夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第七話 縛鎖・後

 夜が、長かった。

 凜は天井を見つめたまま、動けずにいた。

 こんな夜は、初めてだった。

 樹しか、知らなかった。

 奔放な方ではないと、自分でも分かっている。だから、樹が初めてだった。付き合いだした頃、まだ学生で、不器用で、それでも樹は優しかった。凜の手を取る時、いつも少し緊張したような顔をする人だった。あの頃の樹が、好きだった。

 父が倒れた時も、樹は傍にいてくれた。病院の廊下で、何も言わずに隣に座っていてくれる人だった。父が逝った夜、声を上げて泣く凜の背中を、ただずっと撫でていてくれた。あの手の温かさが、好きだった。

 プロポーズの日のことも、覚えている。

 「結婚しよう。凜には家にいてほしい。俺の隣で、ずっと」

 その言葉を聞いた時、凜は頷いた。迷いなど、なかった。

 なのに——今夜のこれは、何だったのだろう。

 愛情も、思いやりも、どこにもない。凜という人間が、そこにいなかった。ただ、目的のための道具。長く疎遠になっていた体に、その事実だけが余計に深く刻まれていく。

 呆然としていた。

 最初は、何も感じない。ただ天井を見ているだけだった。

 でもじわじわと、沁み込んでくるものがある。

 病院の廊下で隣に座っていた樹の顔。プロポーズの日に手を握っていた樹の顔。記憶の中の表情が、次々と浮かんでくる。

 あの人は、どこに行ってしまったのだろう。

 それとも——最初から、いなかったのだろうか。

 目の端が、熱くなる。

 泣くつもりなどなかった。でも止まらない。声も出ないまま、ただ静かな涙が、こめかみを伝って流れていく。

 自分だけだったのか。

 ずっと、自分だけが愛していたのか。

 ——いや、本当に愛していたのか。

 父を亡くし、母はもうずっと前にいなくて、親戚との縁も薄くて、気づけばこの世界でたった一人になっていた。あの孤独に、耐えられなかっただけではないのか。「俺の隣で、ずっと」という言葉に、ただ縋りたかっただけではないのか。

 愛していたのか、それとも——孤独が、怖かっただけなのか。

 自分でさえ、もう分からない。

 答えは、どこにもなかった。ただ今夜初めて、体の奥底まで何かを思い知らされた気がした。

 凜は目を閉じる。

 涙は、止まらなかった。

---

 いつの間にか、樹はリビングに戻っていた。シャワーの音がして、それが止んで、しばらくするとテレビの音が漏れてくる。いつも通りの夜のように、すべてが静かに流れていた。

