いて、名刺を持って、英語で挨拶して。あの頃は何も考えずにできていたことが、今は少し遠い記憶のように感じる。
結局、紺のワンピースを選んだ。シンプルだけど品がある。樹に見せると、「似合う」と笑った。
「久しぶりだね、こういうの」と凜が言うと、樹は「そうだな」と頷いた。
その「そうだな」が、なんとなく上の空に聞こえた。気のせいかもしれない。
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会場は都内のホテルの宴会フロアだった。
欧州の大手バイオ系研究機関が日本支部を設立して三年、その記念レセプションだという。産学連携を掲げた華やかな場で、製薬会社の重役、大学の研究者、省庁の役人が入り混じっている。夫婦同伴が慣例の格式あるパーティーで、樹のような気鋭の研究者には当然招待状が届く。
エントランスを入ったところに、スポンサー企業のパネルが並んでいた。製薬大手、医療機器メーカー、商社——その中に、見覚えのある名前があった。
HELIOS
凜は思わず足を止めた。先日タイムラインで見たばかりの社名だ。医療データ解析プラットフォーム。若いCEO。御堂先生のシンポジウムに呼ばれていた、あの会社。
パネルには大きなロゴマークが印刷されていた。白い蓮の花のデザイン。近づいてよく見ると、花びらの中に細く小さなアルファベットが刻まれていた。
R.I.N。
——なぜ、R.I.N?
凜は首を傾げた。社名はHELIOSで、蓮の花のロゴ。花びらの中に刻まれたR.I.N。パネルの隅に小さく添え書きがあった。
*Resonate Innovation Nexus——革新を共鳴させる結節点。*
企業理念か、と凜は思った。でも何か、引っかかった。R.I.N。その三文字が、頭の片隅に残った。
「どうした?」と樹が振り返る。
「ううん、なんでもない」
凜は歩き出した。
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凜は樹の隣に立ちながら、静かに場を見渡した。
知っている顔が、いくつかあった。かつて学会で見かけた研究者。論文で名前を知っている教授。五年前なら名刺交換して、研究の話で盛り上がれた人たち。今の自分には、何を話せばいいのだろう。
「飲み物、取ってくるよ」
樹がそう言って人混みの中に消えた。凜は一人、グラスも持たずにその場に立った。
周囲の会話が波のように流れていく。最新の論文の話、研究費の話、海外の学会の話。どれも分かる言葉なのに、どこか水の中から聞いているような感覚があった。
近くに立っていた研究者らしき二人組の会話が、ふと耳に入った。
「HELIOSが今回スポンサーに入ったの、結構驚いたよ。あそこ最近バイオインフォマティクス領域に本気で参入してきてるから」
「朝比奈がそっちに舵切ったんだろう。あの人、動きが読めないんだよな。でも結果は出すんだよね毎回」
凜はその会話を、特に意識することもなく聞き流した。朝比奈。HELIOSの。確かそういうCEOがいた。
——私はもう、この世界の人間じゃない。
そう思った瞬間、隣に気配がした。
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「奥様、ですよね?」
振り返ると、若い女性が立っていた。
二十代後半だろうか。華やかな顔立ちで、淡いピンクのドレスがよく似合っている。ふんわりした雰囲気の中に、どこか計算されたような愛らしさがある。
「黒瀬先生の奥様だって、なんとなく分かりました。素敵な方だから」
にこりと笑う。屈託のない、完璧な笑顔だった。
「はじめまして。花咲 るなといいます。黒瀬先生の研究室でお世話になってます」
凜の中で、何かがかすかに揺れた。
花咲 るな。その名前を、凜は知っていた。スマートフォンのタイムラインで見た、共同論文の著者。それだけだ。それだけのはずだった。
「はじめまして。黒瀬 凜です」
凜は笑顔を作った。研究者だった頃に覚えた、感情を表に出さない微笑み。
「先生からよくお話聞いてます。料理がすごくお上手だって」
「そんなことないですよ」
「いえ、本当に!先生、奥様のお弁当を研究室で食べる時すごく嬉しそうで。みんなで羨ましいねって」
るなはよどみなく話す。自然で、明るくて、嫌みがない。完璧だった。
だからこそ、凜は目が離せなかった。
この子は、どこまで知っていてこの話をしているのだろう。
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「凜」
樹の声がした。シャンパングラスを二つ持って戻ってきた樹は、るなを見た瞬間、ほんの一瞬——ほんの、一瞬だけ——表情が固まった。
凜はそれを、見逃さなかった。
「花咲さんと話してたの。ご挨拶していただいて」
「ああ……そうか」
樹はすぐに穏やかな顔に戻って、るなに向かって上司らしく微笑んだ。
「うちの妻が失礼しなかったか?」
「とんでもないです!素敵な奥様で、先生が自慢されるのも分かりました」
るなはまたあの完璧な笑顔で言った。樹は笑って、凜の肩にさりげなく手を置いた。
三人で、当たり障りのない会話をした。研究室の話、パーティーの話、今夜の料理の話。凜は相槌を打ちながら、樹の手の感触を背中で感じていた。
いつもと同じ温度だった。何も変わらない。
なのに——るなが笑うたびに、樹の視線がどこに向いているのか、凜は確かめることができなかった。
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レストルームに立ったのは、パーティーが終わりに差し掛かった頃だった。
廊下に出ると、ざわめきが遠くなった。凜は少し息をついて、ゆっくりと歩いた。
曲がり角の手前で、声が聞こえた。
「氷室さん……黒瀬さんか、今は。すっかり変わったね」
男性の声だった。かつてどこかの学会で見かけた顔が浮かんだ。凜の名前を氷室で呼ぶくらいだから、研究者を辞める前から知っている人間だ。
「所帯じみたというか……もったいないよな、あれだけ優秀だったのに」
一瞬の間があった。
「もう、そんなこと言っちゃだめですよ」
るなの声だった。たしなめるような、柔らかいトーン。
でも——凜は角を曲がる直前に、足を止めた。
笑っていた。
るなの声が、ほんのかすかに、笑っていた。責めているのではなく、愉しんでいるような、そんな響きが混じっていた。一瞬のことで、聞き間違いかもしれない。
凜はそのまま、音を立てずに歩き続けた。
レストルームの鏡の前に立って、自分の顔を見た。紺のワンピース。きちんと整えた髪。研究者だった頃と変わらない、感情を表に出さない顔。
所帯じみた。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
否定する気にも、傷ついた顔をする気にも、なれなかった。ただそれが、どこかひっそりと刺さったまま、抜けなかった。
凜は口紅を直して、鏡から目を逸らした。
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帰りのタクシーの中、樹は凜の手を握った。
「楽しめた?久しぶりでああいう場は疲れただろう」
「ううん、大丈夫。楽しかった」
「花咲さんと話してたんだな。明るい子だろう、研究室でも人気で」
凜は窓の外を見ながら「そうね」と答えた。
「気を遣わせて悪かった。来年からはこういう会、なるべく凜を巻き込まないようにするよ。疲れるだろうし」
優しい声だった。気遣いに満ちた言葉だった。
でも凜は、その言葉の意味をゆっくりと頭の中で転がした。
なるべく巻き込まないようにする。
それは優しさだろうか。
タクシーの窓に、夜の街が流れていった。樹の手は温かくて、いつも通りで、何も変わらない。
鏡の中の自分の顔が、頭の隅でまだちらついていた。
所帯じみた。
——そうかもしれない。でも。
凜は窓に映る自分の輪郭を、静かに見つめた。その先に何を言いたかったのか、自分でも分からないまま、タクシーは夜の中を走り続けた。
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次話へ続く