夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第三話 打ち明ける

 蓮に連絡したのは、御堂先生と耕平と別れた夜のことだった。

 スマートフォンを手に取って、何度か文面を打ち直す。

 <先日は大変なご迷惑をおかけしました。少しだけお時間をいただくことはできますか。お伝えしたいことがあります。>

 送信してから、しばらく画面を見つめた。

 返信は、思ったより早かった。

 <ご迷惑だなんてとんでもないです。凜さんこそ、辛い思いをされていないか心配していました。時間はいくらでもあります。ただ——今の状況では外で会うのが難しいかもしれません。もし良ければ、HELIOSにいらっしゃいませんか。夜遅くなっても構いません。>

 凜は画面を見つめた。

 心配していた、という言葉が、じわりと胸に沁みる。

 <ありがとうございます。では、今夜伺っても良いですか。>

 <待っています。>

 それだけだった。それだけで、十分だった。

---

 夜のHELIOSは静かだった。

 受付を通ると、見知った顔が待っていた。

 「お待ちしておりました、黒瀬様」

 HELIOSの研究室に蓮が顔を出す時、いつも連れてくる秘書だった。静かで丁寧な物腰の、若い男性だ。

 「ご案内いたします」

 エレベーターへ先導される。最上階の蓮の執務室だ。広い部屋に、間接照明だけが灯っている。窓の外に夜の街が広がっていた。

 案内してくれた秘書は、凜が入室すると静かに扉の外へ退いた。

 蓮はドアのところまで来て、凜を迎えた。

 「来てくださって、ありがとうございます」

 「いえ……こちらこそ、夜遅くにすみません」

 「どうぞ」

 ソファに案内される。蓮は向かいに座った。テーブルの上に、温かいお茶が用意されていた。

 「温かいものを、と思って」

 「……ありがとうございます」

 凜は両手でカップを持つ。その温かさが、指先から静かに広がっていった。

---

 「今夜お伝えしたいことが、あります」

 凜は静かに切り出した。

 「……はい」

 「まず——先日のご迷惑について。SNSの件も、記者会見まで対応していただいたことも、本当に申し訳ありませんでした」

 蓮が少し口を開きかけた。凜はそれより先に続ける。

 「それから、感謝をお伝えしたくて」

 「感謝、ですか」

 「はい」

 蓮の目をまっすぐに見た。

 「研究に戻る機会をくださったこと。あの施設のにおいを、またかげたこと。チームの皆さんと一緒に、あの数字を出せたこと。全部——私にとって、本当に大切なことでした」

 蓮は何も言わない。ただ、静かに聞いている。

 「だから」

 凜は息を整えた。

 「私は研究を離れます。HELIOSを去ることで、今回の騒動に区切りをつけます。そして——」

 少し、間があった。

 「妻として、最後の仕事をします。主人の研究不正を、業界に正式に報告します。証拠は揃っています。それが、私にできる業界への責任の取り方だと思っています」

 言い切った。

 部屋が静かになった。

 蓮は少し目を伏せた。それから、ゆっくりと顔を上げる。

 「一つだけ、聞いてもいいですか」

 「……はい」

 「凜さんは——自分が悪いと思っていますか」

 凜は少し戸惑った。

 「それは……HELIOSにご迷惑を——」

 「それは私のせいです」

 静かだったが、はっきりした声だった。

 「マフラーを巻いたのは私の判断でした。外で、人目のあるところで。軽率でした。凜さんは何も悪くない」

 「でも——」

 「凜さん」

 蓮が少し前に身を乗り出した。

 「ご主人の不正は、黒瀬 樹さんご本人が責任を取るべきことです。凜さんが妻として責任を取る必要はない」

 「……でも、私は五年間、何も気づかなかった。共に生活していたのに——」

 「気づかせなかったんです、あの人が」

 静かな、でも揺るぎない言葉だった。

 凜は視線を落とした。

 「それに」

 蓮が続ける。

 「もし凜さんが業界への責任を感じているなら——研究から離れることが償いにはならないと思います」

 凜は顔を上げた。

 「凜さんの研究は、本物です。それは誰にも奪えない。奪われた五年間を取り戻すように、研究者として業界に貢献することの方が——よほど、本当の意味での贖罪になるんじゃないでしょうか」

 凜は、蓮を見つめた。

 頭の中で、何かがゆっくりと動く。

 自分が去ることが責任だと思っていた。でも——

 「……そんなふうに、考えたことが、なかった」

 声が、かすかに震えた。

 「凜さんの研究は、世界を変えるはずだった。それを奪われた。だから——取り戻してください。研究者として、堂々と」

 目が、熱くなった。

 泣くつもりはなかった。でも——止まらない。

 「……すみません」

 凜は目を逸らした。指先でそっと目頭を押さえる。こんな場所で、こんな人の前で。

 「謝らなくていいです」

 蓮の声が、少し低くなった。

 そっと、蓮がポケットから何かを取り出して、凜に差し出した。

 白いハンカチだった。

 凜は目を見開いた。

 「……八年前の学会で、凜さんに頂いたものです。発表の後に、汗をぬぐうようにって。やっと返せます」

 凜は、ハンカチを見つめた。

 白くて、清潔な、刺繍のないシンプルなハンカチ。

 八年前の学会——発表の後——汗を——

 凜の頭の中で、何かが静かに動き始めた。

 機材トラブルで会場がざわめいた、あの学会。スタッフが慌てる中、一人だけ冷静にケーブルを確認して直してくれた学生がいた。発表が終わった後、その人の額に汗が光っていて、凜はとっさにハンカチを差し出した。

