夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第四話 崩壊連鎖
朝、大学に向かう途中で、樹のスマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
「黒瀬 樹先生でしょうか。大学の研究倫理委員会の者ですが、少しお時間よろしいでしょうか」
樹の手が、止まる。
「……はい」
声だけは平静を保った。でも額に、じわりと汗が滲んでいた。
---
その日の夕方、大学の研究室に樹がるなを呼び出した。
廊下に人気がなくなった時間、ドアを閉めた樹はるなに向き直る。
「SNSに何を投稿してるんだ」
「関係ない」
「関係ない? 捏造疑惑が広がってる今、あんな投稿をして、何を考えてる」
「だって本当のことでしょ」
るなの目が、冷たかった。
「研究倫理委員会が動いてるって聞いた。私、どうなるの」
「落ち着け。まだ何も決まってない」
「落ち着けって言われても——」
るなの声が、かすかに震えた。でもそれは怯えではない。計算だった。
「そもそも先生が言ったんでしょ。三年前、私に目をかけてくれた時。奥さんの解析アルゴリズムと、生田くんとのゲノムデータ解析を組み合わせれば絶対うまくいくって」
樹の表情が、わずかに動いた。
「研究室のリーダーポジだって、先生に協力すれば推薦してくれるって言ったから、生田くんを切り離したし、改ざんだって手伝った」
「るな——」
「奥さんのことだって——私のが可愛いし好きって言ってたよね。あいつはつまらない女だって。今回の共同研究が認められたら、私と一緒になるって」
るなの声に、本物の苛立ちが滲む。
「一年かけて準備して、国際シンポジウムで発表したのに——データの数値が合わない。奥さんのアルゴリズムを使えば完璧になるって言ってたのに、結局なんで再現できないの。どうしてくれるの」
樹は黙っていた。
「数値が合わなかったのはな——」
樹が、珍しく言い訳めいた声を出した。
「あの解析アルゴリズムはそもそも、その時その時でパラメータの設定が変わるんだ。どう補正をかければいいか、法則が掴めない。うまくいく時もある。でも同じようにやっても、全然違う結果になることがある」
「つまり先生が使いこなせてなかったってこと」
「違う! あの解析手法が特殊すぎるんだ。凜が長年かけて体で覚えたデータの前処理の感覚を、俺がすぐ再現できるわけがないだろ」
「じゃあ最初からそう言ってよ」
「うまくいく時もあるって言ってたから信じたんでしょ。思った通りにいかない時だけ改ざんすればいいって、先生が言ったんじゃない」
「……」
「私、どれだけのものを賭けてきたか分かってる? 生田くんとの関係も、研究者としての信用も、全部」
樹が口を開きかけた。でも言葉が出てこない。
るなはさらに畳みかけようとした——その時、研究室のドアが開いた。
生田 耕平が入ってきた。
るなの顔が、固まった。
「生田くん……なんで」
耕平は真っ直ぐに二人の前まで歩いてくる。椅子を引いて、静かに座った。その目は穏やかだった。でも芯に、強い光がある。
「聞こえてました」
低い声だった。
「言い訳は、聞きません」
るなが口を開きかけた。耕平が静かに続ける。
「○月○日の夜、るなさんは自らデータを書き換えていました」
耕平はバッグから資料を取り出す。
「研究室のシステムへのアクセスログです。るなさんのIDで、深夜にデータが書き換えられた記録が残っています」
「そんなの——」
「それから」
耕平はもう一つ資料を出した。
「黒瀬先生とるなさんの間で交わされたメッセージの記録です。データの改ざん方法を二人で相談しているやり取りが残っています」
樹の顔が、白くなった。
「どこで——」
「僕のデータを横取りされた時から、ずっと集めてきました」
耕平の声は感情的ではない。怒鳴るわけでも、責めるわけでもなく、ただ事実を並べていた。でもその目に、静かな怒りがある。
「るなさん」
耕平がるなを見た。
「僕と一緒に研究していた時のこと、覚えてますか」
るなが、かすかに顔を歪めた。
「……覚えてる」
「あの時の研究、楽しかったです。本当に」
耕平の声が、わずかに揺れた。
「だから——こういう形で終わらせたくなかった」
沈黙が落ちる。
るなの目から、涙が一筋流れた。本物の涙なのか、計算なのか、もう分からない。
しばらくして、樹が口を開いた。
「……生田」
低い声だった。
「金か? いくら欲しい」
耕平は動かなかった。
「地位か? ポストなら話をつけられる。お前の研究を表に出す方法だって——」
「要りません」
耕平の声は、静かだった。静かすぎるくらい、静かだった。
「僕が欲しいものは、嘘を重ねて手に入れられるものじゃない」
樹が何か言いかけた。耕平は続ける。
「それに——」
バッグを肩に掛けた。
「証拠は、すでに提出済みです。昨日、大学の研究倫理委員会に」
樹の顔が、蒼白になった。
「……何?」
「今日ここに来たのは、確認のためです。先生が本当にそういう人間なのか」
耕平が、樹をまっすぐに見た。
「確認できました」
そして静かに、でも一言一言を刻むように言った。
「心底、見損ないました」
耕平は振り返らずに、研究室を出て行った。
机の上に、証拠の資料が広がったままだった。