 凜は動かない。

 ただ、天井の一点を見つめていた。

 ——消させない。

 以前、自分でそう思ったことがある。胸の中に灯った何かを、消させない、と。

 でも今夜は——その灯が、どこにあるのかさえ分からない。

 暗かった。胸の中が、ただ静かに暗かった。

 どのくらい時間が経ったのだろう。窓の外が白み始めた頃、凜はようやく体を起こした。

 鏡は、見なかった。

 着替えだけして、バッグを持つ。

 研究室には、行けない。

 今日だけは、行けない。

 スマートフォンを手に取り、田辺に一言だけ打った。

 <体調不良のため、今日はお休みします。申し訳ありません。>

 送信して、画面を閉じる。

 蓮からの昨夜のメッセージは、まだ未読のままだった。

 <迷惑だと思っていません。ただ——凜さんが傷ついていないか、それだけが心配です。>

 凜はその文字を見つめた。

 返信は、できなかった。

 何を書けばいいのか、分からない。今の自分の状態を言葉にする方法が、どうしても見つからなかった。

 スマートフォンをバッグにしまって、凜はベッドに横たわる。

 カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。

 目を閉じる。

 眠れない。でも、目を開けていることもできなかった。

 ただ、じっとしていた。

---

 HELIOSの研究室に、凜は来なかった。

 田辺が朝一番に蓮へ報告する。

 「黒瀬さんから連絡が入りました。体調不良とのことで、今日はお休みです」

 蓮の動きが、一瞬止まった。

 「……体調不良」

 「はい」

 「昨日は普通でしたか」

 「昨日は……はい、研究室にいました。ただ」

 田辺が少し言いよどんだ。

 「SNSの件で、かなり気にされていたようで。自分のせいだと」

 蓮は何も言わない。

 ただ、手元のペンを静かに置いた。

 「連絡は取れますか」

 「既読がつかないようで」

 蓮の表情が、かすかに変わる。

 いつもの顔ではなかった。何かを堪えているような、それでいてそれを表に出すことを自らに許していない——そういう顔だった。

 「……分かりました」

 蓮は静かに言った。

 「今日の分の研究は、田辺さんが仕切ってもらえますか。凜さんには無理をさせないように」

 「はい」

 田辺が下がった後、蓮は窓の外へ目をやった。

 曇り空が広がっている。

 スマートフォンを手に取り、凜へのメッセージを開いた。昨夜送ったメッセージは、まだ既読になっていない。

 蓮はしばらく画面を見つめる。

 送ろうとして——やめた。

 今は、そっとしておく方がいい。

 でも——

 <無理しないでください。それだけです。>

 短く打って、送信する。

 画面を閉じて、蓮は椅子に深く背を預けた。

 天井を見上げる。

 既読がつかないことの意味を、考えないようにしていた。でも——考えずにはいられない。SNSの件だけではない。もっと別の何かが、凜に起きている気がした。

 ただ、今は動けなかった。

 胸の中で静かに、それでいて確実に、何かが燃えている。

 その時、ドアをノックする音がした。

 「社長、少しよろしいですか」

 入ってきたのは、白河 凪(しらかわ なぎ)だった。HELIOSの専任秘書。長い睫毛に、すっと通った鼻筋。涼しい顔立ちは、見る者によって印象が違う。蓮の「本命候補」などと噂される理由も、まあ分からなくはない——が、本人はそういった話を意に介した様子もなく、いつも通りの静かな顔で蓮の前に立つと、開口一番に言い放った。

 「謝罪に行こうとしてますよね」

 蓮は少し間を置いた。

 「……黒瀬さんの件で、黒瀬 樹に対して——」

 「バカなんですか」

 凪が、静かに言う。にこにこしながら。

 「は」

 「デマですよ。HELIOSが公式に動く前に社長個人が謝罪に行ったら、それこそ火に油です。相手方に付け入る隙を与えるだけですし、黒瀬さんの立場をさらに悪くする」

 「……」

 「広報はもう動いています。法務も確認済みです。社長がやることは、今は何もありません。むしろ動かない方がいい」

 凪がひと息ついて、続けた。

 「それより——黒瀬さんに、今日何かあったんですか」

 蓮は答えなかった。

 凪が少し目を細める。それ以上は聞かなかった。ただ、静かに言った。

 「……今は待つのが、一番黒瀬さんのためになります」

 凪が出て行った後、蓮は再び窓の外へ目を向けた。

 曇り空は、変わらない。

---

 凜のスマートフォンが、静かに振動した。

 蓮からだった。

 *無理しないでください。それだけです。*

 凜はその文字を、暗い部屋の中で見つめた。

 カーテンは閉めたまま。時間の感覚が、曖昧になっている。

 無理しないでください。

 その言葉が、じわりと胸に沁みた。

 こんな時に。こんな状態で。それでも、この人からの言葉だけが届く。

 凜はスマートフォンを胸に当てた。

 天井を見上げる。

 消させない、と思っていた灯が——まだ、かすかに残っていた。

 消えてなどいなかった。

 どんなに暗くても、どんなに冷たくても——この小さな灯だけは、消えていない。

 凜は目を閉じた。

 今日だけは、休もう。

 でも——明日は、立ち上がる。

 必ず。

---

第四章 了
< 22 / 29 >

この作品をシェア

pagetop