夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第二話 五年後の現実
父の一周忌が終わった夜、樹が言った。
「結婚しよう。凜には家にいてほしい。俺の隣で、ずっと」
凜は研究を続けたかった。でも——もう一人になりたくなかった。
樹のためなら、と思った。
愛していたから。
本当に、愛していたから。
そして——誰かのそばにいたかったから。
---
**五年後——**
黒瀬 凜は、不妊クリニックからの帰り道を歩いていた。
十二月の風は、容赦がなかった。
今日で七回目の通院だった。七回。数えるつもりはなかったのに、気がついたら頭の中で勝手に数えていた。
異常なし。今日も、同じ言葉だった。
奥様には問題ありません。あとはご主人の検査結果と合わせて——
合わせて。その言葉が、また頭の中で空回りした。
駅とは反対方向に足が向いたのは、特に理由があったわけじゃない。少し歩きたかっただけだ。冷たい空気を吸いながら、頭の中を空っぽにしたかった。
繁華街のはずれ、路地に面したフレンチレストランの前を通りかかったのは、偶然だった。
磨かれたガラス窓から温かい光が漏れている。落ち着いた佇まいの、少し高級な店。凜には見覚えがあった。樹と結婚して最初の記念日に来た場所だ。あの夜、樹は「ここが好きなんだ、特別な日に来たくて」と言っていた。
足が、自然と止まった。
懐かしいな、と思った。それだけのつもりだった。
ガラス窓の向こうに、人影が見えた。個室ではなく、半個室のような席。衝立越しに、二人分のシルエットが見える。男性と、女性。
男性の方が、少し身を乗り出すようにして笑った。
凜は、その笑い方を知っていた。
---
足が動かなかった。
見てはいけない、と思った。でも目が離せなかった。ガラス窓越しの、ぼんやりとした輪郭。男性が何か言うたびに、女性がくすくすと笑う。その笑い方も、凜は知っていた。
先日のパーティーで見た、完璧な笑顔。
花咲 るな。
頭の中で、何かがゆっくりと音を立てた。ガラスにひびが入るような、静かな音だった。
男性の手が、テーブルの上に置かれた女性の手に、そっと重なった。
凜はその手を、知っていた。細くて長い指。結婚指輪が、店の灯りを受けてかすかに光った。
——ああ。
声にはならなかった。胸の中で、何かが静かに、音もなく崩れた。
---
どれくらいそこに立っていたのか、分からなかった。
寒さも、周囲の人の流れも、何も感じなかった。ただガラス窓の向こうの光景だけが、頭の中に焼きついていた。
その時だった。
「失礼しました」
背後から肩をぶつけられて、凜は我に返った。
振り返ると、男性が立っていた。長身で、コートをさらりと着こなした、目を引く人だった。その隣に——凜は思わず目を瞬いた。
街灯の下でも際立つような整った顔立ちの女性だった。二人並んでいると、物語の中から抜け出してきたかのような美男美女で、凜は思わず見惚れた。
「大丈夫ですか」
長身の男性が、低い声で言った。凜はそちらに視線を戻した。
男性は凜の顔を見て、ほんの一瞬——何かをこらえるように、口を閉じた。
その距離で、ふと香りがした。
深くて、落ち着いた、ウッディな香り。主張しすぎず、でも確かにそこにある。夜の冷たい空気の中で、その香りだけが温かかった。
「……はい、すみません。ぼーっとしていて」
凜は小さく頭を下げた。なぜか顔が、かすかに熱かった。それだけだった。早く、この場所から離れたかった。
凜は歩き出した。人混みの中へ、足早に。
---
背後で何か言葉が続いたような気がしたけれど、凜は振り返らなかった。
ただ前だけを見て、歩き続けた。
---
マンションに帰り着いて、ドアを閉めた瞬間だった。
膝から、力が抜けた。
玄関の床に、そのままへたり込んだ。コートも脱がないまま、バッグも持ったまま。暗い玄関の中で、凜はしばらくそこから動けなかった。
泣けなかった。声も出なかった。ただ両手を床についたまま、呼吸だけをしていた。
どれくらいそうしていただろう。
やがて凜は、ゆっくりと立ち上がった。コートを脱いで、ハンガーにかけた。バッグを棚に置いた。キッチンに行って、水を一杯飲んだ。
何もなかったように。いつも通りに。
それが凜にできる、唯一のことだった。
スマートフォンに、樹からメッセージが届いた。
今日も遅くなる。先に寝ていて。
凜は画面を見つめた。
今夜、樹がどこにいるのか、凜にはもう分かっていた。
---
次話へ続く
「結婚しよう。凜には家にいてほしい。俺の隣で、ずっと」
凜は研究を続けたかった。でも——もう一人になりたくなかった。
樹のためなら、と思った。
愛していたから。
本当に、愛していたから。
そして——誰かのそばにいたかったから。
