夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第二章 崩壊
第一話 始まりの話
氷室 凜が生命情報科学を志したのは、母の死がきっかけだった。
凜が十二歳の時、母は乳がんで亡くなった。発見が遅かった。治療の選択肢が限られていた。もっと早く、もっと正確に、遺伝子レベルで病気を予測できていたら——そう思い続けた十二歳の凜が、研究者への道を決めたのは自然なことだったかもしれない。
父は無口な人だった。母が亡くなってから、二人きりの家はより静かになった。でも父は凜のために働き続けた。凜も応えようとした。勉強した。ひたすら、勉強した。
その結果、凜は特待生として大学に入学した。学費免除。それが凜にとって、父への恩返しでもあった。
---
黒瀬 樹と初めて会ったのは、一年生の後期、必修の統計学の授業だった。
グループワークで同じ班になった。凜は端の席に座っていた。樹は三年生で、偶然同じ科目を履修していた。
「じゃあ、俺がまとめるね」
樹はそう言って、自然にリーダーの位置に立った。手際が良くて、声が通って、メンバーへの気配りも忘れない。凜はその横顔を見ながら、眩しいと思った。
こういう人がいるんだ、と思った。
発表が終わった後、樹が声をかけてきた。
「氷室さんのデータの整理、すごく論理的だったね。どこで学んだの」
「……独学です」
「独学で?」
樹が少し目を見開いた。それから、笑った。
「面白いね、きみ」
その笑顔が、眩しかった。
---
それから樹は何かと凜に声をかけてきた。
「面白い授業があるんだけど、一緒に取らない?御堂先生の講義。バイオインフォマティクスの第一人者で——凜ちゃんなら絶対気に入ると思う」
凜ちゃん、と呼ばれた時、少し胸が跳ねた。
御堂先生の講義は、衝撃だった。
ゲノムデータと疾患の関係、データ解析が医療を変える可能性、まだ誰も解いていない問いの数々——凜はノートを取る手が止まらなかった。お母さんの病気も、いつかこういう研究が解決できるかもしれない。そう思った瞬間、凜の中で何かが決まった。
「先生のゼミに入りたい」
講義の後、凜が言うと、樹が嬉しそうに笑った。
「俺も所属してるよ。一緒に入ろう」
---
御堂ゼミで、凜は変わった。
いや、正確には——凜の中にあったものが、解放された。
データを見る目、仮説を立てる力、論理の組み立て方。もともと凜の中にあったものが、御堂先生の指導で形になっていった。
「氷室は筋がいい」
御堂先生がそう言った時、樹の顔が一瞬だけ、かすかに動いた。
凜はそれを、見ていなかった。
---
樹から告白されたのは、ゼミに入って半年後のことだった。
「凜ちゃんのことが好きだ。付き合ってほしい」
真剣な目だった。凜は少し驚いた。でも——嬉しかった。
あの眩しかった人が、自分を見てくれている。
「……はい」
凜は答えた。
それが全ての始まりだった。
---
恋人になってから、二人は一緒に研究を進めた。
共同研究。データを共有して、議論して、論文を書いた。凜は樹のために全力を出した。樹のために良い研究をしたかった。
でも——いつの頃からか、樹の目が変わっていた。
凜が画期的なアプローチを思いついた時。御堂先生に褒められた時。他の研究者から注目された時。
樹の目が、かすかに——翳った。
凜はそれを、気のせいだと思っていた。
---
博士課程を修了して数年、凜は大学の研究室に助手として残り、研究を続けていた。
ちょうどその頃、樹は助教に昇格したばかりだった。御堂教授のゼミで頭角を現した樹は、周囲からも将来を嘱望されていた。凜はそんな樹を誇らしく思っていた。
後輩の指導をしながら、自分の研究も進めた。充実していた。これからも研究を続けていくつもりだった。
そんなある日、御堂先生が研究室に凜を呼んだ。
「凜くん、少し話がある」
穏やかな声だったが、どこか改まった空気があった。
「アメリカの大学から正式にオファーが来てな。来年度から、向こうで研究を続けることにした」
凜は、しばらく言葉が出なかった。
「……そうですか」
「凜くんの研究は本物だ。私がいなくても、続けなさい。君には力がある」
「……はい」
「黒瀬くんとも一緒にいるんだろう。支え合いながら、やっていけるはずだ」
凜は頷いた。でも胸の中で、何かが静かに揺れていた。
御堂先生がいなくなる。
研究を始めたきっかけを作ってくれた人が、遠くへ行く。
---
御堂先生が渡米して間もない頃、父から電話があった。
「凜、少し体の調子が悪くて」
父は昔からそういうことを言わない人だった。心配をかけまいとして、限界まで黙っている人だった。
