夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第二話 集結

 翌朝、凜は御堂先生に指定された場所へ向かった。

 前回と同じ、都内の一流ホテルのラウンジ。個室に通されると、先生がすでに座っている。いつもの穏やかな顔で、でも目に鋭いものがあった。

 「よく来たね」

 先生は静かに、でも労うように言った。それからすぐに、少し声を和らげる。

 「……大丈夫かい。顔色が心配だよ」

 凜は小さく頷いた。大丈夫、という言葉が出てこない。それでも先生は何も聞かずに、ただ静かに凜が座るのを待っていた。

 凜は向かいに座った。バッグからノートパソコンを取り出して、テーブルの上に置く。

 「先生、昨夜SDカードのパスワードが解けました」

 先生の目が、かすかに動いた。

 「……中身を見たか」

 「はい」

 凜はパソコンを開き、SDカードを差し込んで、フォルダを表示した。身を乗り出した先生が、画面を見る。

 しばらく、沈黙が続いた。

 一つ一つのファイルを丁寧に確認していった先生は、全部を見終わった時、静かに背もたれに体を預けた。

 「……そうか」

 低い声だった。

 「先生、やはり」

 「ああ」

 先生は少し目を閉じた。その顔に、微かな翳りがある。

 「黒瀬くんも……私の教え子だ。残念でならない」

 その一言に、複雑な感情が滲んでいた。凜には、何も言えなかった。

 少し間を置いてから、先生は続けた。

 「あの学生の頃から、優秀な男だった。頭の回転も速い。でも——」

 静かに目を伏せる。

 「結果を急ぎすぎる癖があった。プロセスより成果、過程より評価。研究者としては危うい資質だと、あの頃から思っていた。ゼミで何度か注意したが……まあ、学生の頃はそういうものかと思っていたよ」

 その目に、後悔に似た何かが滲む。

 「まさかこういう形で出るとは、思わなかった。私の見る目がなかったということだ」

 ひと呼吸おいてから、先生はゆっくりと口を開いた。

 「実はな、シンポジウムで黒瀬くんの発表を見た時から、おかしいと思っていた。あの解析手法、どこかで見たことがあると思ったら——きみの手法だった」

 凜は黙っていた。

 「確信はなかった。だから帰国してきみに連絡したんだ。きみの口から聞きたかった」

 「……先生は、最初から気づいていたんですか」

 「気づいていた、とは言えない。でも——」

 先生が、凜をまっすぐに見る。

 「きみが辞めた時から、ずっと引っかかっていた。あれほどの才能が、なぜ突然消えたのかと」

 凜の胸が、じくりと痛んだ。

 「先生、申し訳——」

 「謝らなくていい」

 静かに遮る声だった。

 「きみは何も悪くない。悪いのは別にいる」

 その言葉が、五年分の何かをゆっくりと溶かしていくようだった。

---

 「これで動けますか」

 凜が聞くと、先生は頷いた。

 「動ける。ただ——」

 「ただ?」

 「証拠としてはまだ足りない。改ざんの痕跡はある。でも第三者が見て明確に『捏造だ』と断言できるレベルには、もう一押し必要だ」

 凜は少し考えた。

 先生が、静かに続けた。

 「……凜くん」

 「はい」

 「これを動かせば、黒瀬くんへの影響は大きい。きみも分かっているね」

 凜は黙って、頷いた。

 「それでも、か」

 「……はい」

 先生はしばらく凜を見ていた。それから、静かに言った。

 「大丈夫かい」

 それだけだった。それ以上は、何も言わなかった。

 凜は小さく頷いた。大丈夫かどうか、正直まだ分からない。でも——やめる気はなかった。

 その時、スマートフォンが振動した。

 見慣れない番号だった。でも直感で、凜は電話に出る。

 「……はい」

 「あの、黒瀬さんですか。生田です。生田 耕平」

 凜は先生と目を合わせた。

 「……はい、生田さん」

 「SDカードの件、その後どうなりましたか。実は僕の方でも、別の証拠を集めていて」

 凜の手が、かすかに動いた。

 「それと——あの、一個聞いていいですか」

 「はい」

 「SNSのあの写真の件なんですけど」

 耕平の声が、少し真剣になった。

 「タイミングがおかしくないですか。黒瀬さんがHELIOSで成果を出し始めたちょうどその頃に、あんな写真が出てきて。しかも匿名で、でも業界内に広まるような絶妙な拡散の仕方で。あれ、誰かが意図的に仕掛けたんじゃないかと思って」

 凜は少し黙った。

 「黒瀬さんを研究から引き離したい人間が、近くにいるんじゃないですか」

 電話口の向こうで、耕平がためらいがちに続けた。

 「僕、るなさんのことよく知ってるので……あの人なら、やりかねないと思って」

 凜は先生を見た。先生も静かに頷く。

 「今、御堂先生と一緒にいます。よかったら、直接会って話せますか」

 電話口で、短い沈黙があった。

 「……御堂先生と」

 耕平の声が、少し震えた。

 「はい、来られますか」

 「……すぐ行きます」

---

 三十分後、耕平はホテルのラウンジに現れた。

 いつものダウンジャケット。誠実そうな目。でも今日は、その目に強い光がある。

 先生を見た瞬間、耕平は深く頭を下げた。

 「生田 耕平です。お会いできて光栄です」

 「よく来たね、生田くん」

 先生が静かに言った。

 耕平はバッグから資料を取り出す。丁寧にファイリングされた、分厚い束だった。

 「論文のデータと元の研究記録を照合したものです。それから研究室内でのやり取りのログ、先生が僕の名前を論文から外した経緯の記録——全部、ここにあります」

 先生が資料を手に取った。ページをめくる手が、止まる。

 「……よく、これだけ集めた」

 「時間はかかりました。でも——」

 耕平が顔を上げた。

 「黒瀬さんが最初にSDを受け取ってくれた時、一人じゃないと思えたので」

 凜は耕平を見た。

 不器用で誠実、真っ直ぐで、粘り強い。

 「生田さん」

 凜は静かに言った。

 「ありがとうございます。一緒に、終わらせましょう」

 耕平が、小さく頷いた。

---

 先生がSDのデータと耕平の資料を並べて確認する。

 「これで足りる」

 短く、でも確信のある言葉だった。

 「大学の研究倫理委員会に申し立てができる。外部からの捏造疑惑の声もSNSで広がり始めている。タイミングとしては——今だ」

 「先生」

 「なんだ」

 「私も、一緒に動いていいですか」

 先生が、凜を見た。

 「きみが動かなくて、誰が動く」

 その言葉が、静かに胸に落ちた。

 テーブルの上に、三人分の資料が並んでいた。

 嵐が、来る。

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次話へ続く
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