夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第五章 因果応報

第一話 開く

 立ち上がると、決めた夜だった。

 でも朝になると、体が動かない。

 あれから、何日が経っただろう。

 凜は窓の外を見たまま、ぼんやりと思う。カーテンを開ける気力もなかった日と、なんとか開けられた日が、交互に続いていた。

 研究室には連絡を入れた。しばらく休む、と。田辺から「分かりました」と返信が来て、蓮からは「無理しないでください」とだけ来た。それ以上、誰も何も言わない。

 樹は変わらなかった。

 朝になれば出かけ、夜になれば帰ってくる。あの夜のことなど最初からなかったかのように、淡々と日常を続けていた。凜の存在を、まるで家の備品でも見るような目で見ている。

 凜はそれを、遠いところから眺めていた。

 怒る気力も、泣く気力も、もうない。ただ、ぼんやりと、時間だけが過ぎていく。

 ある夜のことだった。

 樹の声が、寝室まで届いてきた。

 リビングで電話をしている。声を潜めているつもりなのだろうが、静かな部屋の中では筒抜けだった。

 「だから今は動けないって言ってるだろ」

 低い声。苛立ちを抑えた、でも抑えきれていない声だった。

 「——したって言っても、俺には関係ない。お前が勝手にそうなったんだろ」

 凜は動かない。

 「凜? 凜は関係ない。あいつはあいつで、俺がちゃんと——」

 声が、少し大きくなる。

 「うるさい。お前の話と、凜のこととで、俺には両方片付けないといけないんだ。文句言うな」

 電話が切れた。

 リビングが、静かになる。

 凜は天井を見上げた。

 あいつはあいつで、俺がちゃんと——。

 その続きは聞こえなかった。でも、意味は分かる。

 自分は今も、樹の計算の中にいる。愛情ではなく、計算の中に。

 怒り、という感情が、胸の底でじわりと動いた。悲しみとは違う、もっと冷たい、静かな何かだ。

 でも——それだけでは、まだ足りなかった。

 体が、動かない。

---

 翌朝、凜はソファでスマートフォンを見ていた。

 特に何かを調べたいわけでもなく、ただ画面を流していた。そのままSNSに流れてきた動画に、凜の指が止まる。

 HELIOSの緊急記者会見だった。

 数日前に行われたものらしい。ライブではなく、アーカイブだ。

 画面の中に、蓮がいた。

 いつものスーツ。いつもの静かな表情。でも——その目が、真剣だった。

 [今回の件について、HELIOSとして正式に申し上げます。拡散されている写真は、研究プロジェクトの終了後に外部協力者の帰宅を気にかけた、それだけのものです。不倫関係などという事実は一切ありません。]

 記者の声が飛んだ。

 [外部協力者の方との関係については?]

 蓮が、まっすぐに前を向く。

 [優秀な研究者です。それ以上でも、それ以下でもありません。彼女の研究者としての誠実さと実力は、このプロジェクトで十二分に証明されました。今回の件で彼女の名誉が傷つけられたことを、HELIOSとして遺憾に思っています。]

 凜は、画面を見つめた。

 [彼女の研究者としての誠実さと実力は、証明されました。]

 その言葉が、胸の中に静かに落ちてくる。

 この人は——ずっと、そう言ってくれていた。

 画面の中の蓮は続けていた。記者の挑発にも動じず、淡々と、でも一言一言を丁寧に選びながら話している。自分のせいで起きた騒ぎなのに。自分のせいで、この人がここに立たされているのに。

 凜はスマートフォンを置いた。

 胸の中で、何かが動く。

 冷たかった怒りが、少しだけ形を変えた気がした。

 ——このままではいられない。

 はっきりとした言葉ではなかった。でも確かに、そこにある。

 凜は立ち上がった。

 寝室のクローゼットの奥に、あの小さなポーチがある。

---

 夜、凜はパソコンの前に座っていた。

 樹は今夜も遅い。先日のあの電話の怒鳴り声が、まだ頭の片隅に残っている。何かが崩れかけているのだろう、と凜は静かに思う。それ以上は考えなかった。

 SDカードのパスワード入力画面が、また表示されている。

 何度目だろう。数えるのをやめてから、また数え始めていた。

 研究関連の用語、学会の略称、数式の一部——思いつく限りのものを試してきた。全部、弾かれる。樹の誕生日も、自分たちの記念日も、全部違った。

 凜はペンを置いて、目を閉じた。

 樹が使いそうなパスワード。まだ試していないもの。

 その時だった。

 ふと、ある記憶が浮かんでくる。

---

 結婚して二年目の秋だった。

 義母の幸子が電話越しにこう言っていた。

 『あの子、昔から数字を覚えるのが苦手でね。九九も随分苦労して。でも私の誕生日だけはちゃんと覚えてるのよ。母親の誕生日くらい覚えなさいって言い続けたから。えらいでしょう?』