 あの時の、学生さんが——

 「……もしかして」

 凜は顔を上げた。

 蓮が、静かに微笑んでいた。

 「はい」

 それだけだった。それだけで、全部が繋がった。

 八年間、持っていてくれた。

 あの日からずっと。

 凜の目から、また涙が溢れた。さっきより、もっと止まらない。

 「……ありがとうございます」

 声が、うまく出なかった。

 蓮は何も言わなかった。ただそこにいた。それだけで、十分だった。

---

 しばらくして、凜は息を整えた。

 「……それでも、HELIOSにはご迷惑をおかけしたことに変わりはないので」

 「いいです」

 「いいです、では——」

 「じゃあ」

 蓮が少し身を乗り出した。あの、子犬みたいな目だった。

 「キッチンカーのクレープ、奢ってください。近くに来るやつが美味しくて。一人で行くのもなんだなと思ってたので」

 凜は一瞬、言葉に詰まった。

 大企業のCEOが、キッチンカーのクレープを。

 「……分かりました」

 「本当ですか」

 蓮の表情が、ぱあっと華やいだ。

 凜は、その表情に一瞬言葉を失った。

 「帰ります」

 凜は立ち上がった。バッグからマフラーを取り出す。

 「あの、これ……お返しします」

 蓮は、受け取らなかった。

 「また寒くなったら使ってください」

 「……」

 「凜さんが風邪をひく方が、私は困ります」

 凜はしばらく蓮を見た。それから、マフラーをバッグにしまう。

 「……お言葉に甘えます」

 「ぜひ」

 蓮が微かに笑った。

---

 帰りはタクシーを呼んだ。

 エントランスに出ると、外の空気が冷たかった。

 秘書は少し離れたところに控えたまま、タクシーが来るまでの短い間、凜と蓮は並んで立っていた。

 「今夜、話してくれてありがとうございます」

 蓮が静かに言った。

 「こちらこそ、聞いていただいて」

 「また——研究室で会いましょう」

 凜は少し目を見開いた。

 「……はい」

 タクシーが来た。乗り込む前に、凜は振り返った。

 「蓮さん」

 「はい」

 「……研究者として、頑張ります」

 蓮が、静かに頷いた。その目が、温かかった。

 凜はタクシーに乗り込んだ。窓の外で、蓮が軽く頭を下げる。

 走り出した車の中で、凜は目を閉じた。

 胸の中で、何かが静かに、確かに、灯っていた。

---

 自宅に着いて、鍵を開けた。

 玄関を入ると、廊下の先にリビングの灯りが見えた。

 樹がいた。

 腕を組んで、凜を待っている。

 「どこ行ってた」

 低い声だった。

 「……打ち合わせが——」

 「こんな時間まで?」

 樹が一歩、近づいた。

 「アイツのところか」

 「……」

 「朝比奈のところに行ってたんだろ」

 樹の手が、凜の腕を掴んだ。強く。

 「不倫騒動の最中に、わざわざ会いに行くか普通。どういうつもりだ」

 「違います。研究の——」

 「研究」

 樹が低く笑う。冷たい笑いだった。

 「研究、な。都合のいい言葉だ」

 廊下に、二人きりだった。樹の目が、あの夜と同じ目になっていた。

 凜の体が、かすかに強張る。

 「離して——」

 「離さない」

 樹の手が、さらに強くなった。凜の背中が壁に当たる。

 ——また。

 また、あの夜のように。

 凜は唇を噛んだ。逃げようとした。でも——

 その時だった。

 樹のスマートフォンが、振動した。

 一度。

 また、振動した。

 続けて、また。

 ピコン、ピコン、ピコン——止まらない。

 樹の動きが、止まった。

 スマートフォンの画面が、ポケットの中から光っている。通知が、ひっきりなしに来ていた。

 樹が舌打ちをして、凜の腕を離した。スマートフォンを取り出す。

 画面を見た瞬間、樹の表情が変わった。

 凜は壁から離れた。樹はもう凜を見ていない。画面に釘付けになっている。

 凜はその隙に、寝室のドアを開けた。中に滑り込んで、鍵をかける。

 静かな部屋の中で、凜は息をついた。

 ドアの外から、樹の低い声が聞こえた。電話をかけている。でも、もう凜には関係なかった。

 凜はスマートフォンを取り出した。

 SNSを開くと——通知が溢れていた。

 研究者コミュニティの呟きが、次々と流れてくる。

 [黒瀬・花咲論文、再現できない]

 [解析データに疑義あり]

 [これ、元データと結果が合ってないんじゃないか]

 そしてもう一つ。全く別のアカウントからの投稿が、次々とシェアされていた。

 花咲 るなのアカウントだった。

 意味深な言葉と、白い病院の天井の写真。コメント欄には「おめでとう」という言葉が並んでいた。

 凜は画面を閉じた。

 静かに、深呼吸をした。

 ——始まった。

 そう、思った。

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次話へ続く
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