夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第六話 縛鎖・前

 週末、樹はるなと会った。

 指定されたホテルのラウンジ。るなは樹が来るなり、テーブルに封筒を置いた。

 「妊娠した」

 樹の動きが止まる。

 「……確かなのか」

 「病院で確認した。間違いない」

 るなの目が、樹をまっすぐに見据えている。いつもの甘えた表情ではない。計算高い、本当のるなの目だった。

 「それだけじゃないよ」

 声が、低くなる。

 「生田くんとの共同研究のこと、覚えてる?あの成果を横取りしたこと。証拠、ちゃんと持ってるから」

 樹の顎が、かすかに動いた。

 「先生が私と別れるなら……どうなるか、分かるよね?」

 ラウンジの静かな空間に、るなの声だけが低く響く。

 樹は黙っていた。テーブルの上の封筒を見つめたまま、その中身を受け入れることも、拒絶することも、どちらもできずに、ただそこに座り続けていた。

---

 花咲 るなは、計算高い女だった。

 自分でもそれを知っている。利用できるものは利用する。使えるものは使い尽くす。それがるなの生き方だった。

 妊娠を告げた夜のことを、るなはまだ鮮明に覚えている。樹は黙って聞いていた。驚きもしない。喜びもしない。「分かった」とだけ言い残して、ラウンジを出て行った。

 それ以来、樹の態度はさらに冷たくなった。会う回数が減り、連絡の返信は短く素っ気なく、向かい合っても樹の目はどこか別のところを見ている。妊娠を告げれば何かが変わると思っていた。でも現実は、逆だった。

 ——あの女のせいだ。

 るなの中で、その確信は日に日に強くなっていた。黒瀬 凜。五年もブランクがあったくせに、のこのこHELIOSに入り込んでから、樹が変わった。いや——樹だけじゃない。

 HELIOSのCEO、朝比奈 蓮。あの男が凜を見る目が、どうにも気に入らない。

 研究者コミュニティの勉強会で、るなは一度だけ蓮と席が近くなったことがある。

 朝比奈 蓮。業界でも話題の若きCEO。頭が切れて、仕事ができて、しかもあれだけ整った顔をしている。るなが意識しないはずもなかった。

 少し声をかけてみた。笑顔も向けてみた。いつもなら男はすぐ振り向く。でも——蓮はちがった。礼儀正しく返答こそするものの、目はどこか別のところを見ている。るなに興味がない。それどころか、存在をほとんど認識すらしていないような目だった。

 あの時の屈辱が、るなの中にずっと刺さったままでいる。

 自分を見向きもしなかった男が——よりにもよってあの女に、マフラーを巻いてやっている。

 先日、樹に断られてイライラしながら街を歩いていた時に撮った、あの一枚。HELIOSのビルの前で、蓮が凜の首にマフラーを巻いてやっていた、あの場面。

 その写真が、今るなの手の中にある。

 夕暮れの橙色の光の中、男が女の首にマフラーを巻いてやっている横顔。顔はぎりぎり映っていないが、蓮のスーツと凜のコートは、分かる人には分かる。雰囲気は十分すぎるほどに残っていた。

---

 投稿したのは、三日後のことだった。

 即日ではない。るなはじっくりと考え、タイミングを選び、文章を練った。

 研究者コミュニティに顔の広いアカウントから、匿名で写真を放った。

 [HELIOSの朝比奈CEOと、とある既婚女性研究者の関係が話題になっています。写真あり。]

 キャプションと共に、例の写真を載せる。

 顔は映っていない。それでも、HELIOSのビルの特徴的な外観と、蓮の体型・スーツ姿は、業界関係者なら分かる人には分かるだろう。

 拡散は、思ったより速かった。

 一時間で百件を超え、三時間後には拡散の数が千を超えていた。

 [朝比奈CEOの相手って誰?]

 [既婚女性って……HELIOSの研究者?]

