ベリーズカフェ15周年記念オリジナル短編『幸せのバタートースト』坂井志緒/著
彼に連れられてやって来たのは、シャトー・ジャルダンだった。やって来たというより、戻って来たという方が正しい。

 駐車場に車でも取りに来たのかと思っていたのだが、駐車場には向かわず、エントランスからホテルの中に入り、時おり「お疲れ様です」と声をかけられながら奥の方へと歩いていく。

「ねぇ。家に行くんじゃなかったの?」

「うん。十八階のサービスアパートメントに住んでる」

「ん? それはつまり……ホテル住まいってこと?」

「まあ、そういうことになるかな。俺にとってはホテル住まいっていうより、職場住まいって感じだけど」

 ホテル住まいをしている人がいるということは、噂にこそ聞いたことがあるが、芸能人や有名実業家くらいで、こんな身近にいるとは思ってもみなかった。

 メインエレベーターホールを通過し、少し歩いたところにあるガラス扉を抜け、二基だけの小ぶりなエレベーターホールで足を止めた。雰囲気から従業員用というわけではなく、宿泊者専用のエレベーターのようだ。

「ここからは職場じゃなくて、プライベートだから」

 彼はそう言って、私の腰に腕を回した。

「う、うん」

 落ち着いていた心臓が、また高鳴りだす。これから私たちは、恋人として彼の部屋で過ごすのだと思ったら、期待と緊張でふわふわしてしまう。

 上品な音のチャイムが鳴って、右の扉が開いた。人が乗っているようで、彼が「まだだよ」と引き止めるように軽く腰を引き寄せる。中から出て来たのは、見覚えのあるブリュネットヘアの女性だった。

「ツカサ!」

 女性は彼を見るなり、目を輝かせて彼の名を呼んだ。全身の筋肉が引き()る。

「Salut, Camille(やあ、カミーユ)」

 彼が笑顔で応え、ふたりはなにやら親しげに話しはじめた。響きから推測するに、たぶんフランス語……だと思う。私にはふたりがなにを話しているかわからない。

 ふたりの顔を見比べながらオロオロしていると、彼が不意に私を抱き寄せ、こめかみにキスをした。すると彼女は目を輝かせて満面の笑みを浮かべ、両手を広げて私ごと彼にハグをした。

「Félicitations, Tsukasa !(おめでとう、ツカサ!)」

 え、これどういう状況? 私が目をパチクリしていると、美女は緑色の混じった綺麗な瞳で私を見つめ、私の頬に自分の頬を寄せてきた。これは……チークキス?

「Je vous souhaite beaucoup de bonheur tous les deux(ふたりの幸せを心から願ってるわ)」

 笑顔でなにかを告げ、キスを投げて、軽やかな足取りでガラス扉から出ていった。華やかなパフュームの、甘い香りを残して。

「今のって……さっき腕組んで歩いてた人だよね?」

「そう。彼女はカミーユ。うちのグループと提携してるフランスの航空会社の令嬢で、まだ十九歳」

「ええっ、十九歳⁉︎」

 欧米の子は大人びて見えると聞くが、まさかまだお酒すら飲めない年齢だったなんて。自分より十四歳も若い子に嫉妬したことが、今さらちょっと恥ずかしい。

「家族ぐるみの付き合いが長いんだ。親戚の子に近いかな。姪っ子みたいな」

 私の兄の子が今高校生だけれど、それに近しい感覚かもしれない。

 彼の話によると、カミーユにはかねてより「アジアをひとり旅したい」という願望があり、「シンガポールと日本なら」と家族の許可が出たそうだ。ちょうど出張とタイミングが重なったため、シンガポールで合流し、彼の帰国に合わせて一緒に日本へ来たのだという。

「つまり俺は、姪っ子のお守りをしてたってわけ」

 親しげだったのは、家族ぐるみの長い付き合いだから。腕を組んでいたのは、フランスの令嬢をエスコートしていたから。それがわかってホッとするのと同時に、ますます恥ずかしさが募る。

「早とちりしてごめんなさい……」

「そのおかげで今があるから、結果オーライってことで」
< 21 / 25 >

この作品をシェア

pagetop