夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第五話 決着

 その夜、黒瀬 幸子の家のインターホンが鳴った。

 居間に一人でいた幸子は、こんな時間に誰だろうと思いながらモニターを確認して、目を見開く。夫は腰の具合が悪く、寝室で休んでいた。

 玄関の外に、数人の人間が立っていた。カメラを持った男性、マイクを持った女性、そして手帳を持った男性。

 「黒瀬さんのお宅でしょうか。週刊閃光の者ですが、息子さんの黒瀬 樹先生の件で——」

 幸子はインターホンから手を離した。

 居間に戻って、座卓の前に腰を下ろす。

 テレビをつけると、ニュース速報のテロップが流れていた。

 *バイオインフォマティクス研究者・黒瀬 樹准教授、論文データ改ざん疑惑。不倫・婚外子問題も浮上か*

 幸子は画面を見つめたまま、動けなかった。

 不正。不倫。婚外子。

 一つひとつの言葉が、じわじわと頭の中に沁みていく。

 震える手でスマートフォンを持ち、息子に電話をかける。

 ——繋がった。

 「……母さん?」

 樹の声が、やや疲れていた。

 幸子はしばらく、何も言えなかった。

 「……樹さん」

 「うん」

 「今、テレビで見た。週刊誌の人まで来て——」

 「分かってる」

 「分かってるじゃないの!!」

 幸子の声が、裏返った。

 「不正って何!?不倫って何!?婚外子って——あなた、子供が出来たの?よその女の人との子供が!?」

 「母さん、落ち着いて——」

 「落ち着けるわけないでしょう!!」

 幸子の声が震えた。

 「黒瀬の家が、世間にどう見られると思ってるの!お父さんはまだ知らないけど、腰が悪くて寝てるのに、こんな話聞かせたらどうなるか——!」

 「……」

 「凜さんは? 今回のこと、凜さんはなんて言ってるの」

 「……凜が悪いんだ。あいつが」

 樹の声が、低くなった。

 「はっ?」

 「俺だって最初は頑張った。結婚した時は、本気でやろうと思ってた。なのに凜は妊娠しない。研究だって、あいつの研究を使おうとしたのに、うまくいかない。俺が論文を出せなかったのも、全部凜がちゃんとした研究を残してなかったからだ。あいつが研究を途中で投げ出したから、俺が苦労した」

 「……何を言ってるの」

 「母さんだって口を開けば孫、孫、孫——それがどれだけプレッシャーだったか分かるか。子供もできない、研究もうまくいかない、俺だって限界だったんだ」

 「樹さん——」

 「一年経っても、二年経っても、また駄目だって。母さんへの報告が、しんどかった。何もかも凜のせいで——」

 「ちょっと待ちなさい」

 幸子の声が、低くなった。

 「孫のことを急かしたのは、私も悪かった。それは認める。でも——」

 「でもじゃない! 俺は追い詰められてたんだ。誰も分かってくれなかった。母さんにプレッシャーかけられて、凜は妊娠しなくて、論文はうまくいかなくて——」

 「論文の不正と、凜さんの妊娠は関係ないでしょう!」

 幸子が声を上げた。

 「凜さんの研究を使ってって?どういうこと?データの改ざん?——それは凜さんのせいじゃない。あなた自身がやったことでしょう。それを全部凜さんのせいにして、外に女を作って、不倫だって——」

 「外に癒しを求めて何が悪い!!」

 樹が、被せるように叫んだ。

 幸子は、絶句した。

 「子供が欲しいなら作れ、孫が見たいなら早くしろ——そう言われ続けて、凜は妊娠しなくて、研究もうまくいかなくて。俺は追い詰められてたんだ。誰も分かってくれなかった。外に出て何が悪い」

