夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第三話 それでも、あなたを

眠れなかった。

 当たり前だ、と凜は思った。天井を見つめたまま、何度寝返りを打っても、ガラス窓の向こうの光景が頭から離れなかった。あの手。あの笑い方。あの結婚指輪の光。

 隣で樹が寝ている。穏やかな寝息を立てて、いつも通りに。

 凜はその寝息を聞きながら、ずっと目を開けていた。

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 朝になった。

 凜はいつも通りにキッチンに立った。出汁を引いて、ご飯を炊いて、卵焼きを作った。何も変わらない朝の作業を、何も変わらない手順でこなした。

 樹が起きてきた。シャワーを浴びて、ワイシャツを着て、いつものように「いい匂い」と言いながらキッチンに入ってきた。凜の肩にさりげなく手を置いて、頬に軽くキスをした。

 何も変わらない。

 凜は「おはよう」と返した。自分でも驚くくらい、普通の声が出た。

 朝食の間、樹は今日の予定を話した。午前中は会議、午後は学生の論文指導。それから、ふと思い出したように言った。

 「そういえば、先月母さんの誕生日プレゼントに送ったカシミヤのストール、喜んでたよ。凜が選んでくれたやつ」

 「……そう、よかった」

 凜は相槌を打ちながら、樹の顔を見ていた。

 義父の具合はどうか、と聞いたことは一度もない。去年の秋に腰を痛めて入院したと聞いても、樹は「ふうん」と言っただけだった。気にするのは、ずっとお義母さんのことだけだ。

 ——それでも。

 嘘をついている顔を、探していた。

 見つけられなかった。

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 樹を送り出した後、凜はソファに座ったまま動けなかった。

 聞かなければ、と思った。でも聞くのが怖かった。答えが怖いのではなくて——答えを聞いても、何も変わらないのが怖かった。

 昨日見たものは、本当に樹だったのだろうか。ガラス窓越しのシルエット。似ている人なんて、いくらでもいる。見間違いかもしれない。そうだ、見間違いかもしれない。

 ——でも、あの手は。

 凜は自分の手を見た。結婚してから五年、何千回と触れてきた手。どこにいても、どんな暗さの中でも、見間違えるはずがなかった。

 夕方になっても、結論は出なかった。

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 その夜、樹は比較的早く帰ってきた。

 夕飯を食べ、お茶を飲み、いつも通りの夜が流れていった。凜は何度も言葉を飲み込んだ。言おうとするたびに、喉のあたりで何かが固まった。

 樹がソファでスマートフォンを見始めた頃、凜はようやく口を開いた。

 「ねえ、樹」

 「ん?」

 「昨日……あのお店の前を通ったの。私たちが最初の記念日に行った、あのフレンチの店」

 樹の手が、スマートフォンの上で止まった。

 ほんの一瞬だった。でも凜は見ていた。

 「そうか」

 樹は画面から目を上げた。穏やかな顔だった。動揺のかけらもない。

 「窓から……中に、人が見えて」

 「うん」

 「樹に、似た人がいた気がして」

 言葉を選びながら話す凜に、樹は静かに頷いた。責められているような顔は少しもしない。ただ真剣に、凜の話を聞いている。

 「……花咲さんと一緒だったか?」

 樹が先に言った。凜は息をのんだ。

 「昨日、花咲さんと夕飯を食べた。研究の打ち合わせが長引いて、近くの店に入ったんだ。ちょうどあの辺だったと思う」

 「……手が、重なってるのが見えた」

 凜の声は、自分でも驚くくらい静かだった。

 樹は少し目を伏せた。それから、ゆっくりと息を吐いた。

 「彼女、最近ちょっと精神的に不安定でな。研究のことで行き詰まってるみたいで。慰めようとして……軽率だったと思う。凜に誤解させてしまったなら、本当に申し訳ない」

 静かな声だった。誠実な目だった。

 凜は樹の顔を見つめた。

 嘘をついている顔を、また探した。

 また、見つけられなかった。

 「……そう」

 「ごめんな、凜。心配させて」

 樹が立ち上がって、凜の隣に座った。そのまま、凜の肩をそっと引き寄せた。

 「俺にはお前だけだ。それだけは信じてくれ」

 低くて、穏やかな声だった。

 凜は樹の胸に頭を預けたまま、目を閉じた。温かかった。いつもと同じ温度だった。

 信じたかった。

 信じようとした。

 ——でも。

 凜の胸の中で、何かがひっそりと音を立てた。ガラスのひびが、また少し広がるような音だった。

 樹の腕の中で、凜はただ静かに目を閉じていた。

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次話へ続く
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