「病院には行ったの」
「まあ、そのうち」
「すぐ行って」
その夜のうちに、凜は実家へ向かった。
父は思ったより、弱っていた。顔色が悪かった。仕事で無理をしていたのは分かっていたが——こんなに消耗しているとは思っていなかった。
入院することになった。
凜が病院の廊下で待っていると、樹が来た。連絡していなかったのに、来てくれた。
「聞いたよ。大丈夫か」
「……分からない」
樹が凜の隣に座った。
「お前は研究のことは気にしなくていい。今はお父さんのそばにいてやれ。データの整理とか、任せられることは俺がやる」
「でも——」
「いいから。俺に任せろ」
凜は樹を見た。真剣な顔だった。
「……ありがとう」
その言葉が、どれほど凜の心に染みたか。御堂先生もいなくなって、研究も不安で、父が倒れて——そういう時に、隣に来てくれる人がいる。
凜は樹を、本当に信頼していた。
---
父は、回復しなかった。
過労が積み重なっていた。入院から三ヶ月後、父は静かに逝った。
お母さんのところへ行ったんだ、と凜は思った。
葬儀は小さなものだった。父に友人は少なかった。母が亡くなってから、父は仕事と凜だけで生きてきた人だったから。
凜はずっと、泣けなかった。
泣き方を、忘れていた。
葬儀が終わって、実家に一人で残った夜。静かだった。お母さんがいなくなった時より、もっと静かだった。あの時はまだ父がいた。でも今は——誰もいない。
スマートフォンが鳴った。
樹だった。
「今、行っていいか」
凜は答えられなかった。
「……凜」
「……来てください」
樹が来た。何も言わなかった。ただ、凜の隣に座った。
「一人にはしないよ」
樹が静かに言った。
「俺がいる」
その三文字が、凜の胸に落ちた。
お母さんもいない。お父さんもいない。御堂先生も遠くにいる。
でも——樹がいる。
凜は俯いたまま、小さく頷いた。
あの夜、初めて泣けた。
---
次話へ続く
凜が十二歳の時、母は乳がんで亡くなった。発見が遅かった。治療の選択肢が限られていた。もっと早く、もっと正確に、遺伝子レベルで病気を予測できていたら——そう思い続けた十二歳の凜が、研究者への道を決めたのは自然なことだったかもしれない。
父は無口な人だった。母が亡くなってから、二人きりの家はより静かになった。でも父は凜のために働き続けた。凜も応えようとした。勉強した。ひたすら、勉強した。
その結果、凜は特待生として大学に入学した。学費免除。それが凜にとって、父への恩返しでもあった。
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黒瀬 樹と初めて会ったのは、一年生の後期、必修の統計学の授業だった。
グループワークで同じ班になった。凜は端の席に座っていた。樹は三年生で、偶然同じ科目を履修していた。
「じゃあ、俺がまとめるね」
樹はそう言って、自然にリーダーの位置に立った。手際が良くて、声が通って、メンバーへの気配りも忘れない。凜はその横顔を見ながら、眩しいと思った。
こういう人がいるんだ、と思った。
発表が終わった後、樹が声をかけてきた。
「氷室さんのデータの整理、すごく論理的だったね。どこで学んだの」
「……独学です」
「独学で?」
樹が少し目を見開いた。それから、笑った。
「面白いね、きみ」
その笑顔が、眩しかった。
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それから樹は何かと凜に声をかけてきた。
「面白い授業があるんだけど、一緒に取らない?御堂先生の講義。バイオインフォマティクスの第一人者で——凜ちゃんなら絶対気に入ると思う」
凜ちゃん、と呼ばれた時、少し胸が跳ねた。
御堂先生の講義は、衝撃だった。
ゲノムデータと疾患の関係、データ解析が医療を変える可能性、まだ誰も解いていない問いの数々——凜はノートを取る手が止まらなかった。お母さんの病気も、いつかこういう研究が解決できるかもしれない。そう思った瞬間、凜の中で何かが決まった。
「先生のゼミに入りたい」
講義の後、凜が言うと、樹が嬉しそうに笑った。
「俺も所属してるよ。一緒に入ろう」
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御堂ゼミで、凜は変わった。
いや、正確には——凜の中にあったものが、解放された。
データを見る目、仮説を立てる力、論理の組み立て方。もともと凜の中にあったものが、御堂先生の指導で形になっていった。
「氷室は筋がいい」