 電話口に、沈黙が落ちた。

 「……樹さん」

 幸子の声は、静かだった。

 「子供ができないのは夫婦の問題でしょう。それを凜さんのせいにして、外に女を作って——黒瀬家の恥よ。お父さんが聞いたら何て言うか」

 返事がなかった。

 それきり、電話が切れた。

 幸子はしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。

 それから、ゆっくりと座卓に置く。

 テレビの画面には、まだニュース速報が流れている。

 夫の寝室から「大丈夫か」と声がして、幸子はため息をついた。

 「大丈夫よ。寝てて」

 返事はなかった。

 しばらく動けないまま座卓の前にいた幸子は、やがてゆっくりと立ち上がる。

 連絡先を開いて、ある名前を探した。

 凜の番号だった。

 電話をかけるかどうか、しばらく迷う。それから——かけなかった。

 今夜は、まだ早い。

 でも、いつかは。

 幸子は画面を閉じて、縁側から外を見た。夜の庭が、静かに広がっていた。

---

 研究不正調査委員会の結論が出たのは、申し立てから三ヶ月後のことだった。

 <黒瀬 樹准教授および花咲るな研究員による論文データの改ざんを認定。当該論文は撤回とする。>

 その一文が、研究者コミュニティのSNSで一気に拡散した。

---

 遡ること数週間前。

 凜は樹と、二人きりで向かい合っていた。

 リビングのテーブルを挟んで。いつもと同じ場所で。でも今夜は、いつもと違う。

 「話があります」

 凜が言うと、樹は静かに頷いた。その顔は憔悴していた。耕平に証拠を突きつけられてから、樹は別人のようにやつれている。

 「離婚してください」

 樹が、かすかに目を細めた。

 「……凜」

 「全部、知っています」

 凜の声は、静かだった。静かだったけれど——その奥に、五年分のものが詰まっていた。

 「私の研究を奪ったこと。生田さんの研究も奪ったこと。花咲さんとのこと。全部」

 樹は何も言わなかった。

 「だから——妻として、最後の務めを果たしました」

 凜は樹を見た。

 「大学の研究倫理委員会に、不正を報告しました。あなたの妻として、それが最後にできることだと思って」

 樹の顔が、かすかに歪んだ。

 「倫理的に正しい道から外れてしまったあなたを、そのままにしておくことはできなかった。それが、私にできる最後の——夫婦としての、務めです」

 「離婚してください」

 「……凜」

 「もう決めました」

 「待て」

 樹が立ち上がった。

 「お前、俺と離婚したら——朝比奈に拾ってもらうつもりか」

 「研究でお世話になっているだけです」

 「そうか? あいつのことを信用してるのか」

 樹の声に、嘲るような色が混じった。

 「あいつは女の噂が絶えない男だぞ。世間じゃ誠実そうに見えるかもしれないが、実際は次から次へと——お前みたいな世間慣れしてない女が物珍しいだけで、そのうち飽きられて捨てられるのがオチだ」

 凜は黙っていた。

 頭の中に、ふと、あの時のことが浮かぶ。

 八年前の学会。機材トラブル、とっさに差し出したハンカチ。

 それを——八年間、持っていてくれた人だ。

 あの学会での凜の研究を、ずっと大切にしていてくれた人だ。

 そういう人だと、凜は知っている。

 「……」

 凜は答えなかった。

 「凜、聞いてくれ」

 樹の声が、急に変わった。低く、すがるような声だった。

 「俺が間違ってた。全部、俺が悪かった。でも——るなは計算高い女だ。あいつが俺を誘惑して、丸め込んで、気づいたら抜けられなくなってた。あいつが悪いんだ。俺を見捨てないでくれ」

 凜はしばらく、樹を見ていた。

 かつて愛した顔だった。毎朝名前を呼んでくれた声の持ち主。頬に触れる手の温度を、今でも覚えている。

 「一つだけ、聞かせてください」

 凜は静かに言った。

 「なぜ——正直に頼んでくれなかったんですか」

 「……何が」

 「私の研究のことです」

 凜の声が、かすかに揺れた。

 「あなたが『一緒に使わせてほしい』と言ってくれれば——私は喜んで差し出しました。本当に、喜んで」

 樹が、黙った。

 「私が研究を始めたきっかけ、知ってるでしょ。遺伝子レベルで病気をもっと早く予測できれば——そう思って、ずっと研究してきた」

 凜の目が、じわりと潤んだ。

 「地位が欲しかったんじゃない。賞賛が欲しかったんじゃない。苦しむ人が一人でも減ればいいと、ただそれだけで研究してきた。だから——誰の名前で発表されても、それが誰かの役に立てるなら、構わなかった」