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**五年後——**
黒瀬 凜は、不妊クリニックからの帰り道を歩いていた。
十二月の風は、容赦がなかった。
今日で七回目の通院だった。七回。数えるつもりはなかったのに、気がついたら頭の中で勝手に数えていた。
異常なし。今日も、同じ言葉だった。
奥様には問題ありません。あとはご主人の検査結果と合わせて——
合わせて。その言葉が、また頭の中で空回りした。
駅とは反対方向に足が向いたのは、特に理由があったわけじゃない。少し歩きたかっただけだ。冷たい空気を吸いながら、頭の中を空っぽにしたかった。
繁華街のはずれ、路地に面したフレンチレストランの前を通りかかったのは、偶然だった。
磨かれたガラス窓から温かい光が漏れている。落ち着いた佇まいの、少し高級な店。凜には見覚えがあった。樹と結婚して最初の記念日に来た場所だ。あの夜、樹は「ここが好きなんだ、特別な日に来たくて」と言っていた。
足が、自然と止まった。
懐かしいな、と思った。それだけのつもりだった。
ガラス窓の向こうに、人影が見えた。個室ではなく、半個室のような席。衝立越しに、二人分のシルエットが見える。男性と、女性。
男性の方が、少し身を乗り出すようにして笑った。
凜は、その笑い方を知っていた。
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足が動かなかった。
見てはいけない、と思った。でも目が離せなかった。ガラス窓越しの、ぼんやりとした輪郭。男性が何か言うたびに、女性がくすくすと笑う。その笑い方も、凜は知っていた。
先日のパーティーで見た、完璧な笑顔。
花咲 るな。
頭の中で、何かがゆっくりと音を立てた。ガラスにひびが入るような、静かな音だった。
男性の手が、テーブルの上に置かれた女性の手に、そっと重なった。
凜はその手を、知っていた。細くて長い指。結婚指輪が、店の灯りを受けてかすかに光った。
——ああ。
声にはならなかった。胸の中で、何かが静かに、音もなく崩れた。
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どれくらいそこに立っていたのか、分からなかった。
寒さも、周囲の人の流れも、何も感じなかった。ただガラス窓の向こうの光景だけが、頭の中に焼きついていた。
その時だった。
「失礼しました」
背後から肩をぶつけられて、凜は我に返った。
振り返ると、男性が立っていた。長身で、コートをさらりと着こなした、目を引く人だった。その隣に——凜は思わず目を瞬いた。
街灯の下でも際立つような整った顔立ちの女性だった。二人並んでいると、物語の中から抜け出してきたかのような美男美女で、凜は思わず見惚れた。
「大丈夫ですか」
長身の男性が、低い声で言った。凜はそちらに視線を戻した。
男性は凜の顔を見て、ほんの一瞬——何かをこらえるように、口を閉じた。
その距離で、ふと香りがした。
深くて、落ち着いた、ウッディな香り。主張しすぎず、でも確かにそこにある。夜の冷たい空気の中で、その香りだけが温かかった。
「……はい、すみません。ぼーっとしていて」
凜は小さく頭を下げた。なぜか顔が、かすかに熱かった。それだけだった。早く、この場所から離れたかった。
凜は歩き出した。人混みの中へ、足早に。
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背後で何か言葉が続いたような気がしたけれど、凜は振り返らなかった。
ただ前だけを見て、歩き続けた。
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マンションに帰り着いて、ドアを閉めた瞬間だった。
膝から、力が抜けた。
玄関の床に、そのままへたり込んだ。コートも脱がないまま、バッグも持ったまま。暗い玄関の中で、凜はしばらくそこから動けなかった。
泣けなかった。声も出なかった。ただ両手を床についたまま、呼吸だけをしていた。
どれくらいそうしていただろう。
やがて凜は、ゆっくりと立ち上がった。コートを脱いで、ハンガーにかけた。バッグを棚に置いた。キッチンに行って、水を一杯飲んだ。
何もなかったように。いつも通りに。
それが凜にできる、唯一のことだった。
スマートフォンに、樹からメッセージが届いた。
今日も遅くなる。先に寝ていて。
凜は画面を見つめた。
今夜、樹がどこにいるのか、凜にはもう分かっていた。
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次話へ続く