御堂先生がそう言った時、樹の顔が一瞬だけ、かすかに動いた。
凜はそれを、見ていなかった。
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樹から告白されたのは、ゼミに入って半年後のことだった。
「凜ちゃんのことが好きだ。付き合ってほしい」
真剣な目だった。凜は少し驚いた。でも——嬉しかった。
あの眩しかった人が、自分を見てくれている。
「……はい」
凜は答えた。
それが全ての始まりだった。
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恋人になってから、二人は一緒に研究を進めた。
共同研究。データを共有して、議論して、論文を書いた。凜は樹のために全力を出した。樹のために良い研究をしたかった。
でも——いつの頃からか、樹の目が変わっていた。
凜が画期的なアプローチを思いついた時。御堂先生に褒められた時。他の研究者から注目された時。
樹の目が、かすかに——翳った。
凜はそれを、気のせいだと思っていた。
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博士課程を修了して数年、凜は大学の研究室に助手として残り、研究を続けていた。
ちょうどその頃、樹は助教に昇格したばかりだった。御堂教授のゼミで頭角を現した樹は、周囲からも将来を嘱望されていた。凜はそんな樹を誇らしく思っていた。
後輩の指導をしながら、自分の研究も進めた。充実していた。これからも研究を続けていくつもりだった。
そんなある日、御堂先生が研究室に凜を呼んだ。
「凜くん、少し話がある」
穏やかな声だったが、どこか改まった空気があった。
「アメリカの大学から正式にオファーが来てな。来年度から、向こうで研究を続けることにした」
凜は、しばらく言葉が出なかった。
「……そうですか」
「凜くんの研究は本物だ。私がいなくても、続けなさい。君には力がある」
「……はい」
「黒瀬くんとも一緒にいるんだろう。支え合いながら、やっていけるはずだ」
凜は頷いた。でも胸の中で、何かが静かに揺れていた。
御堂先生がいなくなる。
研究を始めたきっかけを作ってくれた人が、遠くへ行く。
---
御堂先生が渡米して間もない頃、父から電話があった。
「凜、少し体の調子が悪くて」
父は昔からそういうことを言わない人だった。心配をかけまいとして、限界まで黙っている人だった。
「病院には行ったの」
「まあ、そのうち」
「すぐ行って」
その夜のうちに、凜は実家へ向かった。
父は思ったより、弱っていた。顔色が悪かった。仕事で無理をしていたのは分かっていたが——こんなに消耗しているとは思っていなかった。
入院することになった。
凜が病院の廊下で待っていると、樹が来た。連絡していなかったのに、来てくれた。
「聞いたよ。大丈夫か」
「……分からない」
樹が凜の隣に座った。
「お前は研究のことは気にしなくていい。今はお父さんのそばにいてやれ。データの整理とか、任せられることは俺がやる」
「でも——」
「いいから。俺に任せろ」
凜は樹を見た。真剣な顔だった。
「……ありがとう」
その言葉が、どれほど凜の心に染みたか。御堂先生もいなくなって、研究も不安で、父が倒れて——そういう時に、隣に来てくれる人がいる。
凜は樹を、本当に信頼していた。
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父は、回復しなかった。
過労が積み重なっていた。入院から三ヶ月後、父は静かに逝った。
お母さんのところへ行ったんだ、と凜は思った。
葬儀は小さなものだった。父に友人は少なかった。母が亡くなってから、父は仕事と凜だけで生きてきた人だったから。
凜はずっと、泣けなかった。
泣き方を、忘れていた。
葬儀が終わって、実家に一人で残った夜。静かだった。お母さんがいなくなった時より、もっと静かだった。あの時はまだ父がいた。でも今は——誰もいない。
スマートフォンが鳴った。
樹だった。
「今、行っていいか」
凜は答えられなかった。
「……凜」
「……来てください」
樹が来た。何も言わなかった。ただ、凜の隣に座った。
「一人にはしないよ」
樹が静かに言った。
「俺がいる」
その三文字が、凜の胸に落ちた。
お母さんもいない。お父さんもいない。御堂先生も遠くにいる。
でも——樹がいる。
凜は俯いたまま、小さく頷いた。
あの夜、初めて泣けた。
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次話へ続く