 「凜——」

 「でもあなたは頼んでくれなかった。盗んだ。私を家に閉じ込めて、研究から引き離して、昔の知人にも会わせないようにして——全部あなた一人の成果にしたかったから」

 凜の声が、静かに続いた。

 「あなたが小さい頃から、黒瀬家の跡取りとして期待され続けてきたこと——それがどれほど重かったか、私には分からない。でも、その重さを誰かから奪うことで埋めようとしたのなら、それは違う」

 樹は何も言えなかった。

 「父が亡くなった時、そばにいてくれたのはあなたでした」

 凜の目から、涙が一筋落ちた。

 「病院の廊下で、何も言わずに隣にいてくれた。泣く私の背中を、ずっと撫でてくれた。あの夜のことは——今でも感謝しています。あの温かさは、本物だったと今でも思っています。計算があったとしても」

 樹が、顔を上げた。

 「だから余計に——なぜ正直に頼んでくれなかったのかと、思います」

 凜はゆっくりと、立ち上がった。

 「さようなら、樹さん」

 樹は動かなかった。

 凜はリビングを出た。振り返らなかった。

 胸の中で、何かが静かに、でも確かに、終わっていた。

---

 出生前DNA検査の結果が出たのは、その二週間後だった。

 樹の弁護士から連絡が来た。

 るなの妊娠——樹の子ではなかった。

 後から分かったことだが、るなには樹の他にも関係を持っていた男性研究員がいた。検査の結果、そちらの子だということが判明した。

 樹がその知らせを受けた時の顔を、凜は見ていない。

 でも耕平から後で聞いた話によると、樹は研究室で一人、長い時間、動けなかったらしい。

---

 樹の処分は、速かった。

 論文の撤回、停職処分、そして事実上の研究者生命の終わり。不倫問題も週刊閃光に大々的に報じられ、大学内での立場は完全に失われた。

 るなも同様だった。

 研究員の職を失い、論文の共著者としての実績も全て消えた。自己保身のための虚偽発言も記録として残り、業界内での信頼は地に落ちた。

 さらに——HELIOSが、例の匿名SNS投稿について発信者情報開示請求を行っていた。調査の結果、投稿者が花咲 るなと判明した。名誉毀損として法的措置を取る方針だとHELIOSの広報が発表し、それもまたニュースになった。

 二人の関係は、あっけなく終わった。

 追い詰められた時、人は本性を見せる。樹はるなを切り捨て、るなは樹を告発した。最後まで計算高く動いた二人が、互いの計算によって潰し合った。

---

 離婚が成立したのは、新緑の季節のことだった。

 法律事務所を出て、凜は空を見上げた。

 眩しいほど青い空の下、街路樹の若葉が風に揺れている。

 泣けなかった。でも——胸の中で、何かが大きく広がった。空気が、違う。世界が、違って見えた。

 スマートフォンが振動した。

 御堂先生からだった。

 <凜くん、おめでとう。これからが本番だ。>

 凜は小さく笑った。

 そうだ。これからが本番だ。

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 それから半年後。

 氷室凜名義の論文が、国際的な医療データ解析の学術誌に掲載された。

 御堂 隆一郎、HELIOS-AURORA Projectとの共同研究。ゲノムデータと医療AIの融合における革新的なアプローチ。世界中の研究者が注目した。

 発表の翌日から、問い合わせが殺到した。海外の研究機関からの招待状、国際シンポジウムへの登壇依頼、共同研究の打診——五年前に途絶えたはずのキャリアが、一気に花開いた。

 HELIOSの研究室では、チームが歓声を上げた。

 「やりましたよ、氷室さん!!」

 田辺が叫んだ。凜は少し目を見開いた。

 氷室 凜。

 その名前で呼ばれるのが、まだ少し新鮮だった。でも——しっくりきた。

 これが、自分の名前だ。

 明美が目を真っ赤にして、深く頭を下げた。

 「おめでとうございます。本当に、おめでとうございます」

 「ありがとう、梨田さん」

 凜は明美を見た。最初は反発していた子が、今は涙を流して喜んでいる。

 胸が、温かかった。

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次話へ続く
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