夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第四話 深夜の声

薬がなかった。

 ベッドの中で目を開けたまま、黒瀬 凜は天井を見つめていた。いつもなら処方された薬が眠りへと引き込んでくれる。でも今夜は違った。次の受診は明日の予定で、手元の薬はちょうど昨夜で切れていた。

 受診が遅れたのは、自分のせいだった。

 あのレストランのガラス窓。重なった手。樹の笑い方。それが頭の中でぐるぐると回り続けて、予約を入れ直すことも、外に出ることも、何もかもが億劫になっていた。

 ——信じよう。

 凜は目を閉じた。樹はちゃんと説明してくれた。研究の打ち合わせで、るなが精神的に不安定で、慰めようとしただけだと。完璧な声で、真剣な目で。あれは嘘じゃない。そうに違いない。

 でも眠れなかった。

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 どれくらいそうしていただろう。

 リビングから、かすかに声が聞こえた。

 樹の声だった。低く、抑えた、でも確かに笑いを含んだ声。こんな深夜に、誰かと電話している。

 凜はそっとベッドから起き上がった。廊下に出る。リビングのドアが少し開いていて、声が漏れてくる。

 「——大丈夫だよ。凜は今頃ぐっすり寝てる」

 足が、止まった。

 「心療内科で睡眠薬処方してもらってるから。最初に俺が勧めたんだけどな、眠れないって言うから。まあ、都合がいいよな」

 くく、と笑う声がした。

 凜は呼吸を止めた。

 「あいつ、世間知らずだから。研究室の外のこと何も知らないまま育ってきたんだよ。研究以外は何もできない。俺がそう言い続けてきたし、本人もそう思ってる。パートに出たいとか言ってた時期もあったけど、お前には無理だって言い聞かせたら諦めた。扱いやすいんだよ、本当に」

 また笑い声がした。

 凜は壁に手をついた。足元がぐらついた気がした。

 「信じやすいしな。盲目的っていうか。だからあの時だって、ちょっと上手いこと言ってやったらコロッといったし」

 ——あの時。

 凜の頭の中で、何かが引っかかった。

 あの時、とはいつのことだ。昨日のことか。それとも——もっと前のことか。

 「研究のことも、結婚するって決めた時から全部うまくいってるし。あいつが気づくわけないよ。頭はいいけど、肝心なところで鈍いから」

 研究のこと。

 その言葉が、凜の胸に刺さった。

 研究のこと、とはどういう意味だ。

 「——樹?」

 凜は気がついたら声を出していた。

 リビングの中で、沈黙が落ちた。

 ドアが開いた。樹が立っていた。スマートフォンを手に持ったまま、画面を伏せて。その顔は一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——固まった。

 「……凜。起きてたのか」

 「薬が切れてて」

 凜は静かに答えた。自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。

 「そうか。ごめん、声がうるさかったか。研究室の後輩から急ぎの連絡が来て」

 「……あの時、って」

 凜は言った。

 樹の目が、かすかに揺れた。

 「何がうまくいってるって言ってたの。研究のことって、どういう意味」

 「……大した話じゃない。今進めてるプロジェクトのことだよ」

 「そう」

 凜は頷いた。それ以上、何も言わなかった。

 「寒いだろ、早く戻って寝ろ」

 樹が凜の肩に手を置いた。いつもと同じ温度だった。

 凜は寝室に戻った。ベッドに横になった。

 眠れなかった。

 あの時。研究のこと。全部うまくいってる。

 その言葉たちが、暗闇の中で静かに並んでいた。まだ意味は分からない。でも何かが、確かに、そこにある。

 凜は目を開けたまま、夜明けを待った。

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次話へ続く
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