---
次話へ続く
知らない番号だった。
「黒瀬 樹先生でしょうか。大学の研究倫理委員会の者ですが、少しお時間よろしいでしょうか」
樹の手が、止まる。
「……はい」
声だけは平静を保った。でも額に、じわりと汗が滲んでいた。
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その日の夕方、大学の研究室に樹がるなを呼び出した。
廊下に人気がなくなった時間、ドアを閉めた樹はるなに向き直る。
「SNSに何を投稿してるんだ」
「関係ない」
「関係ない? 捏造疑惑が広がってる今、あんな投稿をして、何を考えてる」
「だって本当のことでしょ」
るなの目が、冷たかった。
「研究倫理委員会が動いてるって聞いた。私、どうなるの」
「落ち着け。まだ何も決まってない」
「落ち着けって言われても——」
るなの声が、かすかに震えた。でもそれは怯えではない。計算だった。
「そもそも先生が言ったんでしょ。三年前、私に目をかけてくれた時。奥さんの解析アルゴリズムと、生田くんとのゲノムデータ解析を組み合わせれば絶対うまくいくって」
樹の表情が、わずかに動いた。
「研究室のリーダーポジだって、先生に協力すれば推薦してくれるって言ったから、生田くんを切り離したし、改ざんだって手伝った」
「るな——」
「奥さんのことだって——私のが可愛いし好きって言ってたよね。あいつはつまらない女だって。今回の共同研究が認められたら、私と一緒になるって」
るなの声に、本物の苛立ちが滲む。
「一年かけて準備して、国際シンポジウムで発表したのに——データの数値が合わない。奥さんのアルゴリズムを使えば完璧になるって言ってたのに、結局なんで再現できないの。どうしてくれるの」
樹は黙っていた。
「数値が合わなかったのはな——」
樹が、珍しく言い訳めいた声を出した。
「あの解析アルゴリズムはそもそも、その時その時でパラメータの設定が変わるんだ。どう補正をかければいいか、法則が掴めない。うまくいく時もある。でも同じようにやっても、全然違う結果になることがある」
「つまり先生が使いこなせてなかったってこと」
「違う! あの解析手法が特殊すぎるんだ。凜が長年かけて体で覚えたデータの前処理の感覚を、俺がすぐ再現できるわけがないだろ」
「じゃあ最初からそう言ってよ」
「うまくいく時もあるって言ってたから信じたんでしょ。思った通りにいかない時だけ改ざんすればいいって、先生が言ったんじゃない」
「……」
「私、どれだけのものを賭けてきたか分かってる? 生田くんとの関係も、研究者としての信用も、全部」
樹が口を開きかけた。でも言葉が出てこない。
るなはさらに畳みかけようとした——その時、研究室のドアが開いた。
生田 耕平が入ってきた。
るなの顔が、固まった。
「生田くん……なんで」
耕平は真っ直ぐに二人の前まで歩いてくる。椅子を引いて、静かに座った。その目は穏やかだった。でも芯に、強い光がある。
「聞こえてました」
低い声だった。
「言い訳は、聞きません」
るなが口を開きかけた。耕平が静かに続ける。
「○月○日の夜、るなさんは自らデータを書き換えていました」
耕平はバッグから資料を取り出す。
「研究室のシステムへのアクセスログです。るなさんのIDで、深夜にデータが書き換えられた記録が残っています」
「そんなの——」
「それから」
耕平はもう一つ資料を出した。
「黒瀬先生とるなさんの間で交わされたメッセージの記録です。データの改ざん方法を二人で相談しているやり取りが残っています」
樹の顔が、白くなった。
「どこで——」
「僕のデータを横取りされた時から、ずっと集めてきました」
耕平の声は感情的ではない。怒鳴るわけでも、責めるわけでもなく、ただ事実を並べていた。でもその目に、静かな怒りがある。
「るなさん」
耕平がるなを見た。
「僕と一緒に研究していた時のこと、覚えてますか」
るなが、かすかに顔を歪めた。
「……覚えてる」
「あの時の研究、楽しかったです。本当に」
耕平の声が、わずかに揺れた。
「だから——こういう形で終わらせたくなかった」
沈黙が落ちる。
るなの目から、涙が一筋流れた。本物の涙なのか、計算なのか、もう分からない。
しばらくして、樹が口を開いた。
「……生田」
低い声だった。
「金か? いくら欲しい」
耕平は動かなかった。
「地位か? ポストなら話をつけられる。お前の研究を表に出す方法だって——」
「要りません」
耕平の声は、静かだった。静かすぎるくらい、静かだった。
「僕が欲しいものは、嘘を重ねて手に入れられるものじゃない」
樹が何か言いかけた。耕平は続ける。
「それに——」
バッグを肩に掛けた。
「証拠は、すでに提出済みです。昨日、大学の研究倫理委員会に」
樹の顔が、蒼白になった。
「……何?」
「今日ここに来たのは、確認のためです。先生が本当にそういう人間なのか」
耕平が、樹をまっすぐに見た。
「確認できました」
そして静かに、でも一言一言を刻むように言った。
「心底、見損ないました」
耕平は振り返らずに、研究室を出て行った。
机の上に、証拠の資料が広がったままだった。
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次話へ続く