夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第四話 記念日

 五年前の今日、凜は白いドレスを着ていた。

 結婚記念日というのは不思議なもので、当日になると決まってその朝のことを思い出す。誓いの言葉を読み上げる樹の顔。指輪をはめる時のわずかに震えた指先。あの日の樹は、凜だけを見ていた。

 ——現在。

 「ごめん、凜」

 朝食の途中で、樹がスマートフォンから目を上げた。

 「今日、夜はダメになった。研究室でトラブルがあって」

 凜は味噌汁の椀を置いた。

 「……今日、記念日だけど」

 「わかってる。本当に申し訳ない。来週、ちゃんと埋め合わせする」

 樹の声は誠実だった。目も真剣だった。嘘をついている顔には、どうにも見えなかった。

 「うん、わかった」

 凜はそう答えた。責める言葉が、出てこなかった。

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 樹を送り出した後、凜はしばらくソファに座っていた。

 別にいい。記念日なんて、ただの日付だ。二人の間にあるものは、カレンダーの一マスで変わるわけじゃない。そう思っていた。思おうとしていた。

 でも——リビングに差し込む朝の光の中で、凜はふと気がついた。

 今日一日、誰とも話さないかもしれない。

 それだけのことが、なぜか胸の奥に小さな穴を開けた。

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 午後になって、スマートフォンが鳴った。

 画面に「お義母さん」と表示されている。凜は少し息を整えてから、電話に出た。

 「凜さん、今よろしい?」

 黒瀬 幸子(くろせ さちこ)の声は、いつも通り品があって、それでいてどこか値踏みするような響きがある。結婚してから五年、凜はこの声に慣れようとしてきたけれど、慣れたとは言えなかった。

 「はい、大丈夫です」

 「樹さんから聞いたんだけど、今日は結婚記念日でしょう?ちゃんとお祝いしてもらってる?」

 「樹さんは今日、お仕事で……」

 「まあ」

 一瞬の間があった。その間に、色々なものが詰まっていた。

 「しょうがないわね、あの子は昔から仕事になると周りが見えなくなるんだから。凜さんも大変ね」

 同情とも嫌みともつかない言葉だった。凜は「いえ、大丈夫です」と返した。

 「そういえば、凜さん」

 幸子の声のトーンが、わずかに変わった。凜は背筋が自然と伸びる。

 「お体の方はどう?その……子供のことも含めて」

 来た、と思った。

 「おかげさまで、私は問題ないと言われています」

 「そう。樹さんの方は?」

 「……これから、二人で診てもらおうと話しています」

 また間があった。今度はさっきより少し長い。

 「凜さん、もうすぐ三十五でしょう。このままでは高齢出産になってしまうのよ。時間って、あるようでないの。樹さんに遠慮せずにちゃんと言いなさい。黒瀬の家に嫁いだんだから、それはあなたの務めでもあるんだから」

 務め。

 その言葉が、静かに胸に落ちた。愛情から産みたいと思っているのに、務めと言われると、何かが少しずれる感じがした。

 「はい、肝に銘じます」

 凜は笑顔を作って答えた。電話口でも、笑顔を作る癖が抜けない。

 「それとね」幸子は続けた。「あなたはもともとお仕事をされていたでしょう。頭のいい方だってわかってるわ。でも、家庭に入ったからには家庭に集中しなさい。中途半端が一番いけないの」

 凜は窓の外を見た。空が白く霞んでいた。

 中途半端。

 研究も辞めた。子供もまだいない。家事はこなしているけれど、それが「十分」かどうかは誰も言ってくれない。では今の自分は、何者なのだろう。

 「おっしゃる通りです」

 凜はそう答えた。

 電話が終わると、部屋がまた静かになった。

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 夕方、凜は夕飯の準備をする気になれなくて、ソファに座ったまま窓の外を眺めていた。

 所帯じみた。

 中途半端。

 務め。

 言葉が、頭の中でゆっくりと回った。どれも間違ってはいないのかもしれない。でもどれも、凜の胸のどこかにひっかかって、溶けないでいた。

 ——でも、樹がいる。

 凜は目を閉じた。樹はいい夫だ。忙しくても凜を気にかけてくれる。記念日を忘れたわけじゃない、仕事のトラブルは仕方がない。来週、ちゃんと埋め合わせすると言っていた。それを信じればいい。それだけでいい。

 スマートフォンに、樹からメッセージが届いた。

 遅くなりそう。先に寝ていて。ごめんな。

 凜は画面を見つめた。それから、短く返信した。

 わかった。気をつけて。

 送信して、スマートフォンを膝の上に置いた。

 気がついたら、うとうとしていた。

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 夢を見た。

 フレンチレストランだった。

 白いテーブルクロス、細いキャンドルの炎、窓の外に広がる夜景。最初の結婚記念日に、樹が連れてきてくれた場所だった。

 向かいに樹が座っていた。あの頃の樹だった。柔らかく笑って、凜だけを見ていた。

 「凜、幸せか」

 樹が言った。

 「うん」

 凜は答えた。本当にそう思っていた、あの頃は。

 ワインを口に運びながら、ふと窓の方に目をやった。

 夜景を背景に、自分の顔が映っていた。白いドレス、きちんと整えた髪。幸せそうな顔。

 でも——

 凜は目を細めた。

 窓に映る顔が、ゆっくりと、変わっていった。

 自分の顔じゃない。

 淡いピンクのドレス。ふんわりとした愛らしい顔。完璧な笑顔。

 花咲るなだった。

 「——っ」

 凜は飛び起きた。

 ソファだった。リビングのソファで、うたた寝していた。スマートフォンが膝から落ちていた。

 心臓が、速く打っていた。

 夢だ。ただの夢だ。

 凜は深呼吸をした。それから、ゆっくりと窓の方を見た。

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 暗くなった窓に、自分の輪郭が映っていた。

 記念日の夜、一人でソファに座っている女の姿が、ガラスの向こうに静かに浮かんでいた。

 しばらくして、タイムラインに通知が届いた。かつての研究仲間がリポストした投稿だった。何気なくタップすると、見覚えのあるフレンチレストランの写真が目に入った。都内の、少し高級な店。かつて樹と記念日に行ったことのある場所だった。

 素敵な夜を——

 そんな短いキャプションの下に、料理の写真が並んでいた。その一枚、テーブルを斜めに切り取った写真の端に、男性の手が写っていた。

 細くて長い指。袖口から覗くシャツの柄。

 凜はその手を、知っていた。

 画面を閉じた。

 気のせいだ。似ているだけだ。世の中に同じような手をした男性なんて、いくらでもいる。

 ——それでも。

 凜は再び窓の外を見た。自分の輪郭が、ガラスの向こうに静かに浮かんでいた。

 さっきの夢が、まだ頭の隅に残っていた。

 窓に映る自分の顔が、るなの顔に変わっていく、あの感覚。

 凜は目を逸らした。

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第一章 了
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