 えらいでしょう、と幸子は言った。嫁の凜に向かって。

 あの時は苦笑いするしかなかった。でも今——

 凜は目を開けた。

 まさか。

 ダメ元だ。でも試してみる価値はある。

 幸子の誕生日。確か、十一月——

 凜は入力した。

 画面が、切り替わった。

---

 フォルダが、開いた。

 凜は息をのんだ。

 ファイルが並んでいる。研究データ、解析結果、論文の草稿——そして一つ、「共同研究記録」というフォルダが目に入った。

 クリックする。

 画面を見た瞬間、凜の手が止まった。

 自分の名前があった。

 氷室凜、解析担当——という文字の隣に、日付が並んでいる。結婚する一年前から、結婚した直後まで。凜が研究を辞める直前まで。

 その後のページには、同じデータが「黒瀬樹・解析」として書き直されていた。

 さらに読み進めると、耕平とるなの共同研究のデータが出てきた。それも同じように、樹の名前に書き換えられている。

 凜はしばらく、画面を見つめていた。

 怒りは、なかった。

 悲しみも、もうない。

 ただ、全部が繋がった。

 あの時。研究のこと。全部うまくいってる——深夜に電話で笑っていた樹の声が、頭の中で静かに再生される。

 凜はファイルを一つずつ、丁寧に確認していった。研究者として鍛えられた目が、データの改ざんの痕跡を次々と拾い上げる。

 ただ——改ざんの跡を追いながら、凜は気づいた。

 数値が、合わない。

 自分の解析手法を使っているはずなのに、結果が歪んでいる。補正のかけ方が違う。パラメータの選択が、根本から間違っていた。

 自分ならこうは使わない。自分ならここをこう変える——その判断が、樹にはできなかったのだ。

 研究を奪っても、本当の意味では使いこなせなかった。だから数字を合わせるために、改ざんするしかなかった。

 それが、この歪んだデータの正体だった。

 全部、ある。

 証拠が、全部ここにある。

 凜はSDカードをそっと抜いて、手のひらに乗せた。小さくて、軽い。でもこの中に、五年分の真実が詰まっていた。

 スマートフォンを取り出す。御堂先生に連絡しようとして——画面に通知が来ていることに気がついた。

 御堂先生からだった。

 <凜くん、今回の件、心配しているよ。無理していないか。少し話がある。明日、時間があるか>

 凜はしばらく画面を見つめた。

 <はい。何時でも大丈夫です>

 送信して、窓の外を見る。夜の街が広がっていた。

---

 同じ頃、研究者コミュニティのSNSでは、小さな波紋が広がり始めていた。

 [黒瀬・花咲論文の解析手法、再現を試みたんだけど結果が出ない。データの前処理に問題があるんじゃないか]

 ある若手研究者の呟きだった。最初はほとんど注目されない。でも翌日、別の研究者がそれに反応した。

 [自分も同じ結果になった。解析アルゴリズムの設計自体がおかしい気がする]

 さらに翌日、また別の声が上がった。

 [サンプルデータを見直してみたけど、これ元データと結果が合わない部分がある]

 波紋は、じわじわと広がっていく。

---

 一方、生田 耕平は自室のデスクで資料を広げていた。

 るなが妊娠したという話が、研究室内でこっそり囁かれ始めていた。耕平はそれを聞いた時、拳を握りしめる。

 許せなかった。

 自分の研究を奪われた。るなを奪われた。それだけでも十分すぎるくらい許せない。なのに、あの二人はまだのうのうとしている。

 でも——耕平には、証拠があった。

 SDカードを凜に渡した時から、耕平は別の手も打っていた。論文のデータと元の研究記録を照合した資料、研究室内でのやり取りのログ、樹が耕平の名前を論文から外した経緯の記録。全部、丁寧に保存してある。

 耕平はスマートフォンを手に取った。

 凜に連絡するタイミングは、今だと思う。

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次話へ続く
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