 [あのプロジェクトに既婚の外部協力者が入ってるって聞いたけど……]

 波紋は、じわじわと広がっていく。

 るなはそれを、ベッドの上から静かに眺めていた。

---

 凜がそれを知ったのは、翌朝のことだった。

 研究施設に近づいた時、いつもと違う空気を感じ取った。見慣れない人影が、ちらほらと周辺に立っている。カメラを抱えた人間もいる。報道関係者だろうか。凜は俯き加減で足を速めた。

 研究室に着いて、いつも通りパソコンを開く。メールを確認しようとした矢先——田辺がミーティングルームに呼んだ。

 「黒瀬さん、SNSは見ましたか」

 田辺の声が、いつもより低い。

 「……見ていませんが」

 田辺がタブレットを凜に向けた。

 画面に目を落とした凜は、一秒で状況を把握する。

 夕暮れの光の中。男が女の首にマフラーを巻いてやっている横顔。二人の距離が、ひどく近い。

 自分と、蓮だ。

 「……これは」

 「昨夜から拡散しています。業界内でもかなり広がっていて」

 凜は画面を見つめた。

 顔は映っていない。でも——蓮のスーツ。あの日の自分のコート。ビルの出入口の前で、マフラーを巻いてもらった、あの夕暮れ。

 全部、本当のことだった。けれど意味が、まるで違う形に切り取られている。

 「……蓮さんは」

 「社長はもう把握されています。広報と対応を協議中です」

 凜は目を閉じた。

 胸の中で、何かが静かに沈んでいく。

 ——迷惑をかけてしまった。

 研究者として、HELIOSに呼んでもらった。プロジェクトを信頼してもらった。なのに——自分がここにいるせいで、蓮の会社に余計な騒動を持ち込んでしまった。

 「私のせいです」

 凜の声は、静かだった。

 「そんなことは——」

 「私がここにいることで、蓮さんに余計な話が広がった。それは事実です」

 田辺は、何も言えなかった。

---

 その日、蓮からメッセージが来た。

 [今回の件、凜さんのせいではありません。HELIOSとして正式に対応します。凜さんは研究に集中してください。それから——私の軽率な行動で凜さんにご迷惑をおかけしました。あの場でマフラーを巻いたのは私の判断です。本当に申し訳ありません。]

 凜はしばらく、画面を見つめた。

 返信を打ちかけては、消す。また打ちかけては、また消す。

 [ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。]

 結局、それだけを送った。

 既読がつく。しばらくして、返信が来た。

 [迷惑だと思っていません。ただ——凜さんが傷ついていないか、それだけが心配です。]

 凜は画面を閉じた。

 窓の外には、曇り空が広がっている。

 心配してくれている。それが分かるからこそ——余計に、胸が痛かった。

---

 マンションに帰ると、樹がいた。

 リビングの電気がついている。ソファに座ってスマートフォンを見ていた樹は、凜が入ってきても顔を上げなかった。

 「おかえり」

 「……ただいま」

 コートを脱いで、バッグを置く。いつも通りの動作で、キッチンへ向かおうとした。

 「見たぞ」

 樹の声が、低い。

 凜の足が、止まった。

 「あの写真」

 樹がスマートフォンをテーブルに置いた。画面には、例の投稿が映っている。

 「どういうことだ」

 「……あれは誤解です。寒かったので、マフラーを巻いていただいただけで——」

 「マフラーを」

 樹が立ち上がった。

 「HELIOSのCEOに、マフラーを巻かせたのか」

 「寒かったので、たまたま——」

 「たまたま」

 樹の声は、静かだった。静かなのに、圧がある。

 「業界中で騒がれてるぞ。俺の妻が、朝比奈 蓮と親密だって。俺の立場はどうなる」

 凜は答えなかった。

 あなたの立場。あなたの立場のために、るなさんとのことは?生田さんの研究のことは?

 口には出さない。ただ、まっすぐに樹を見据えた。

 「不倫はしていません」

 「そう言える立場か」

 「していません」

 「証明できるか」

 「……」

 「できないだろう。写真があるんだから」

 樹がゆっくりと近づいてくる。

 「凜」

 低い声だった。

 「お前、分かってるか。この騒ぎを収める一番簡単な方法が何か」

 凜は動かない。

 「俺たちの間に子供ができれば——夫婦関係は正常だったと証明できる。不倫騒動もデマだったことになる。それだけのことだ」

 凜は、樹の目を見た。

 愛情は、どこにもない。

 あるのは、計算だけだった。

 「……嫌です」

 凜の声は、静かだった。

 「嫌、じゃない」

 「嫌です」

 「凜——」

 「離してください」

 気づけば、樹の手が凜の腕を掴んでいた。

 凜は振り払おうとする。でも——樹の力は、凜が思っていたより、ずっと強かった。

---

次話へ続く
< 21 / 29 >

この作品をシェア

pagetop